2007/11/02

第7回|宮城聰氏+伊藤裕夫先生

※事務局より…第7回の講義も、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
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現代の舞台は違いを確認する場所である。多様性を表出する場所としての舞台、多様性を確認する場所として劇場がある。その多様性とは表面にあるものではなく、「のぞきこむ」ことで見えてくる。今回の講義で、もっとも印象に残ったことであり、宮城さんが繰り返し何度も語っていたことのように思う。
役者の個性を見出す方法という話があった。何人もの役者を舞台にあげる。そこでそれぞれの違いをどのように表現するか。「私服で来てください」という。すると皆がばらばらの服でやってくる。みんなが「違う」服装であることが一目でわかる。いっぽうで、一様に同じ燕尾服を着て並んでもらう。すると「同じ」服装であるからこそ、その人の持っている違いが、逆に表出してくることとなる。むしろ多様性とは、私服から「見える」多様さではなく、みんな同じ服装のとき、「のぞきこむ」ことではじめて見えてくるようなものではないだろうか。具体的なイメージを喚起されるこの例は、とても印象深く残った。
ここで、ふと思い浮かんだのは、就職試験のことである。面接であったり、説明会であったり、会場へ行くとみんな同じようなスーツを着て並んでいる。その光景を見るたびに「みんな同じで気持ちが悪い」という抵抗を感じていた。一言でいってしまえば多様性がないことへの違和感だ。しかし、もしかしたらそこに「同じ基準に並べられるからこそ分かってくることがある」という宮城さん的な戦略があったのだろうか。と、深読みしてしまうが、試験官はしたことがないので、はたしてそこまで「のぞきこんで」判断しているかは分からない(おそらくないと思うけれど)。が、ここには多様性をのぞきこまれることの怖さがあるようにも思う。つまり、のぞきこんだら、多様性がなかったということ。ならべると、かならず多様なものが見えてくると宮城さんは言っていたが、そんな悲観的なことを考えてしまう。就職試験の会場で感じた違和感は、「見えた」ものだったのか、「のぞきこんだ」末に見えたものだったのか。どうしても後者であったという不安をぬぐいさることができない。
このように多様性という言葉は宮城さんの講義で2つの意味を持っていた。見える多様性とのぞきこむ多様性。のぞきこむことで見つかる多様性とは、前者に比べて「のぞきこむ」という行為を超えてくるような強さをもった多様性ともいえるかもしれない。宮城さんの話は、うんうん、と何度もうなづきながら、そうだよねぇ、と共感しながら聞くことができた。しかし、よく考えて、とても怖い問いを突きつけられていることに気がついた。横並びにされて「のぞきこまれた」とき、あなたは多様な存在でいられますか、と。
宮城さんの話のような多様性を保持した社会は自分にとって理想の社会像であった。だが個人の問題として捉えなおし、自らの経験から周りを眺めたとき、そこに落差を感じざるをえない。しかし、このように落差を意識できたことが今回の講義ではとても重要なことだったと思う。理想像を確認することができ、そこへの落差も再確認することができた。これからは落差の隙間に落ちないように、それを意識しつつ、どのように埋めていくのか、少ないながらも一歩を踏み出していくことを考えていけばいいからだ。少なくとも、宮城さんも含め、後期の講義を通じてのゲストのみなさんは、そのように思い描く社会をもって、落差を意識しつつも、実践をしているからこそ、魅力的であったように思う。
(レポート作成:佐藤李青)

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