2008/12/04

紹介文●ゲスト講師3人をお招きした理由

今年度、数々のゲスト講師の最後を飾る次回の公開講座は、大阪と神戸から、第一線のアートの現場で活動されている三人をお迎えします。ここでは、この三人のこれまでの活動をごく簡単に紹介したうえで、なぜ、この三人を講座に招いたのか、その背景と趣旨を説明させていただきます。
神戸を拠点に活動されているアーティストの杉山知子さんは、1994年からC.A.P.(芸術と計画会議)の代表を務められています(2002年にNPO法人化)。ご自身の作家活動と並行して、神戸市内の遊休施設をアーティストのアトリエとして転用したCAP HOUSEを運営し、アーティスト・コミュニティの拠点を形成されてきました。
神戸と大阪で活動されている木ノ下智恵子さんは、現在、大阪大学のコミュニケーションデザイン・センターの特任講師を務められており、大阪の都心部を中心に、さまざまなアートプロジェクトやカフェイベントの企画制作を手掛けられています。また、長らく神戸アートヴィレッジセンターのアートプロデューサーとしても活動されてきました。
山口洋典さんは、浄土宗應典院の主幹でもあり、京都の同志社大学の教員もされています。應典院の境内には劇場設備を有する地域に開かれた施設があり、そこで大阪の若い演劇人たちの人材育成や作品発表が展開されています。また、「大阪でアーツカウンシルをつくる会」の世話人としても活動されています。
さて、この三人を「市民社会再生」をテーマとする本講座にお招きしたのは、昨今の関西における文化を取り巻く事情を抜きにしては語れません。
昨年度の公開講座でも、NPO法人DANCE BOXの大谷さんから、大阪市の行財政改革の荒波によって、活動拠点だったフェスティバルゲートからの撤退を余儀なくされた話を伺いました。その後DANCE BOXは、大阪市からの提案により代替施設に移転したものの、そこも短期間の退去となり、最近、神戸市からの申し出によって、拠点となるスペースを構えることができたそうです。
また、みなさんご承知のとおり、大阪府においても知事からのトップダウンの財政改革によって、大阪センチュリー交響楽団の存続問題に代表されるように、文化団体や文化施設の財政危機だけでなく、その存在意義そのものに疑問を投げかけられている状況です。
さらには、滋賀県では県立芸術劇場であるびわ湖ホールの運営予算について県知事と県議会とが対立し、「福祉か文化か」といった二者択一の議論に発展する一方で、県民だけでなく、全国の芸術関係者や芸術団体による署名運動が展開されました。
以上のような関西の文化事情は、個々の問題についての当事者の意見や立場の違いによる見解の相違を検証することは可能です。しかし、より重要なことは、「そもそも市民社会にとって文化の役割とは何か、そしてその役割を、誰が、どこまで担うのか」を語るべきではないでしょうか。
三人の共通は、関西で活動すること、芸術の現場に関わっていること、何らかのコミュニティの媒介を担っていること、そして非営利の公益活動を実践していることです。そうした立場から、市民社会における「文化の射程」を、どこまで広げているのか。あるいは、市民社会再生の芽生えが、どのような形で見えてきているか。短い時間ではありますが、熱く語っていただきたいと思っています。(大澤寅雄)

2008/11/07

レポート|事例1 田中泯(舞踏家・振付家・農業者)

2008年10月31日は後期の事例1として舞踏家・振付家・農業者である田中泯氏をお迎えしました。「しゃべっていてあきちゃうんですよね」という言葉から始まった講義ですが、インドネシアでの「場踊り」のお話しや、前回の沼野先生の公演を事前に聞かれた上で、それと絡めてお話してくださるところもあり、また逆に木下先生に質問されるなど、田中氏の人柄が感じられました。最後には、田中氏の行っているワークショップの様子を映像とともにご紹介くださいました。
前回の沼野先生の講義と絡めては、越境についてお話いただきました。境界には、見える境界と見えない境界があるのではないかと仰って、それぞれを説明してくださいました。
見える境界は、大人数で意思・思考を働かせやすいもの。それは、例えば株を買うとか、地所を増やすなどの、「所有する」こと、自分の「持てる境界線」を広げたいということとも関わってきます。また、優劣・勝敗など「向こう側に行きたい」と思わせるこれらのくくりに関しても、ボーダーが見えるのではないかと仰っていました。一方、見えない境界は、大勢で対処しにくいものだとします。田中氏は、認否人のことを「人間のボーダーからはずされた人」と表現し、人でないばっかりに許されたことができたのではないかと仰いました。そして、ご自身は「できれば、こっから先があっちだな」と感じられる、ボーダーラインに立ってしまっている状態を実践したいと仰いました。
ここで、「市民社会再生」に言及。
人間:ヒト社会の中で、社会を前提とした存在(つまり人非人は「人間じゃない」と言われて当然だと位置付けられる。けど、踊りがすごくなれればそっちのがいいな)
市民:ポジティブに社会に参加している人間
・・・現在生きている人間たちの文化ということ?
木下先生「人をどういう風に呼ぶのか。社会の構成員であり、社会に対してポジティブに何か変えていきたいと主体的に関わる人のこと。かつて輝いていた言葉で、今はあまりつかわれない言葉を選んだ。」
「市民社会再生」の受講生の多くが引っかかっているであろう、これらの言葉について、逆に木下先生に質問されました。
その上で、生まれた瞬間に空気を吸うようになることが、地球上の営みに参加したことになるという点で大転換だと仰いました。空気は境界のないものの最たるもの、しかし今でも境界のないものなんて多くあるといいます。そして、所有と越境の絡まりを、身体に引き付けて話してくださいました。
「自分」というもの―からだという環境―を持ちながら、それと一緒に歩き死んでいくのであって、からだの中に記憶がある、という言葉はとても印象的です。からだが自分の一番近くにあるブツであり、最初で最後の砦であって、そのことはとても大きなことなのだということ。一方で、自分のからだを自由に使い「自分」から自由になることは、自意識過剰になってしまうことと表裏一体で、自意識がおこるとできなくなってしまうといいます。それはトランスしてしまってはだめで、だけど覚醒状態にあるということが大切だということです。
記憶と身体(とコミュニティー)は、後期のキーワードですが、私はこれらがどう結びついていくのか、まだよく分からないでいます。ただ、からだのことをこんなに大切にしていいんだ!という驚きというか、疎かにしてきたつもりではないにせよ、自分の記憶として、からだに向き合ったことがなかったことに、(大げさでなく)気付かされました。これは、もちろん人によるのかもしれません。グループディスカッションの場では、表現の形としてからだを通す経験をされた方は、私が驚いていることが不思議だったようです。では私は、からだを持った存在としての相手も、見てこなかったのでしょうか。はた、とまた驚いてしまいます。ワークショップの様子を映しながら解説してくださった、見えていることの乱暴さということはこういうことでしょうか。
「ダンサーという性質から」と前置きしてから「一瞬よりもちょっと長い永遠」と仰いました。時間をどう感じながら生きているのかということのために自分が選んだ表現だといいます。しかし、「泯さんはダンサーだから」とか、「泯さんだから」という視点からこの講義をとらえることがはばかられてしまうのは、私だけでしょうか。
この講義で、ちょっとからだに興味をもってしまった方もいらっしゃるでしょう。そういえばそんなサークルもあったっけ、という人々に向けて、サークルの活動報告もぜひしていただきたく思います。
(宮川智美)

レポート|基調講演 沼野充義(ロシア東欧文学)

2008年10月24日、後期第2回目は沼野充義先生(東京大学文学部教授、ロシア東欧文学・世界文学論)による基調講演でした。タイトルは、「とどまることと越えていくこと―故郷、境界、越境について」。配られたレジュメには、①現代的現象(?)としての「越境」、②二つのノーベル文学賞受賞スピーチ―日本とその境界、③亡命文学―その光と悲惨、④日本文学の「境界」、と記されています。ここでは、簡単に(そして主観的に)講演の概要をふりかえりたいと思います。
①現代的現象(?)としての「越境」では、冷戦終結後、世界は一元化していくのか、それとも多様化していくのかという問題提起がありました。例として挙げられたのは、インターネットの普及に伴う「英語」の世界共通言語化です。しかし英語だけが世界中に浸透していったわけではなく、各地の言語にあわせてコンピューターの仕様を変換するという現象が同時に起こってきます。世界的な一元化と並行して多様化が進行するのです。したがって、あれかこれかという単なる二者択一ではなく、そのはざまの中に私達は位置していると言えるのではないでしょうか。また、中国からフランスへ亡命した高行健氏やドイツと日本の空間及び言語を自由に往来する多和田葉子氏などの例からわかるように、文化の領域で「国籍」を定めることが難しくなりつつある、というのも事実でしょう。
二つのノーベル文学賞受賞スピーチ(②)では、川端康成が「美しい日本の私」、大江健三郎氏が「あいまいな日本の私」というタイトルで各々の受賞スピーチを行った背景には世界と日本を区別する境界の変化が読み取れることをご教示いただきました。自分を規定(定義)するとは境界を定めること、という先生のお言葉に、しばしば「私って○○な人間なんで〜」と言う人は、その発言によって自分の境界を無意識のうちに作り出し、その中に自分自身をつなぎとめようとしているのではないかなどと考えました。
③の「亡命文学―その栄光と悲惨」については時間の制約があり詳しくは触れられなかったのですが、過去を向く「求心的なもの」と「遠心的なもの」として、過去に戻りたい・望郷の念・母語への愛着といった方向性と、反対に未知の領域を開拓してゆこうとする方向性を説明してくださいました。亡命とは境界を越えて出てゆくことですが、境界が曖昧になりつつある現在でも、越境することはやはり簡単ではないように思われます。内にとどまろうとするのか、外に出て行こうとするのか。ここでも①と同様、二極のどちらか一方向に進んでゆくわけではなく、単純には語り得ないということが露わになりました。
日本文学の「境界」(④)では、日本語で書き、日本語で読まれることを前提とした日本文学というものと世界文学との境界が曖昧になってきているというご指摘がありました。芥川賞受賞が記憶に新しい楊逸氏の使った「汗玉」という表現などを例に、ちょっと違和感を覚えるような表現を切り捨てるのか、それともその差異にこそ新しい表現の可能性を見出してゆくのか、という問いかけがありました。執筆・発表する言語や表現方法、記憶など、これまで自明のこととして共有されてきた前提が今揺らいでいるのでしょう。
コミュニティとは、「何かを共通にもっている」者の集まりであるといいます。人・物・情報そして文化も移動する時代にあって、今私達は何を共有しどのようなコミュニティを築こうとしているのでしょうか。「公共性・多様性・マイノリティ」という前期のテーマから「記憶・身体・コミュニティ」という後期のテーマへのつながり、そして広がりを感じさせられる基調講演でした。
講演の内容自体は奥深いものでしたが、穏やかでかつ随所にユーモアを交えた沼野先生のお話に会場の空気は終始和やかでした。質疑応答も盛り上がり、中には川端の「美しい日本の私」と大江の「あいまいな日本の私」にひっかけて、「夏目漱石がノーベル賞を受賞したとしたら、どのようなタイトルで受賞スピーチをしたと思うか」というような珍(?)質問も飛び出しました。
ちなみに、沼野先生は「可笑しい日本のあなた」という文章を『200X年 文学の旅』(作品社、2005年)に書いていらっしゃいます。柴田元幸先生(英米文学、翻訳論)との共著です。読書の秋、興味をもたれた方は是非ご一読ください。
質疑応答のあとは、早速“サークル”のメンバー募集が3件ありました。
これからどの“サークル”に入るか、はたまた自ら旗揚げするか。悩みどころですが、自らの「境界」を定めず、寧ろ普段はあまり関わらないような分野の活動に「越境」を試みるのも良いかも知れません。
(三石恵莉)

2008/11/04

感想文●渡部泰明「身の表現としての和歌」

次回(11月7日)の講座講師のお一人である渡部泰明先生は、もう一人の講師野田秀樹さんが夢の遊眠社を立ち上げられた際に一緒に活動をされていました。今回、公開講座に先立ち先生の「身の表現としての和歌」(『和歌をひらく第一巻 和歌の力』所収)を拝読しました。その中で展開されていた「演じられる和歌論」とでもいうべき論がとても興味深く、先生の研究テーマの「和歌」と演劇をつなぐヒントになるのではないかと考え、ご紹介させていただきます。
本文では『古今和歌集』仮名序・『無名抄』・藤原俊成・藤原定家・二条為世と京極派の時代を追って展開される和歌論の5例から、和歌における「さま」「姿」「風体」について論じられています。とだけ書くとたいへん分かりにくいですが、「和歌には人の心だけでなく世の中のすべてに影響を与える不思議な力がある」と主張する『古今和歌集』仮名序の文章に対し、なぜ和歌がそのような力をもつ存在になるのか、その経緯は、ということを考察した文章です。
仮名序で語られる「さま」とは公的な宮廷文学としての価値をもつ和歌の形です。詠まれた和歌それのみでなく、作者自身にも「さま」が相応していることが求められます。「作者の身が和歌の表現の中にすっかり溶け込むような、隙のない完全な演技」が必要なのです。これは「虚構の生」と呼ばれます。『無名抄』では、優美な仮構の姿を演じることを突き詰めた先に表れる余情が和歌の本質であると語られます。
藤原俊成・定家親子は、よい和歌を詠むためには「古来の歌の姿」=「風体」を身につけることが必要であるといっています。それはたとえばあたかも『枕草子』の中で描かれていそうな具体的・典型的・和歌的な空間を描出し、自分がその中に身を置いているような感覚をもつことによって「姿」を実感すること。そうして想像力を広げ、新たな表現の可能性を探るべきことです。ここで、定家の著作であるとされる『毎月抄』が定家になりかわった何者かが書いたものであり、定家の思想のもとに和歌を学ぶ人を教育しようとするものである可能性が示されます。そこには「姿」「風体」を実感する、演じることを求める書がまた演じられているという二重構造があります。
鎌倉時代の二条為世は、上で見てきたような伝統的な発想から読まれた和歌がどれも同じようでありながら一人ひとりの個性を逆に強調すると語ります。「古来の歌の姿」を追い「虚構の生」を演じることがここでも求められます。
題を与えられたうえで詠むことが殆どである和歌は、その表現に強い虚構性を持ちます。和歌は「身の表現としての性格があり、演技性をもつ作者の振る舞いを表現するもの」です。それはどのような立場の歌人にとっても同じであるといえます。和歌のもつ不思議な力を与える条件を演じるということに結びつけて展開される論に、渡辺先生の演劇人としての一面を見たように思いました。(赤星友香)

感想文●野田秀樹「駄文集大成 おねえさんといっしょ」

公開講座後半も4回目。11月7日の講座には演劇界のトップランナーとしてご活躍中の野田秀樹さんがいらっしゃり、人文社会系研究科日本文化研究専攻で、野田さんと演劇の活動もされていた渡部泰明先生が、さまざまなお話を引き出してくださいます。お二人は一緒に夢の遊眠社を立ち上げられたとのことなので、私個人的には活動当初のことや当時のエピソードをお聞きしたいと考えています。
野田さんの書かれた文庫本、『駄文集大成 おねえさんといっしょ』(新潮文庫)を、先日ふと手に取りました。だいぶ前に出されたものですが、コンパクトかつ多岐にわたる野田さんの活動が紹介されています。昭和60年4月から62年3月まで「膝小僧時代」昭和62年4月から8月まで『小説新潮』に連載されたエッセイや、中村勘九郎さん、扇田昭彦さんら演劇人との対談、その他もろもろ多種多様な文章がまとめられており、当時、野田さんが演劇で挑戦したかったこと、作家に関しての考察、演劇をとりまく環境についてなど書かれています。
中でも衝撃的なのが有名人をドラマティックに紹介しているエッセイ! 美空ひばりや松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄などの個性豊かな人たちを紹介するのに、いつの間にかにショートストーリーが出来上がっていて、エッセイだけれど短編小説? と思うほどです。紹介する人物の日常では到底ありえない世界をつくりあげ、そこにイキイキと人物を描きだす。すると、いつの間にか、そのありえない世界の中で人物が歩き出していて、最終的には「あっ、そうだよね、この人、きっと!」といった感じで読者を納得させてしまう。それも松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄ですよ! 皆、ありきたりの言葉では語りきれない個性的な人ばかり。たった数ページのエッセイで、これをやり遂げてしまう野田さんの表現力に、私はただただ驚くばかりでした。
そしてこれが演劇の脚本になるとどうでしょう。エッセイで取り上げた人たちに劣らず個性的な登場人物が複数出てきて、それぞれが、それぞれの道を歩き出し、巡り合い、ぶつかりあう。それはいったいどのような話でしょうか? これは考えても、なかなかわかるものではありません。舞台を見て、初めてわかるのかもしれません。来年年明けに、野田さんの新作『パイパー』が上演されます。それも舞台は1000年後の火星!? まずは、ちょっと手軽な宇宙旅行に渋谷へ参り、考えてみようと思います。(有賀沙織)

2008/10/23

感想文●田中泯 出演作品「たそがれ清兵衛」「メゾンドヒミコ」

後期第2回、10月31日の公開講座に向けて、講師にお迎えする田中泯さんの出演作品を鑑賞しました。
田中泯さんは、世界的に知られる舞踏家で振付師です。…と、同時に山梨県北杜市白州町で1985年に「身体気象農場」を開設され、97年には同県甲斐市上芹沢に「舞踏資源研究所/桃花村」を設立。農業と舞踊を同時に実践される農業者でもいらっしゃいます。
舞踏においては、土方巽の作品に参加されるなど、すでにそのご活動の様子はよく知られていましたが、その名がそれまで舞踏の世界に接したことのなかった多くの人々(まさに私のように)の知るところとなったのは、映画への出演がありました。今回は、その映画作品のなかから、代表作である標記2作品を取り上げ、ご紹介します。
2作品ともひじょうに有名で、人気のある作品ですので、ご覧になった受講生の皆さんも多いかと思います(まだの方はぜひ!)。田中さんの役どころは、「たそがれ」では主人公の敵役・余吾善右門、「ヒミコ」では主人公の父で、ゲイの老人ホームを経営する卑弥呼を演じられています。この2つの役だけで田中さんを語るには足りなさ過ぎることは十分承知のうえで、あえていうなら、どちらの役もその存在感に「ゾクゾクする」ということ。いずれも、出演者情報では3番目にでてくるような役どころですが、総出演“時間”は他の脇役さんより少なめです。特に余吾善右門は、途中に少しと最後に登場して、終始暗いアングルなので表情が見えにくいような気さえします。それでも、迫力のある決闘シーンの立ち回り、憂いと怒りと悲しみが同居したたたずまいに、初映画出演となった同作品で日本アカデミー助演男優賞を受賞されたのも納得です。恥ずかしながら舞踏の知識はほとんどありませんが、切られた善右門が最後に悶絶して倒れるシーンには、舞踏の要素がぎゅっと凝縮されているような、力強さが感じられます。
一方の「ヒミコ」は、そうした舞踏家の「動」のイメージとは逆に、末期がんにおかされほとんどをベッドですごす「静」の役どころ。田中さんも、はじめの記者会見では「舞踏家が寝てるばかりじゃあ」とボヤかれたそうですが、映画になったのを見たときは、「踊っているときの感覚が見えた」※そうです 。ますます舞踏の世界の奥深さを感じます。コワイのか、やさしいのか、寂しいのか・・・最後までとらえどころのない卑弥呼ですが、死の間際に、娘である主人公に向かって、『本当のことを言うわ・・・』とじっと見開いた目で漏らす、『・・・あなたが、好きよ・・・』の一言は、まさに究極のゾクゾク感。それは、怖いとかドキドキするとかそういう陳腐な言葉ではもはや表せない、フシギな感覚を私たちにもたらす演技です。
舞踏や農業のくらしがどのように結実して、かの役たちをつくりだしていったのか、30日はぜひその一端が伺えるといいなと、いまから楽しみに思います。(横山梓)
※ クロワッサン2008年2月25日号 インタビューより

レポート|オリエンテーション 小林真理(文化資源学)

10月10日、後期の開始を告げるオリエンテーションが小林真理先生(文化資源学)からありました。ここではごく簡単に振り返ってみます。
まず、後期のテーマは「記憶・身体・コミュニティ」ですが、前期のテーマ「公共性・多様性・マイノリティ」も引き続き講座の根底に流れているということを確認しました。
次に、この公開講座を実施していることについて、問題意識を共有する人と集うことがまず大事だということを、小林先生自身の経験―ある制度についての意見をインターネット上で呼びかけたら、たくさんの反応があったということなどを交えて語ってくださいました。そして、なぜこの国は文化の問題を重視しないのか?という問いに行政側だけに「○○すべき」という価値判断させることを許してしまう市民の姿勢にも問題がある、と指摘しました。この講座では、より多くの人が豊かに生きていくために、自分たちは何ができるのか?をひとりひとりが自分に問い直すことが求められています。
議論を深めるために、基調講演や事例を話してくださる講師の方々について、なぜこの方を選んだのかについても触れられました。さまざまな分野で活躍されている講師のみなさんのお話を聞くのはとても楽しみですね。
大澤さんから後期の講座の進み方、最終課題についての説明もありました。前期のグループとは別に、新たなA~Jグループが編成され、講義を聴いたあとにディスカッションを行います。またそのグループとは別に「サークル活動」としてより関心の近い仲間同士が集まり、グループワークを行うことになりました。そして「あなた自身が実践できる市民社会再生」をひとりずつ表明するという課題が出されました。
それから、新しいグループごとに挨拶が交わされ、ディスカッションを進行する際のリーダー・サブリーダーを決めました。後期もそれぞれ個性豊かなグループができあがりました。ちなみに前期のグループのメーリングリストは今でも有効だそうなので、新しいグループの関係を育みつつ、前期のグループワークを通して絆を培った方々とも交流を続けていければ、と思います。小林先生が最初に触れ、ほかの運営委員の方からもお話があった通り、人間関係自体が大切な資源です。盛りだくさんで大変なこともあると思いますが、たくさんの出会いを楽しみ、このミニ「市民社会」を大いに盛り上げ、日常生活の糧としましょう。前期から引き続きの方も、後期からご参加の方も、どうぞよろしくお願いいたします!(池田香織)

2008/10/10

著書の紹介|沼野充義

次回、10月24日(金)の第8回講座の講師、沼野充義先生の著書を紹介します。

徹夜の塊-亡命文学論
作品社、2002
ユートピア文学論-徹夜の塊
作品社、2003
屋根の上のバイリンガル
白水社、1996
スタニスワフ・レム『ソラリス』(訳書)
国書刊行会、2004

感想文●沼野充義「亡命文学論」

後期第二回目、10月24日の沼野充義先生の講義へ向けて『徹夜の塊-亡命文学論』(作品社、2002年)を拝読しました。この本は、沼野先生によって書かれたロシア東欧の「亡命作家」についての文章が、まとめられ、再構成されて新たに一冊の書物になったものです。
わたしはロシア東欧の歴史についてあまり知識がないまま読み進めてしまったのですが、亡命ということを軸に集められた、作家・作品の紹介文のように読むことができました。本文では、数多くの亡命作家について、その理由や状況、それぞれに異なる亡命のあり方、または、亡命作家の作家としての活動にまつわる内面的なことがらや、活動を取り巻く枠組についてなど、幅広い内容が書かれています。
みなさんは「亡命」という言葉を聞いてどのようなことをイメージされるでしょうか。現代の日本において、「亡命」ということを自分自身に関係のあるものとして、ごく身近なものとして考えたことのある人は大変少ないのではないだろうかと思われます。先生も本文中で指摘されていることですが、漠然と何かロマンティックな響きを感じる人も多いと思われます。私自身もタイトルの「亡命」という言葉にはるかに遠い土地での出来事を遠くからうっすらと見るような感覚を持ちました。しかし、本文において先生は「亡命」という状態に含まれるわたしたち人間の全員にかかわりある「究極の問い」を指摘されています。その問いとは、私たちの人間の生の「起源」と「終末」についてです。私たちはその問いのどちらも確かめることはできないで「起源」と「終末」の「間」の時間を生きています。亡命者が「ユートピア」を離れもう一つの新たな「ユートピア」求めてさすらい、その「『間』を漂い続ける」ということに、私たちの生のあり方の原型を見ることができると指摘されています。
前期・夏休み課題を通じて、ひとの集まり、それを作り出すこと、支える枠組みなどについて考える機会がたくさんあったように思います。さて、本書で取り上げられている「亡命」は集まりや枠組みの境を飛び越えようとする力によるものと考えられます。ご自身も亡命者のように越境と回帰を繰り返してこられたという沼野先生が、どのような切り口で「市民社会」あるいは「文化の射程」ということについてお話くださるのか大変楽しみに思います!(木下紗耶子)

後期オリエンテーション

■後期スケジュール
後期7回 記憶・身体・コミュニティ
10/10(金)オリエンテーション|小林真理(文化資源学)
10/24(金)基調講演|沼野充義(ロシア・東欧文学)
10/31(金)事例1|田中 泯(舞踊家・振付家・農業者)
11/ 7(金)事例2|野田秀樹(劇作家・演出家 )渡部泰明(国文学)
11/21(金)事例3|鳥越けい子(サウンドスケープ)
12/ 5(金)事例4|杉山知子/木ノ下智恵子/山口洋典
   (C.A.P./大阪大学コミュニケーションデザインセンター/浄土宗應典院)
1/ 9(金)グループワーク発表

■基本的な授業の流れ
授業開始前(18:40まで)に教室前で出席を確認
(出席カード提出、押印、リストのチェック)
18:40 開始
 講義(60分)
 グループディスカッション(15分)
 質疑応答(25分)
20:20 終了

■グループ編成の説明
受講生はA〜Jの10のグループに分かれて着席します(概ね前期の出席状況からグループごとの出席率が均等になるよう配慮しました)。
グループは、各回の講義での意見交換や質問の集約など、受講生の積極的な参加による双方向の授業を行うために編成します。
1つのグループは10人前後で編成し、公開講座の運営委員とアシスタントを配置しています。
グループ内で、議論をリードする「グループリーダー」「サブリーダー」を決めてください。

■サークル編成の説明
講義時間内の「グループ」とは別に、講義以外の時間も議論や情報交換を活発に行っていただくため、受講生の発案、発意による「サークル」を組織します。
後期の課題(後述)を見据えたアイデアを受講生・運営委員ともに出し合い、サークル単位で活動に取り組んでいただきます。
「サークル」は、毎回出席の受付周辺で掲示板を設置し、講義終了時間で呼びかけ、自主的に情報交換の手段を構築していただきます。

■レポートとコメント
各回の講義は、アシスタントが概要のレポートを作成し、ブログに掲載します。
ブログ上のレポートに対して、1グループにつき2人の受講生は、コメントを投稿して下さい(受講生全員が、前期と後期で必ず1回ずつはコメントを投稿して下さい)。
誰がコメントを投稿するのかは、グループの中で決めてください。
コメントの字数は200字程度とします。
ブログへのコメントの方法は、メールでインストラクションを行います。

■課題の説明
後期の課題は、下記の通りです。
「あなた自身が実践できる市民社会再生」に取り組み、その中で考察したことをA4×1枚のレポートにまとめて下さい。

レポートは、ウェブサイト上で公開します(基本的にお名前の公開を前提とします)。
最終回1/9(金)の後期グループワークの発表は、「サークル」ごとに発表します。
12/19(金)18時より、本教室をグループワーク準備のために提供します。
修了証は出欠+課題の提出で発行を決めます。
形式は自由ですが、各サークルごとにプレゼンテーションできるように体裁を揃えてください。
例えば、各自のレポートをWordファイルにまとめた報告書、画像を使ったPowerPointのプレゼンテーション、webサイトの制作など、創意工夫をしてください。
1月9日のグループワーク発表では、各グループごとに短いプレゼンテーションを行います。
発表されたプレゼンテーションは、公開講座のウェブサイトで発表します。

2008/09/11

前期グループワーク発表の概要

公開講座「市民社会再生」受講生の皆様、長らくご無沙汰しておりました。どのような夏休みを過ごされたでしょうか。
さて、この公開講座も前期の最後となるグループワークの発表会が、来週9月12日(金)に行われます。前期5回の講義を踏まえて「公共性・多様性・マイノリティ」という3つのキーワードから、各グループごとに様々な事例を発見し、考察していただきます。
みなさんは、この夏休みでどのような事例を発見したのでしょうか。発表の前に、各グループの発表の概要をご紹介しましょう。

A●Living Libraryを通じて

私たちAグループはまず各自で様々な事例を挙げることから始めました。その中からLiving Libraryという事例を取り上げることを選択しました。この事例を通して、日本において「市民社会」を築くための問題点を中心に提言しようと思います。5分という短い時間では議論し尽くせないために、続きはWEBで議論しましょう!Living Libraryに関する資料もここにあります。

AグループのWEB→http://d.hatena.ne.jp/CR-Agroup/

B●市民社会への「気づき」(仮題)

私たちBグループは、グループそのものが「ミニ市民社会」である、と初回の講座から話していました。そして9月12日発表に向けての打ち合わせをする中で、各人も場を移動すればマイノリティになりうる。市民社会再生の具体的な方法を示すことよりも、メンバーが集まって、議論する作業そのものに市民社会再生へのヒントが隠されているんじゃないか…と考えました。
今回の発表では、メンバー各々が出した「公共性・多様性・マイノリティ」について考えたきっかけとなった事例をダイジェスト版で紹介しながら、市民社会について、そこに参加する私たちの意識の持ち方について、何らかの“気づき”ができればと考えております。

<主な構成>
事例紹介:
(1) 世界遺産
(2) 考古学+地球資源関連
(3) 美術
(4) ポップス音楽
(5) 地域演劇
など

まとめ:
市民社会に参加する私たちはどうすることが望ましいのか? Bグループなりの考え方

2008/09/10

C●市民社会再生とは…

○Cグループの考え方
事例の列挙→キーワードを抽出→私たちが考える「市民社会」とは?
・・再生っていうけれど、再生すべき「市民社会」って何だ?
・・これまでの授業を踏まえてそれぞれが市民社会再生と感じるような事例を持ち寄り、検討することによって、「市民社会」を「再生」するために必要なことは何かに気付くのではないか?

○事例
 ・長野県南木曽町:妻籠宿の再生
 ・埼玉県志木市:昭和レトロでの地域社会再生
 ・秋田県大館市:アートプロジェクト「ゼロダテ」
 ・兵庫県芦屋市:南芦屋浜コミュニティ&アートプロジェクト
 ・東京都:東京マラソン(その他の市民マラソンも含めて)
 ・神奈川県川崎市:アジア/日本の人々の多文化共生

○抽出したキーワード
 ・地域   ・コミュニケーションのための場所、機会
 ・交流   ・マジョリティ/マイノリティ
 ・他者と自己を認識する

2008/09/09

D●公共放送とは何か?~NHK改革の事例から~(仮)

Dグループは、「公共性」「マイノリティ」「多様性」というキーワードに深く関わる事例として、「NHK」を取り上げました。「公共放送」としてのNHKの役割は、これらすべてに立脚すべきだからです。しかしながら、昨今話題のNHK改革をめぐる議論では、3つの視座が欠けた議論になってはいないでしょうか?
本発表では、今後のNHKを考える手がかりとして、「公共性」「マイノリティ」「多様性」という視点を提案することを目的とします。

〈主な構成〉
(1) NHK改革で展開される議論の概要
(2) 「公共放送」の意義への不十分な問い 傍証:諸外国の公共放送
(3) 回答としての「公共性」「多様性」「マイノリティ」
(3) 考察・まとめ

〈配布資料(予定)〉
パワーポイントのレジュメ(スライドは8枚程度)

2008/09/06

E●マイノリティーから社会的連鎖へ

メンバーは、それぞれ様々な事例に取り組んでいる。話し合いの中から、マイノリティーが多様化へと進化を遂げ、社会的認知を経て、公共性に至るというプロセスがあると考えた。メンバーが取り組んでいる事例を複数に分類し、その中から、一部を紹介し、方法論を検証する。

《紹介する事例》
A:ハンセン病に関する取組み
 (1) 草津温泉 栗生楽泉園
 (2) ハンセン病史料館
B:障害者に関する取組み
 (1) ダイアログ・イン・ザ・ダーク
 (2) Do It Japan(高校生障がい者の進学問題)

F●NPOふらの演劇工房にみる「公共性・多様性・マイノリティ」

ふらの演劇工房のNPO設立に至る経緯と、その後の取り組み、劇場「富良野演劇工場」は、「公共性・多様性・マイノリティ」を考える事例として相応しいと考えた。
ふらの演劇工房の設立をめぐって、多様な市民が、篠田氏(NPO富良野演劇工房元理事長)たちが始めた活動にどのように関わって活動するようになり、信頼関係を結んで、ネットワークを拡がったのか。さまざまな問題を乗り越えて、新たな地域社会が創設されつつある富良野について考察する。
(発表時間が限られているため、詳細については別途ブログに掲載予定。)

概要:
1. 発表の端緒とポイント
2. 富良野の概要と歴史
3. ふらの演劇工房と富良野演劇工場
4. 事例のエッセンス
5. 事例の考察
キーワード:新陳代謝、越境者、「社会的実践を行う個人」としての「市民」、重層性 など

G●アウトサイダーアート

私たちGグループでは、グループ内受講生の関心が「アウトサイダーアート」に集まってきたことをきっかけに、この言葉の意味するところを改めて考えたいと思いました。そこで、障がい者のアートに関する活動を行っているNPOに直にお話を伺い、少しでも現場にふれてみたいと思い、都内にあるNPOエイブル・アート・ジャパンに連絡をとり、活動の一つであるアトリエ・ポレポレにお邪魔させていただきました。
今回の発表では、この活動への参加を通じて「公共性・多様性・マイノリティ」について考えたことを発表したいと思います。

〈主な構成〉
(1) 事例紹介:エイブル・アート・ジャパンのアトリエポレポレ
(2) 参加までの経緯(事例を選ぶまで) 
(3) エイブル・アート・ジャパンの概要
(4) アトリエ・ポレポレに参加して・・・(事例から、今回の課題についてどう考えたか)

〈配布資料(予定)〉
・パワーポイントのレジュメ(スライドは8枚程度)
・発表事例以外で、メンバーが関心をもった関連事例の紹介
 あわせてA3用紙2枚程度の予定

H●アートで街を変える!?―黄金町におけるアートプロジェクト」

わたしたちHグループは、今回の発表で横浜市中区黄金町において、今目下進められている「アートプロジェクト」について考察しました。これらのプロジェクトは以前から黄金町に関係を持っていた人、あるいは「プロジェクト」を行うにあたって黄金町の地を訪れた人、などさまざまな立場の人が入り混ざったかたちで繰り広げられています。
この事例を考察するにあたって、ある地域社会が変化しようとするとき、あるいは変化させられようとするときに立ち現れる力関係の構造を改めて見つめることができました。今回の発表では「黄金町」関係者のインタビューなどから明らかになった、変化している黄金町の今と今後についての考察を発表します。

発表内容
1. 「黄金町」に注目した理由
2. 3つの行為者(行政・住民・民間)による「地域社会再生プロジェクト」とその試み
3. 「黄金町」事例のシステム要素
4. 公共・多様性・マイノリティという視点からの考察と課題

I●地域からの再生

1. Iグループのミーティングで出された数々の問題点や事例
 発表に向けてIグループではメールでのやりとりの他に2度のミーティングを実施、様々な意見が出された。(詳しくは当日資料等で)
 
2. 課題:地域コミュニティの再生の重要性
 出された意見を検討していったところ、近年では社会の質の変化やコミュニケーション手段の発展によって気の合う同質な人たちのみが寄り集まりがちで、身近な他者との交流がおろそかになりがちであるが、「公共性」「多様性」「マイノリティ」を尊重していくには、地域コミュニティでの活動が鍵となるのではないかとの仮説にたどりついた。
 
3. 外国人とのコミュニティ・関係作りの事例
 そこで、地域コミュニティに関する取り組み、中でも外国人とのコミュニティ・関係作りによる相互理解と地域の活性化について今回は取り上げる。
 事例1 ブラジル音楽で踊ろう(ブラジル人の演奏で踊る幼稚園での実践)
 事例2 外国人とつくるコミュニティ(「静岡県湖西市汐路町会長は外国人」ほか)

J●噴水的考察による「市民社会再生」論

Jグループでは、メンバーの多様な関心を生かすために敢えて事例を一つに絞ることをせずに、複数回行ったグループディスカッションでの刺激を受けて個々人がそれぞれの関心をさらに発展させていくその循環によって考察を深めていきました。
本発表は、グループディスカッションで関心を共有して深めつつ、それぞれが面白いと思った事例を書くレポート集のかたちで行います。
メンバーそれぞれが事例を取り上げるなかで、グループディスカッションのなかで、課題を進めるなかで、わたしたちが感じた「市民社会再生」を、発表を通じてお伝えできたらと思います。
〈レポート集〉
・戦後日本の労働者によるサークル運動ー下丸子文化集団ー
・「市民社会」像の再生のために―「異文化へのまなざし」展を事例として
・市民社会再生の場としての「縁側」の可能性
・欧州文化首都-文化による市民社会の構造改革-
・アートプロジェクトが市民社会再生のきっかけとなる可能性

2008/08/07

レポート|事例3 妹島和世(建築家)

2008年7月11日第5回の公開講座は、妹島和世先生・建築家の講演でした。妹島先生は「建築の設計を職業にしている」と自己紹介をされ、前置きとして「美術館の建築設計においてどのようなことをやってきたのか、また現在どのようなことをやっているのか」また「講座のテーマである【市民社会再生】のために建築家がどのようなことをやっているのかについて話します」と述べられて講義が始まりました。講演の内容はこれまでに手がけてこられた美術館建築のいくつかについて、実際に建物が完成するまでに作られたデッサン・イメージ図・建物完成後の外観などのスライドが提示され、そこに解説が加えられるかたちで進んでゆきました。また後半では、美術館建築以外にも現在進行中のさまざまな取り組みや構想についてお話がありました。ここでは紹介された取り組みの全てについて報告するスペースがありませんので、金沢21世紀美術館(金沢市)ともう一つローザンヌ市(スイス・ヴォー州)に建設中の大学施設についてお伝えします。

金沢21世紀美術館の建っている場所は金沢市の中心に位置していることから、コンペの段階から「誰でも入ることのできる開かれた場所」であること、美術館施設に加えて市民のための交流ゾーンが設けられること、などが決まっていたそうです。その条件の下に「公園のような場所」として、美術館ゾーンと交流ゾーンが一つの建物の中で互いに繋がっていて、建物にどこからでも人が入ることのできる「裏表のないデザイン」を提案され、それが採用されたそうです。ここから、私たちが現在実際に見たり訪れたりすることのできる美術館建築が始まったのです。コンペでのデザインが受け入れられた後、市とキュレーターと建築家という異なる立場の三者が集まって、それぞれの立場からの筋道をすり合わせるための話し合いが重ねられました。建物周辺の木々の配置やエントランスの数、展示室自体のプロポーションやその配置、また天井の高さや扉の大きさなど細部にいたるまでが、三者の話し合いのもとで決定されていったそうです。ここで市はメンテナンスの側面や建物の一般性を求め、キュレーターは展示の筋道を考慮して、というそれぞれの立場からの意見のすり合わせが何度も行われて出来上がった建築だったということでした。
トレド美術館ガラスパビリオン(アメリカ・オハイオ州)、ニューミュージアム(ニューヨーク市)、大倉山(横浜市)で進行中の集合住宅など次いで、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のROLEXラーニングセンター(スイス・ローザンヌ市)の建築が紹介されました。この建物では、図書館・カフェ・多目的ホールなど異なる機能が一つ大きな部屋に集合している複合施設ですが、建物の一部が空中に浮き上がっていたり、浮き上がった部分へ行くためのいくつかの道が地面から緩やかに立ち上がっているなど、建物全体が大きく波打っているように見えます。この施設では、「異なる機能を持った場所がそれぞれ分かれていながら大らかに繋がって、あらゆる分野の学生が集まることができる場所」ということを考えてデザインされたそうです。この建築について先生は「ひとが移動することで空間の見え方が変わる」ということも繰り返し述べておられました。異なる機能を持った場が一つの部屋に集合していても建物全体に高低差がつけられているために、人が動けばそれだけ目線の高さが変わり、部屋として繋がっていることがわかりながら、視線は遮られるということが起こるそうです。さらに、例えば徐々にエントランスが見えて中にいる人の活動する様子が見えてくる、あるいは徐々に建物の外に広がる景色が見えてくるといったように、空間が姿を変えながらあらわれるということが起こります。自らが移動することによって見えてくる景色が変化するということは、少し離れた場所の出来事や、建物の外側の景色との距離感を保ちながらかつ緩やかに繋がりを意識することができます。
いくつかの例が紹介されたなかで、施設自体のもつ目的や条件を越えて先生がデザインする建築の全体を覆っている考え方としてわたしの印象に残ったのは、一つには「公園のような」という言葉で表される「ある目的を持った人々が集まって一緒になって活動することもできるし、しかも同時に一人ひとりが個別の目的をもって自分の居場所を見つけることもできる場所」というものでした。「公園」とは「みんなの場所でもあり、同時に自分だけの場所」としてそこを使う人の感覚の中にできあがってくるものと考えられます。建物を作るということを通じて、人々の感覚の中に生まれる「場」を実際に形づくることを見ておられるのだと考えました。また二つ目に「環境と何らかの関係を持てる建物」や「周辺施設と同調しながらも離れている」、または「呼吸する建築」(この言葉が大変印象的でした)という言葉で表されるような、建物が環境との関わり・繋がりを持った在り方についても何度も繰り返し述べられていました。建てられる環境に完全に溶け込んで何も変化をもたらさないものではなく、新しく建築することで社会のなかで新たな関係性を生むような建物を考えておられるということも述べられていました。

「市民社会再生-文化の射程」というこの講座の大きなテーマを考えるとき、人と人が何かしらの関係性を築く「場」というものについて具体的に考えることは大変重要なことと思われます。今回の講演では、「場」という形を持たないものに、建築することを通じて具体的な形を持たせる試みについて妹島先生はいくつもの印象的な言葉を使ってお話しくださいました。建築という実践から「市民社会再生」へのアプローチを聞かせていただき、それでは私たちはどのような方向からのアプローチを試みることができるのかということを改めて意識することのできた講演だったと思います。公開講座という緩やかな繋がりの中で、一人ひとりまたはグループ、受講生全体であと半年かけて考えてゆくための課題であるでしょう。
文責:木下紗耶子

2008/07/08

感想文●「妹島和世読本−1998」

前期最終回となる7月11日講義へ向け、事前知識を得るために『妹島和世読本−1998』を拝読しました。この本は、『GA』という建築雑誌に掲載された、妹島和世先生へのインタヴューが基になっています。先生の幼少期から1998年時点までの建築活動が、エピソードを交えて描かれています。出版は十年も前のことですが、今日のご活躍の根底にある経験や思いを垣間見ることができました。私自身建築が専門ではないので、具体的な技術上の問題等難しい部分もありましたが、「市民社会再生」という観点から感想を述べたいと思います。
まず興味深かったのは、妹島先生が感じていらっしゃる、建築家の「生みの苦しみ」の部分です。そもそも私が実際に見たことのある先生のお仕事は、表参道のDiorビルだけでしたが、そのスッと白みがかった半透明の建物から受けた印象からは先生の苦労を想像できていませんでした。全ての計画に対する試行錯誤と細部へのこだわりを、この本を通して知ることができました。
そしてそのプロセスは、「市民社会」や「公共性」といった抽象的な概念をいかに具現化し提示するか、という問題への取り組みでもあったのだということがわかりました。例えば、個人住宅を設計される場合、両親−子供で構成されるいわゆる「核家族」とは異なる、現代の多様な家族の在り方とその可能性を意識されていました。また、美術館、学校等公共建築の計画では、ユーザーの自由な使い方を許容•刺激する「立体の公園」を実現することを常に目指されていました。言い換えれば、それは、建築空間の内部で展開される世界と外部にある社会をいかにつなぐのか、という問題だったのだと思います。それに対し建築家は何を提案できるのか。この本を読み、このような大きなテーマに対する答えの模索として、妹島先生の一連のご活動を考えられるようになったと思います。
翻って考えてみれば、それは本講座の受講者全てに共通する意識ではないでしょうか。建築、というフィールドに限らないにしても、芸術分野等での文化活動をいかに社会の中に位置づけていくのか、そして位置づけたところから何を目指すのか。誰もが自分に置き換えて考えられる話なのだと思います。
妹島先生のお仕事を、造形や建築の観点から味わう。もちろんそれも大切だと思いますが、加えて「市民社会再生」の視座から考えることも加えたいと思います。『妹島読本−1998』は私にとってそのきっかけとなりました。(星野立子)

2008/07/03

レポート|事例2 南嶌宏(芸術学)

2008年6月29日、第4回目の公開講座は、南嶌宏(みなみしま ひろし)・女子美術大学芸術学科教授による講演でした。南嶌先生は、昨年まで熊本市現代美術館の館長を務められていました。お話は、なぜ熊本現代美術館の話をお引き受けになったか、というところから始まり、各地のハンセン病療養所を巡るなかでの出来事などを中心に進められました。

熊本市現代美術館は、先生が立ち上げから携わった5つ目の美術館だそうです。誘いがあった当初は断っていたそうですが、計画案が以前夢に見た美術館とそっくりで、運命を感じたこと、そして、南嶌先生が「最初にして終わらない展覧会」だと考えておられる建築を、開館後は関係がなくなってしまう建築家に任せるのではなく、自ら携わるということを条件に、引き受けることを決められたそうです。館の中央に配された図書室「ホームギャラリー」も、この条件があったからこそ出来上がった空間なのでしょう。
南嶌先生が熊本市現代美術館でまず取り組まれたのが、熊本出身の生人形作家、松本喜三郎と安本亀八ら、排除されてきた美しいものに再びスポットライトをあてる、ということでした。そして、さらに熊本のことを調べていくなかで出会ったのが、ハンセン病でした。ハンセン病は、今は薬で100%治療できるですが、昔は感染性の不治の病とされ、感染すると家族から引き離され、療養所に隔離されていました。子どもを持つことも許されなかったそうです。
ここで、1枚の写真を見せていただきました。開館記念展ATTITUDE2002の展示作品のひとつで、白い衣装がたくさん並んだ中にブランコがあり、そこに一体の人形がのっているというものです。その人形は、国立療養所菊池恵楓園で生活している方が、生むことができなかった自らのお子さんの代わりに大切にしてきた太郎君、周りを取り囲むドレスは、大原ゆう子さんのつくる死の時の衣装でした。ともに現代アートの作品というわけではありませんが、生と死という、今を生きる私たちが忘れてはならない、常に頭の片隅においておくべきことを教えてくれるものです。

ATTITUDE2002が開催された翌年、黒川温泉事件が起こりました。恵楓園で生活されている方々が、ホテルからハンセン病の元患者であることを理由に入浴を断られたのです。この報道に対して恵楓園に寄せられた手紙は、ほとんどがホテル側ではなく、恵楓園側を批判、中傷するものだったそうです。このことから、ハンセン病に対する偏見が根強く残っていることが分かります。
この偏見をなくすには、人々のハンセン病に対する認識を高めることがまず第一の解決策です。美術館にできることは何かと考える中で、南嶌先生は美術と差別の間にある共通点に気づいたそうです。それは、両者ともに「見る」という行為から始まるということです。
恵楓園には、50年以上も続く絵画クラブがあります。この後は、ATTITUDE2007に展示された療養所の方々の作品をスライドで見せていただきながら、南嶌先生が直接お会いしたときのお話を伺いました。
私が最も印象に残っているのは、貝殻がたくさん並べられた作品です。この貝殻は、産むことができなかった子どもを埋めた海岸にうち寄せられたものだそうです。貝殻を集めた方は、海岸に行くとこれらを拾い集めることが習慣となっているそうです。はじめとてもきれいだと感じた海岸が、この話を聞いて全くのモノクロに変わった、という南嶌先生のお話を伺い、ハンセン病の方々に対していかに残酷なことをしてきたのかと憤りを覚えました。これらの偏見の原因は「国家」ではなく私たちの「無知」である、という言葉がとても重く響きました。

今回もあっという間に時間が過ぎ、グループワーク、質疑応答の時間が短くなってしまいましたが、講座終了後もお時間をいただき、活発な議論ができたのではないでしょうか。公開講座第4回、お疲れさまでした。前期の講演は、次回が最後です。そしてグループワーク発表は9月12日です。みなさま、こちらの議論もメーリングリストや次回講座の前後、それから7月18日の時間を活用して、少しずつ進めておいてください。
文責:渡辺 直子

2008/06/23

前期懇親会レポート

前回6月13日の講座の後に、懇親会が催されました。そこで、今回の懇親会に参加できなかった方に様子をお伝えすべくレポートいたします。

懇親会は8時30分ころから準備が始まり、まもなく、サンドイッチ、竹の葉に巻かれたお寿司、枝豆、お菓子などが並べられ、ご参加の皆さんの手にはビール、ソフトドリンクなどが揃いました。「乾杯」の合図で懇親会がスタート。場所はいつもの講義室で行われ、特にグループに分かれるかたちではなく、教壇から近い2列の机に並べられた食べ物を皆で囲むかたちで行われました。懇親会の最初からあちこちでにぎやかな談笑が聞かれ、食べ物・ビールなどもテンポよく皆さんのお腹のなかに入っていったようでした。
さて、懇親会では自己紹介+ひと言タイムが設けられたのですが、自己紹介が始まる頃になると、おもむろにビールケースが教壇のうえに置かれました。どうやら「ビールケースの上に登ってしゃべるように」とのこと。かくして自己紹介はスタートしました。まず教壇上に上がり、懇親会の参加費を支払ってから自己紹介を始めるという流れだったのですが、ビールケースに登るひと・登らないひと、皆さんさまざまな様子で自己紹介をされました。また、「ひと言」では、この講座に参加されるきっかけやご職業、または、研究内容やご自分が参加されているプロジェクトの活動内容などなどが披露されました。懇親会では、自己紹介への導入になるようにと、5月16日の初回の講座で記入していただいた自己紹介カードを集計した受講生名簿が配布されており、私はそれを参照しつつ自己紹介を聞いていました。そこで感じたのは、その人が直接目の前で話しているということは、それ自体、大変な情報量を持っているものだということでした。名簿に書かれている、「氏名・所属・関心ごと」を追うだけではなかなか実感できない部分に関わる多様な側面が少し見えたのではないかと思います。(ビールケースに登る・登らないもその一つですよね)参加された皆さんはどのようなことを感じられたのでしょうか。
さて、50音順に並んだ名簿の「わ」からスタートした自己紹介でしたが、懇親会に出席された受講生全員(総勢70名ほどいらっしゃったでしょうか)が終わったときにはすでに10時半を過ぎていました。そして、そのころには、食べ物も飲み物もほぼ皆さんのお腹の中に。

最後に、木下先生から閉会の言葉をいただき、懇親会は終了しました。(ここで、ビールケースに登っての挨拶は、田中角栄>田中真紀子>市民社会再生講座へと受け継がれてきたものであることが判明!)木下先生がおっしゃったように、受講生同士がより早く打ち解けられるように、そして、今後のグループ活動やグループを越えた議論の場が活発にするための大きな弾みになるように、そのことを目指して企画された懇親会でした。終始にぎやかな雰囲気だったこの懇親会では、きっとそのことが達成されたものと思われました。 
(木下紗耶子)

2008/06/17

感想文●南嶌宏「人間の家-真に歓喜に値するもの」

6月27日の南嶌宏先生(女子美術大学芸術学教授、前熊本市現代美術館館長)の講義に先立ち、『ATTITUDE 2007 人間の家-真に歓喜に値するもの』(熊本市現代美術館2007)に南嶌先生が寄せられたエッセーを拝読した感想を記します。
「神様、私をあなたの平和を広める道具にお使いください。…」―アッシジの聖フランチェスコの「祈りの言葉」(「平和の祈り」)が冒頭に掲げられたこのエッセーでは、2002年の熊本市現代美術館開館までの準備期間2年半と開館後の5年間の南嶌先生の歩みが、つぶさに語られています。
「現代の美術を通して人間のありようを検証する美術館」という基本理念を持つ熊本市現代美術館では、開館記念展「ATTITUDE 2002」において、堕胎を強制されたハンセン病元患者の女性が、わが子の代わりにしてきた抱き人形「太郎」が展示されました。「ATTITUDE 2007」展のポスターに使われたのはハンセン病回復者である成瀬テルさんの20歳の頃のドレスを纏った輝かしい写真(この公開講座のホームページの開講趣旨のページにも使われています。)で、この展覧会では、ハンセン病回復者の人々の作品が世界の現代アーティストたちの作品と共に展示されました。差別され、人間としての権利を奪われてきた人々の表現に人間の美しさを見出し、光を当てたのです。美術史の枠組みにとらわれず、人間の営みを見つめる「人間の家」としての美術館の可能性を提示しています。
エッセーでは、日本にある13のハンセン病の国立療養所、そして台湾と韓国の療養所を巡る間のハンセン病回復者一人ひとりとの出会いの記憶が、大切に思い起こされ、書き綴られていました。美術の専門家である前に、常にひとりの人間として真摯に向かい合う様子が浮かんできました。
私は、自分の大学の博物館学の授業の一環で、多摩全生園と国立ハンセン病資料館(前高松宮記念ハンセン病資料館)に訪れたことがあります。資料館の展示では、入所者の人々が文学や絵画を創作していたことにも触れていて、印象に残りました。エッセーの中で南嶌先生もご自身の無知と無関心を責めておられましたが、私もハンセン病資料館にはじめて行ったとき、これまでの関心を持たずにきた自分が恥ずかしくなったのを覚えています。そういえば聖フランチェスコに大きな影響を受けたというマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と言いました。
人間としての権利、尊厳を奪われてきた人々、差別や偏見にさらされた人々に目を向けること、そして自分のATTITUDEを問い直すことが私たちには必要なのではないでしょうか。これは前回の大沼先生の講義内容にも通じるものだと思います。(池田香織)

著書の紹介|南嶌宏

次回、6月27日(金)の第4回講座の講師、南嶌宏氏の著書を紹介します。

豚と福音—現代美術の純度へ
1997、七賢出版
ATTITUDE2007 人間の家-真に歓喜に値するもの
南嶌宏, 本田代志子, 芦田彩葵編集 2007、熊本市現代美術館
アン・ハミルトン [voce] 南嶌宏, 本田代志子編集
2006、熊本市現代美術館
生人形と江戸の欲望展 南嶌宏、本田代志子 編集
2006、熊本市現代美術館

レポート|事例1 中村雄祐(言語動態学)

2008年6月13日(金)、第3回目の公開講座は、中村雄祐(なかむらゆうすけ)・東京大学大学院人文社会系研究科准教授の講演でした。前回の講座で予め、論文『読み書きと生存の行方』が配布されており、今回はこの論文の内容を踏まえた上で「文書をいかに使いこなすか?」という話題が繰り広げられました。(ここでは論文の概要と講演内容を交えて書かせていただきます。)

中村先生の自己紹介として、西アフリカで語り部のもとでマリンケ語の口頭伝承の調査、ボリビアの先住民女性向け女性職業訓練工房での読み書きと生計維持・向上に関する支援・共同調査など、これまでご経験された調査について簡単にお話され、本題に入りました。
人が生きていくためには、基礎教育、特に読み書きが重要であり、統計上では就学率や識字率は収入や平均余命の間に緩やかな相関関係があることが認められているそうです。「読み書きと生存」を考える際には、リテラシー・スタディーズの動向を軸に進めるのが定番だそうですが、中村先生は「読み書き・印刷用紙の消費動向と生存の関係」について述べられました。
電子化が著しい先進国はともかく、世界全体を見渡すと「紙」は読み書きの道具として現在もなお重要な役割を果たしています。そこで現代世界における読み書き用紙の普及ぶり、その生存にとっての意味を考えるため、あるデータをもとに、国別1人あたりの印刷・筆記用紙および新聞用紙の年間消費量と人々の暮らし向きを示す指標との関係を表すグラフが示されました。
データや指標の詳細はここでは省略しますが、グラフから見えてくることは、1人あたり年間紙総消費量と平均寿命指数の間に強い相関関係が見られ、どうやら「経済的に豊かな国ほどたくさん紙を使い、読み書きをしながら暮らしており、長生きできる」ということです。1人あたり年間紙総消費量の166カ国中の上位、下位それぞれ20カ国の平均値を計算してみると、最上位20カ国の平均が122㎏もあるのに対して、最下位20カ国のそれは0.13kgしかないとのことでした。
次に「文書という道具」について触れられました。文書は複雑な出来事を単純化し、本質を捉え、それ以外を意図的に省略して生まれるものです。(ドナルド・ノーマンの言葉より)また文書とは「象徴+道具」でもあります。これは南アフリカで発見された「Blombas Cave」の例が示されました。そして「オイラーの公式」や「中国の地図」などの例を挙げ、文書の発展、文書の用いられ方の説明がありました。そして文書にはさまざまなタイプがありますが、多様な文書のライフサイクルを峻別し、状況に応じて「自分が今何をなすべきか」を判断し、実行できることが「文書を使える」ということだと述べられました。
文書における表現方法の広がりを示すために「図的表現」についての話題もあがりました。これは個人的にとても興味深かった話題です。途上国では図を用いての相互理解が有効という一例とともに、ロンドンの地下鉄マップが生まれるまでの経過が紹介されました。途上国も先進国もコミュニケーションの有効化(相互理解の簡略化)のために、ほぼ同様なことがされているとは驚きでした。また、人間の数感覚や世界の数字体系についても触れられました。世界各国1~3までは、ほぼ同じ体系がありますが4以上の数字は各国で恣意的なルールが設けられているそうです。

「身体、顔、声、話し言葉、そして文字」と題し、表情で心を読み取ることの例や文字という表現方法の特質についての話題もあがりました。その上で、タイポグラフィーを言語別にみた実験結果、金融広告などの話題も出ました。「文字を読む、心を読む」と題されたトピックでは文字を通しての微妙な心情表現についての考察が紹介されました。
では現代社会における「文書」とはいったいどのようなものなのでしょうか? 文書は不確かな「認知のパワー」を持っています。その文書をいかに使っていくべきでしょうか? 書面に展開されている多様な記号群からは何が読み取れるでしょうか? 文書の奔流をいかに制御するべきでしょうか?
煩雑な書類仕事に振り回される経験は先進諸国ではありふれたものですが、振り回されること以上に、膨大な文書の作成、処理は人々に災厄をもたらす過程に深く関わる場合があります。その例として、中村先生の調査・研究から「ジェノサイド」と呼ばれる国家による計画的な大量虐殺と「グアテマラ」の殺戮についての詳細が述べられました。
「文書」は現代文明の輝かしい躍進にも絶望の極みにも等しく関わってきました。文書使用は人々にとっての大きな助けとなるとともに負の効果をも及ぼしえます。文書が世界中に氾濫する現代は、さまざまな知が思いもよらない形で出会い、ともに世界中の人々の生存に関わりを持つ時代です。これらの事情を踏まえ、私たちはさまざまな文書を通し、その特性を吟味しながら「人間の安全保障」を考えていく。これが今後取り組むべき課題の1つとなるのだろうと考えさせられました。
1時間という短時間で、中村先生は「文書」について多角的にお話くださり、講演後のグループディスカッションも盛り上がり、質疑応答も活発になされました。講演終了後は懇親会が開かれ、冷えたビール片手に美味しい食事をいただきながら受講者1人ひとりの自己紹介に皆、聞き入ってくださいました。
文責・有賀沙織

<参考>
高橋哲哉・山影進 編2008『人間の安全保障』
中村雄祐先生 講演レジュメ 2008年6月13日

2008/06/15

感想文・中村雄祐『読み書きと生存の行方』

6月13日の講義に先立ち、前回配布された中村先生の参考文献を拝読しました。
読み書きの能力は、知識や情報を得るために重要なものです。朝起きて新聞を読み、移動中の電車内で本を読み、中吊り広告をながめる。お昼休みには雑誌を読み、帰宅するとポストに入れられた手紙を読み、パソコンに向かってメールのチェックをする。普段の生活の中で何気なく、当たり前に行っていることですが、もし文字が読めなかったら、これらの行為はできません。
ただ、テレビやラジオなど、視覚、聴覚を使った情報伝達も存在します。文字が読めなくとも、ある程度の知識、情報は得られるはずです。しかし、人々の暮らし向きを示す指標としてよく参照される人間開発指標(HDI)では、その主要構成要素である知識の大きな位置を読み書きが占めています。「読み書きと生存の間の関わりを強めるような人工的な制度群が急速に地球上を覆い尽くしつつあることを示唆するものとして捉えるべき」という一文に、現代世界の中に見えない支配の存在を感じました。
「読み書きと生存」の関係を見るにあたり、物理的存在としては人間の生存に特に影響のない「紙」の消費量とHDIの間に関係が認められることは、興味深く思いました。ただし、読み書き用紙の消費量増加が暮らし向きの向上と直結するわけではなく、ドイツのホロコーストを例に災厄をもたらす過程に深く関わることもあり、「結局、印刷用紙は、現代文明の輝かしい躍進にも絶望の極みにも等しく関わってきた」という、一筋縄にはいかない難しさを感じました。
現代の日本では、読み書きの能力はある程度の年齢に達すれば誰もが持っているものとされ、特に議論されることはありません。そのため、その利点や他との関連は考えたことがありませんでしたが、「読み書きと生存」の間には簡単には説明できない、様々な関わりがあることを知りました。
(渡辺直子)

2008/06/07

レポート|基調講演 大沼保昭(国際法)

2008年5月30日(金)、2回目となる公開講座が行われました。今回からいよいよ、ゲスト講師を迎えての講義+ディスカッション形式が始まります。記念すべき初回は、大沼保昭(おおぬまやすあき)・東京大学大学院法学政治学研究科教授による基調講演でした。

はじめに先生のご挨拶があった後、この講座の後のゲスト講師である野田秀樹氏、田中泯氏にまつわるちょっとした“憤り”について、先生の苦いご経験のお話があり、それまでやや緊張モードだった会場は、笑いとともにやわらいだ雰囲気に包まれました。そして、先生は「公憤(こうふん)、すなわち公の憤りは、こうした私憤(しふん)から生じるのです」と加えられました。そう、本日のテーマである「公共性・多様性・マイノリティ」へと続くイントロダクションだったのですね。
講義は、Ⅰ市民と国民、市民活動とNGO活動、Ⅱ多様性とマイノリティ、Ⅲ公共性、まとめ、の大きく分けて4つからお話がありました。すべて詳細にレポートしたいところですが、あまりにも盛り沢山になってしまうので、紙面(ウェブ面?)の関係上、ここでは私が個人的に特に印象に残ったお話などを中心にお伝えします(ぜひ受講生のコメントと合わせて、お読みください!)。
一つは、マイノリティのお話です。Ⅱのところで、画一主義・同一主義的な社会(コンフォーミズム)について、そして多様性については地域によっての違いがあるというご説明がありました。例えば、ヨーロッパの場合は、陸続きであるため、国境をまたいで他国へ入ることが頻繁に行われており、そこには多様性が自然的に存在しています。一方、日本のような島国の場合は、単一的民族主義になりやすく、多様性がなかなか浸透しにくい環境にあります。そうしたことから、日本ではドイツで行われているような本格的な移民受け入れを行ってきていない歴史があり、移民受け入れを行っていれば、西洋を超える国になり、もっと受け入れを積極的に行うべきと先生は力説されました。一方で、Ⅰでもお話があったような、先生が在日韓国朝鮮人問題に取り組まれていた70年代に比較すれば、ずいぶん多様性が進んだという実感があるとも。確かに、私たちが物心ついたころには、外国の人をまちの中で見かけることも、一緒に何かするということも、わりあい普通になっていたように思います。では、マイノリティって・・・とイメージをつかもうと頭をめぐらせていたとき、「コンフォーミズムは、民族的には減っても、社会的には強化されているのではないか。」というお話が続きました。すなわち最近では、目立ちたくない、仲間と違いたくない、という思いから仲間と同じ行動をとる同調主義が広まっていて、マイノリティには、ますます住みにくい社会となっているとのこと。現代を生きる私たちにとって、それにはどこか、思い当たる節があるのではないでしょうか? 多数とマイノリティの問題は、民族性のみで話されるべきものではなく、色々な切り口をもつものだというご説明に、今日のテーマの広がりと深みを感じました。

Ⅲの公共性以降は、公(おおやけ)の語をはじめとして、公とは私とは、公共性とはをしきりに考えさせるお話が続きました(「公」という字は、「ハ」の部分が「広く」、「ム」の部分が「自らを囲む」という意味をそれぞれ持ち、合わせて共同性を意味するそうです)。昨年本にもまとめられた「慰安婦」問題を通じ、「公=国=政府=官」というとらわれ方への問題定義(毎日新聞1997年1月26日記事)、影響力の大きいNGOやメディアの「公」としての責任のあり方、企業、そして公共的存在の市民はどうかかわっていくべきか……。政府、NGO、メディアのそれぞれが持つ長所、短所をあげられながら、それぞれの役割を再認識し、役割分担を行った上で取り組まなければならない、というお話でした。
ご存知の通り、この講座は東京大学内外の学生をはじめ、様々な方面でお仕事をされている社会人の方をも数多く含む受講生から成っています。まとめで、先生が「新たな公共性の確立に尽力したい。ただ、あらゆる観念、あらゆる理念に疑念を抱く余地がある。公共性への信念を疑う自分が必要」と話されているのを聞きながら、「多様な」受講生がそれぞれ自らの立場を照らしながら、公共性とのかかわりを考えていたのではなでしょうか。

各自に色々思うところがありながら、グループディスカッションの時間はあっという間で、短い時間内に発言しそびれたという人も多かったように思われます(ぜひ、この受講生コメントの場を使って、発表してくださいね。また、このつたないレポートを補っていただけると幸いです)。質疑応答の時間にも、先生から補足のご説明をいただけるような、核心をついた積極的な発言が沢山見られました。大沼先生の丁寧でやわらかな話され方には、最後までひきつけられました。先生、ありがとうございました。
講座も会を重ねるごとにグループでの親交も徐々に深まって、より活発な意見交換になっていくのではないかと思います。次回は、終了後に懇親会もありますので、ふるってご参加ください。まずは、第2回、お疲れ様でした。
文責・横山梓

2008/05/28

オリエンテーション

第1回の公開講座では、事務局から以下のような説明をさせていただきました。

■スケジュールの確認
・前期6回 公共性・多様性・マイノリティ
 5/16(金)オリエンテーション|木下直之(文化資源学)
 5/30(金)基調講演|大沼保昭(国際法)
 6/13(金)事例1|中村雄祐(言語動態学)
      ※講義終了後、懇親会を開催します。
 6/27(金)事例2|南嶌 宏(芸術学)
 7/11(金)事例3|妹島和世(建築家)
 9/12(金)グループワーク発表
・後期7回 記憶・身体・コミュニティ
 10/10(金)オリエンテーション|小林真理(文化資源学)
 10/24(金)基調講演|沼野充義(スラブ文学)
 10/31(金)事例1|田中 泯(舞踊家・振付家・農業者)
 11/ 7(金)事例2|野田秀樹(劇作家・演出家)渡部泰明(日本文学)
 11/21(金)事例3|鳥越けい子(サウンドスケープ論)
 12/ 5(金)事例4|山口洋典(浄土宗應典院)杉山知子(アーティスト)
       木ノ下智恵子(アートプロデューサー)
 1/ 9(金)グループワーク発表

■基本的な授業の流れ
授業開始前(18:40まで)に教室前で出席を確認
(出席カード提出、押印、リストのチェック)
18:40 開始
 講義(60分)
 グループディスカッション(15分)
 質疑応答(25分)
20:20 終了

■グループ編成の説明
受講生はA〜Jの10のグループに分かれて着席します(グループ分けに意図はありません)。
グループは、各回の講義での意見交換や質問の集約、前期および後期の課題(後ほど詳述)に取り組む際に協力しあうなど、受講生の積極的な参加による双方向の授業を行うために編成します。
1つのグループは10人前後で編成し、公開講座の運営委員とアシスタントを配置しています。
グループ内で、議論をリードする「グループリーダー」「サブリーダー」を決めてください。
講義以外の時間もグループでの議論や情報交換を活発に行っていただくため、各グループでメーリングリストを開設※します。
グループ内での議論の活性化や、グループとしての課題作成の取りまとめや課題の発表には、アシスタントが協力します。
※事務局以外にはメールアドレスは非公開としておりますが、メーリングリストの参加を希望されない方は、事務局にお申し出下さい。

■レポートとコメント
各回の講義は、アシスタントが概要のレポートを作成し、ブログに掲載します。
ブログ上のレポートに対して、1グループにつき2人の受講生は、コメントを投稿して下さい(受講生全員が、前期と後期で必ず1回ずつはコメントを投稿して下さい)。
誰がコメントを投稿するのかは、グループの中で決めてください。
コメントの字数は200字程度※とします。
ブログへのコメントの方法は、メールでインストラクションを行います。

■課題(グループワーク)の説明
前期と後期、それぞれ課題を与えます。
前期の課題は、下記の通りです。
前期6回の共通テーマ「公共性」「多様性」「マイノリティ」という3つのキーワードを手がかりに、現代の市民社会における具体的な問題点を説明してください。

形式は自由ですが、各グループごとにプレゼンテーションできるように体裁を揃えてください。
例えば、各自のレポートをWordファイルにまとめた報告書、画像を使ったPowerPointのプレゼンテーション、webサイトの制作など、創意工夫をしてください。
9月12日のグループワーク発表では、各グループごとに短いプレゼンテーションを行います。
発表されたプレゼンテーションは、公開講座のウェブサイトで発表します。

2008/05/27

感想文●大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』

このエントリーでは、アシスタントがあらかじめゲストの著作を読んで、どのような活動をされている方なのか、簡単にご紹介します。皆さんが文献に手を伸ばすきっかけにしていただきたいと思います。

●大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』
 今回の講座に先立って、大沼先生の著作を拝読しました。「慰安婦」問題について、ご自身も中心となって活動された、アジア女性基金についてのことを中心に書かれています。「慰安婦」問題とは何だったのか。それを、「『歴史認識』をめぐり『被害国』との付き合いはいかにあるべきか」という問題と共に、「政府・メディア・NGOという公共性の担い手のあるべき姿とは何か」という問いについて読み解くというものです。
 私が興味深いと思ったのは、「多様性」と「公共性」という言葉です。本講座のキーワードとも重なります。漠然とした「国家」という言葉の中に、個々の人間が立ち現れてきます。ちょっと抽象的な表現かもしれませんが…日常では、私達は「個人」でいることに慣れてしまっているかも知れません。しかしマス・メディアや政治の場では、一個人として実行力をもつ主体として関われることに意識的でいられるでしょうか。その行動の先に、同じ「人間」を認められるでしょうか。
 「被害者」の側が背負うナショナリズムを、切り離して考えることはできません。しかし、それを認めつつも「被害者」個人の意向を実現することもまた、重要な解決策の一つといえます。それぞれの元「慰安婦」・その元「慰安婦」自身・問題の解決策、この三者すべてについて「多様性」を認める、そのためには、「個人」の存在を認める社会認識が必要だと思います。また一方で、マス・メディアからアジア女性基金に対する、「国による救済」ではないという種の批判がありました。それに対する大沼先生の、「国民」としての個人は「国家・市民として公共性の役割をはたす存在」であるというご指摘に納得しました。アジア女性基金という民間団体が補償を行うのではなく、「国民」としてアジア女性基金を通して補償の主体となることができる仕組みがあり、そのようなかたちも「公共性」の一つの形だといえます。
 「慰安婦」問題という具体的な事例から、大沼先生の「市民社会」における「多様性」と「公共性」についての考え方が伺えました。
(宮川智美)

2008/05/20

レポート|オリエンテーション 木下直之(文化資源学)

2008年5月16日、第一回目の公開講座が行われました。この日は開催にあたってのオリエンテーションが行われました。オリエンテーションだけだったためか(?)欠席されていた方もいらっしゃったようですが、全体的にタイトなスケジュールの中、自己紹介も含め和やかな雰囲気が保たれ、笑い声も多く聞かれたオリエンテーションだったように思います。

今回の講座は、
・ 東京大学人文社会系研究科長の立花先生のご挨拶
・ 文化資源学研究室の木下先生のオリエンテーション
・ グループ内ディスカッション
というスケジューリングで行われました。今年の講座は、受講生の皆さんで各10人ほどのグループになっていただき、毎回の講座のトピックについてグループ内でディスカッションをしていただくという形式をとります。まず、立花先生がご挨拶でそのことに触れられました。「文化的な営為にどのように参画していくか」ということを考えたときに、グローバル化が進むマルチメディアの時代という現状の中でこそ、顔と顔を合わせたインタラクティブな対話が重要になってくるだろう。ひいてはそのことが「市民社会再生」へとつながりうるだろうから、この講座でもみなさんの積極的な参加を期待します、とのことでした。若干うまいこと丸め込まれた感じがします。

ちなみに、グループ分けはすでに決定しています。今回欠席された方も、次回以降いらっしゃったときに所属グループをお知らせいたしますのでご安心ください。
次に、木下先生のオリエンテーションでは、この「市民社会再生」という講座の趣旨についてご説明がありました。「市民社会再生」講座は、昨年度から3年間連続開講されることになっています。現在の日本の社会において文化がだんだん尻すぼみになってきているのではないか、という問題意識のもとに始まったこの講座は、1年目の昨年度はまず文化の実践の現状を知るという目的で行われました。そこであがってきたキーワード「公共性、多様性、マイノリティ」「記憶、身体、コミュニティ」をもとに開催されるのが今年度の講座です。今年度はこれらの個別の問題のあいだの共有項を考えていくことで、「市民社会再生はどうあるべきか」を探っていきます。これをふまえて、次年度の講座は「市民社会再生」はどのように実現可能か、ということをテーマに開催される予定です。今年度はグループによるディスカッションも行われるので、「市民社会再生」について、熱い議論が行われることになると思います。期待します。
また、木下先生からは不忍池の張り紙という身近な事例から、「多様性」についてレクチャーもしていただきました。こちらの内容は16日発行の講座ニューズレターにも寄せていただいています。今回欠席された方も、残部がありますので次回お持ちになってお読みください。

最後に、グループごとに分かれたディスカッションの時間がありました。ディスカッションといってもまだ初回です。まずは緊張をほぐすためにメンバーの自己紹介をしました。そうして見えてきたメンバーのあいだの共通点を、最後にグループごとに簡単に発表してみました。また、グループ内のリーダーとサブリーダーの選出をそれぞれ行い、今後の連絡やディスカッションのとりまとめ役をお願いすることになりました。
講座アシスタントも一緒にグループに入らせていただくのですが、私のいたグループはアーティストの支援活動をされている方、子供たちを対象に教えられている方、作家さんなど、実際に文化の実践に携わっている方が何人もいらっしゃいました。今後のディスカッションでは、きっと皆さん自分のご経験に引き寄せて議論を展開していかれるのだろうな、と思って一人わくわくした次第でございます。
これはもちろん私の入らせていただいたグループだけの話ではありません。グループごとの発表を聞いていて感じたのは、どのグループにもそれぞれ特徴的な共通点があって、そのグループごとの論点をすでに持っていそうだということでした。グループは無作為に、申し込み順に決定されたということでしたが、それでもこんなにグループごとに個性が出てくるものだなあ、としみじみ感心してしまいました。
さて、次回の講座は東京大学の大沼保昭先生による基調講演です。本格的に講座が始まっていきます。今回いらっしゃった方も、欠席された方も、皆さんぜひいらっしゃって一緒に「市民社会再生」を考えていきましょう。

最後になりましたが、このレポートは講座アシスタントが毎回執筆させていただきます。アシスタントはこれ以外にも、講座全般にわたって皆さんのサポートをさせていただきます。ご不明な点など、なにかありましたらお気軽にお近くのアシスタントまでご連絡ください。
それでは一年間、よろしくお願いします!

文責:赤星友香

著書の紹介|木下直之

順番が逆になりましたが、公開講座の第1回のオリエンテーションで導入の短い講義をしていただいた木下直之先生の著書をご紹介します。

ハリボテの町
1995、朝日新聞社
美術という見世物―油絵茶屋の時代
1999、ちくま学芸文庫
世の途中から隠されていること―近代日本の記憶
2002、晶文社
わたしの城下町
2007、筑摩書房

ちなみに、「わたしの城下町」は、木下先生が平成19年度の芸術選奨文部科学大臣賞の評論等の部門で高く評価された著書です。ぜひご一読下さい。

2008/05/13

受講生のみなさまへ

このたびは公開講座「市民社会再生−文化の射程−」の受講登録へのお申し込みをありがとうございます。実行委員会事務局の予想を上回る多数の登録のお申し込みをいただき、定員満了となりました。
さて、事務局より講座運営の庶務関係について、下記の通りご案内申し上げます。

1.資料代のお支払い
公開講座の資料代は以下の通りです。
通年出席(全13回分)10,000円
半期受講(後期又は前期のみ)6,000円


なお、東京大学の経理規程により、学内での現金の受け渡しは受講生の皆様と事務局、大学の経理部との間に多くの経理的なやりとりが発生してしまいます。そこで煩雑な手続きの発生や受講生の皆様のご面倒を避けるため、誠に恐れ入りますが、お支払いの方法は資料代の金額の多寡にかかわらず、一律に銀行振込とさせていただきます(振込手数料は自己負担となります)。お手数をおかけして大変申し訳ありませんが、お支払いは下記の銀行口座にお振り込み下さい。

三井住友銀行 東京第一支店 普通9519317
口座名義 国立大学法人 東京大学
フリガナ コクリツダイガクホウジントウキヨウダイガク


ATMまたは銀行窓口での振込の際に発行される振込確認用紙をもって、領収書に代えさせていただきます(手書きの領収書などは発行いたしませんのでご了承下さい)。
振込期限は、通年受講および前期受講の方は5月末日まで、後期受講の方は初回の受講日までにお振り込み下さい(振込期限までに入金が確認できず、正当な理由がない場合は、その後の講座の受講をお断りする場合がございます)。

2.アクセス
公開講座の開催場所は「東京大学本郷キャンパス 法文2号館 1番大教室」となっています。特に学外から受講される方は、本郷キャンパスまでの交通アクセスや、キャンパス内の校舎の位置などをwebサイトよりあらかじめご確認下さい。

また、法文2号館の建物内は非常に複雑な導線となっています。特に学外から出席される方は、初回となる講座当日、時間に余裕を持ってお越しいただけるようにお願いします。構内の案内図を下記の通り掲載いたします。


3.出席の確認と修了証の発行
出席回数が8回以上で、与えられた課題を提出した方には、公開講座の修了証を発行いたします。出席は、講座の開始前に1番大教室手前の受付において事務局スタッフが確認いたします。詳細については5月16日の初回の講座において説明します。また、こちらのブログにも掲載します。

以上です。それでは、公開講座の当日、お目にかかることを楽しみにしております。

2008/05/11

定員満了のため、締め切らせていただきました。

事務局よりお知らせします。おかげさまで、公開講座の受講登録は定員満了につき、締め切らせていただきました。
本講座は年間13回の一連の講義を通して学ぶことを趣旨とし、グループワークなどの機会を設けることで、受講生相互のインタラクティブな参加を期待しております。そのため、今年度は各回個別の受講は受け付けておりません。講義当日にご来場いただいた場合でも、入場をお断りすることになります。何卒ご理解ください。

2年目の文化資源学公開講座へようこそ|木下直之(東京大学)

昨年から始まった文化資源学公開講座「市民社会再生」は2年目を迎えました。3年間で、(1)現代日本の社会と文化の現状分析 →(2)問題点の整理と望ましい社会の構想 →(3)構想の実現=「市民社会再生」に向けた方策の開発、という具合に、段階的に考えていこうという企画ですから、今年は、昨年の講座で明らかになった個別の問題を整理し、それらの共通項や構造を探し出すことが当面の課題です。今年から新たに受講されるみなさんも、今はそんな段階なのだということを、頭の片隅においていただきたいと思います。
前期・後期のそれぞれのサブタイトルに挙っている言葉、すなわち「公共性・多様性・マイノリティ」、「記憶・身体・コミュニティ」が、そのための手掛かりとなります。いずれも、昨年の講座で話題になった言葉です。
たとえば、「画一化された社会」という現状を憂い、「多様性を認める社会」をこれからは目指すべきである、という問題が昨年の議論の中から出てきたとします。いや、実際に出てきたのですが、では、どのような状態を指して「多様性」が認められていると見なすのか、という問題をつぎに考えなければなりません。言うは易し、行うは難しです。
文化多様性や生物多様性という言葉をしばしば耳にします。そのつど、多様であることの最小単位は何だろうという疑問が、私には浮かびます。昨年、東大の隣の不忍池に、ワニガメを指して、「異常な生物」に注意という看板が建てられました。そして、すぐに、「異常な生物」は「危険な生物」に訂正されました。生物の多様性を認めるのならば、「異常」な生物はありえないからです。しかし、ワニガメは、人にかみつくという点で「危険」であるばかりか、ある地域の生態系を破壊し、結果的に生物多様性を破壊するという点でも「危険」だと見なされるがゆえに、排除されるのです。看板の「生物」を「人物」に書き換えても同じでしょう。建前としては。
話を人に限って(個人的には、講座の範囲を類人猿まで広げたかったのですが、やむなく人の社会に限定しました)、民族や地域社会に多様性を追い求めるほどに、集団は分解され、最後は個人に行き着いてしまい、多様性=個性ということになりかねません。しかし、個人の中にさえ複数の私がいるという自覚は、みなさんも大なり小なりお持ちではないでしょうか。その一方では、誰もが何らかの集団に帰属しているという意識をたしかに有しているはずです。しかも、その集団は、大は国家から、小は家族や大学や職場などまで複数あるはずです。
国民が画一的な生活を強いられる全体主義国家を一方の極とすれば、その対極には、個人が好き勝手に暮らす社会が想定されます。それらはいずれも、非現実的な社会であり、現実の社会は、両者の中間のどこかに折り合いをつけ、建設されてきました。妥協の産物、といって悪ければ、調整の産物です。新たな社会を構想するということは、新たな調整、新たな仕組みづくりにほかならず、そのためには、いったん「多様性」の理念を問うという作業が不可欠ではないか、と私は考えています。
そんな話から、初日の講義を始めたいと思います。この公開講座は、講師が受講生に向かって、「市民社会再生」の処方箋を、「お待たせしました、ハイ、どうぞ」と渡す場ではありません。いっしょに、処方箋をつくる場です。
そのためにも、今年はクラスを編制し、みなさんで議論する機会を設けることにしました。たぶん、初日にもまた口にすると思いますが、公開講座の会場となる古色蒼然とした法文2号館1大教室は、みなさんが1週間おきに、学校や仕事を終えて帰ってくるホームグラウンドだと思ってください。
1年間、どうぞよろしく。

2008/04/18

公開講座「市民社会再生−文化の射程−」受講登録開始

東京大学文化資源学研究専攻よりご案内です。
このたび、東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻では、昨年度に引き続き「市民社会再生−文化の射程−」と題した公開講座を開催いたします。
こちらのホームページに今年度の公開講座の内容を更新しました。
こちらでオンライン登録を受け付けております。
みなさまのご参加をお待ち申し上げます。

2008/01/11

第12回|平田オリザ氏+古井戸秀夫先生

今日の平田さんの講義は、「地方の見方」のようなものを整理していただけた気がします。また、「文化」が、そこでどのように働くのか、その有効性を、平田さんはきちんと説明してくださったように感じています。地方都市のつくりについて、私は前から、なぜそのような「発展」のしかたが日本全国で見られるのか、疑問でした。そして、それが実際にはどのように働きかけて、社会に影響を与えているのか、今日とてもわかりやすく一つの理解が得られたと思いました。
「なければならないものとしての文化事業」を語るためのボキャブラリーがたくさん聞けました。何度もなるほど、と思うときがあり、こういったボキャブラリーを用いることによって(それを実際に自分の言葉にできていることが必要ですが)、“文化”というものを実現/活用/つくることができれば、すばらしいなと思うことができました。

今日の講義では芸術を運営していくシステムについて聞くことができ、これまでの講義での芸術の必要性等を踏まえて社会の中で芸術や文化を定着させていくことについての考え等を整理できました。私自身もこういったシステムを考え、運営していけるようになりたいのと、様々な人が出会える場を創造していけるように色々と勉強、吸収していきたいと思います。

「芸術はあれば良いと認められるが、無くてはならないものだと伝えられるか?!」との冒頭の問題提示がグサッときた。お話を聞いていて、いくつか自分でできそうなヒントが思い浮かびました。やってみます。

どんなに良い“原っぱ”となりうる場を提供しても、その場を利用すべき市民の関心がないと、意味がないものだと、フランスの劇場のお話を伺って改めて感じました。

非常にリアルな内容であった。どうしても行政批判に集約し、いつも納得してしまっていたが、官に代わって民になって本当にうまくいくかはあやしいと感じた。いろんな立場の方々と実際に取り組まれてきた上でのご発言、その誠実さに感じ入った。また人と何かをつくりあげる喜びや、やりがいも伝わってきた。

様々な事例と数字を基に、今の日本におきている大都市(東京)の文化的収奪や劇場運営上の問題点が明らかになり興味深く思いました。ご高著(『芸術立国論』)は以前読んだことがあったのですが更に議論がシャープになり、地方都市の弱体化や文化的な風土培えないことが浮き彫りになったように思います。また海外の事例も実体験を伴っていらっしゃるので説得力がありました。

講義が終わったあと、「君がやらなきゃいけないことがはっきりしたんじゃないの」ということを言われました。また、「僕がこれからやることがわかった」と言う声も聞きました。すでに、多くの人が平田さんの一言で育てられているんだなぁ、と。
(コメント編集:宮川智美)