2008/06/17

レポート|事例1 中村雄祐(言語動態学)

2008年6月13日(金)、第3回目の公開講座は、中村雄祐(なかむらゆうすけ)・東京大学大学院人文社会系研究科准教授の講演でした。前回の講座で予め、論文『読み書きと生存の行方』が配布されており、今回はこの論文の内容を踏まえた上で「文書をいかに使いこなすか?」という話題が繰り広げられました。(ここでは論文の概要と講演内容を交えて書かせていただきます。)

中村先生の自己紹介として、西アフリカで語り部のもとでマリンケ語の口頭伝承の調査、ボリビアの先住民女性向け女性職業訓練工房での読み書きと生計維持・向上に関する支援・共同調査など、これまでご経験された調査について簡単にお話され、本題に入りました。
人が生きていくためには、基礎教育、特に読み書きが重要であり、統計上では就学率や識字率は収入や平均余命の間に緩やかな相関関係があることが認められているそうです。「読み書きと生存」を考える際には、リテラシー・スタディーズの動向を軸に進めるのが定番だそうですが、中村先生は「読み書き・印刷用紙の消費動向と生存の関係」について述べられました。
電子化が著しい先進国はともかく、世界全体を見渡すと「紙」は読み書きの道具として現在もなお重要な役割を果たしています。そこで現代世界における読み書き用紙の普及ぶり、その生存にとっての意味を考えるため、あるデータをもとに、国別1人あたりの印刷・筆記用紙および新聞用紙の年間消費量と人々の暮らし向きを示す指標との関係を表すグラフが示されました。
データや指標の詳細はここでは省略しますが、グラフから見えてくることは、1人あたり年間紙総消費量と平均寿命指数の間に強い相関関係が見られ、どうやら「経済的に豊かな国ほどたくさん紙を使い、読み書きをしながら暮らしており、長生きできる」ということです。1人あたり年間紙総消費量の166カ国中の上位、下位それぞれ20カ国の平均値を計算してみると、最上位20カ国の平均が122㎏もあるのに対して、最下位20カ国のそれは0.13kgしかないとのことでした。
次に「文書という道具」について触れられました。文書は複雑な出来事を単純化し、本質を捉え、それ以外を意図的に省略して生まれるものです。(ドナルド・ノーマンの言葉より)また文書とは「象徴+道具」でもあります。これは南アフリカで発見された「Blombas Cave」の例が示されました。そして「オイラーの公式」や「中国の地図」などの例を挙げ、文書の発展、文書の用いられ方の説明がありました。そして文書にはさまざまなタイプがありますが、多様な文書のライフサイクルを峻別し、状況に応じて「自分が今何をなすべきか」を判断し、実行できることが「文書を使える」ということだと述べられました。
文書における表現方法の広がりを示すために「図的表現」についての話題もあがりました。これは個人的にとても興味深かった話題です。途上国では図を用いての相互理解が有効という一例とともに、ロンドンの地下鉄マップが生まれるまでの経過が紹介されました。途上国も先進国もコミュニケーションの有効化(相互理解の簡略化)のために、ほぼ同様なことがされているとは驚きでした。また、人間の数感覚や世界の数字体系についても触れられました。世界各国1~3までは、ほぼ同じ体系がありますが4以上の数字は各国で恣意的なルールが設けられているそうです。

「身体、顔、声、話し言葉、そして文字」と題し、表情で心を読み取ることの例や文字という表現方法の特質についての話題もあがりました。その上で、タイポグラフィーを言語別にみた実験結果、金融広告などの話題も出ました。「文字を読む、心を読む」と題されたトピックでは文字を通しての微妙な心情表現についての考察が紹介されました。
では現代社会における「文書」とはいったいどのようなものなのでしょうか? 文書は不確かな「認知のパワー」を持っています。その文書をいかに使っていくべきでしょうか? 書面に展開されている多様な記号群からは何が読み取れるでしょうか? 文書の奔流をいかに制御するべきでしょうか?
煩雑な書類仕事に振り回される経験は先進諸国ではありふれたものですが、振り回されること以上に、膨大な文書の作成、処理は人々に災厄をもたらす過程に深く関わる場合があります。その例として、中村先生の調査・研究から「ジェノサイド」と呼ばれる国家による計画的な大量虐殺と「グアテマラ」の殺戮についての詳細が述べられました。
「文書」は現代文明の輝かしい躍進にも絶望の極みにも等しく関わってきました。文書使用は人々にとっての大きな助けとなるとともに負の効果をも及ぼしえます。文書が世界中に氾濫する現代は、さまざまな知が思いもよらない形で出会い、ともに世界中の人々の生存に関わりを持つ時代です。これらの事情を踏まえ、私たちはさまざまな文書を通し、その特性を吟味しながら「人間の安全保障」を考えていく。これが今後取り組むべき課題の1つとなるのだろうと考えさせられました。
1時間という短時間で、中村先生は「文書」について多角的にお話くださり、講演後のグループディスカッションも盛り上がり、質疑応答も活発になされました。講演終了後は懇親会が開かれ、冷えたビール片手に美味しい食事をいただきながら受講者1人ひとりの自己紹介に皆、聞き入ってくださいました。
文責・有賀沙織

<参考>
高橋哲哉・山影進 編2008『人間の安全保障』
中村雄祐先生 講演レジュメ 2008年6月13日

18 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

人間の生存と文書の関わりについて、驚くほど多角的な分析結果を聞くことができ、とても興味深かったです。文化と人間の生存(あるいは心の健康)の関わりについても、分析が可能ではないかと思いながら聞きました。それにしても、グアテマラでのジェノサイドの生々しい記憶が描かれた小学校の壁画の写真は、いま思い出すだけでも、こみ上げてくるものがあります。

匿名 さんのコメント...

講義に先立ち、事前に「読み物」が宿題として出された頃、アマゾンの奥地で暮らす未開の村が報道された。行き過ぎた森林伐採によって、彼らの暮らしが脅かされていることを知らしめる、という目的だった。「このアマゾン奥地で現代社会とは断絶状態で暮らす彼らが、読み書きできるようになることは、幸せとはいえないだろう。たとえ、少々生命が長くなろうとも。まず、現代社会と接触して、様々なショックを受け、短命になるのでは?」などと思いを巡らせた。
講義に登場した、グアテマラから来た研修者たちの、たくましい生き延びる知恵にも目を見張った。彼らは、プレゼンテーションスキルという武器を身につけ、もう一段、生命力を強くしたのだろう。
アマゾン奥地の未開の人に、今、読み書きの技能を教える必要は無いとは思うものの、多分、幾世代か後の末裔たちは、現代社会に取り込まれていくのだろう。そのとき、グアテマラからの研修者同様、たくましく、生き延びてくれることを願う。

匿名 さんのコメント...

「文章をいかに使いこなすか?」いろいろな視点による興味深いお話は時間を経て過去に聞いたことのある友人の話を想い起こしました。
それは4・5年ほど前にインドに滞在した笑いを通じた国際交流の実践者パッチ・アダムス(実際の)と交流の深い友人からの話です。「今回インドに行って凄く驚いたのは、文章の読み書きが十分に出来ない人でもインターネットを使いこなしている」という話です。
例えば興味あるキーワードだけで検索をする。関連する情報がでてくる。その場所がわかるなどでしょうか?
現在パソコンを使用できる人とできない人とのデジタルデバイドが進む中、この話は私の意識に深く刻み込まれたコメントでした。

そう!文章をできるだけ短い省略で表すKY(空気読めない)などの用語が増える中、これからの文章力とはより記号化してビジュアル化するほうが共有しやすいのか?文化の継承はどのような手段が適切なのでしょうか?

日頃デザインに関わる生活の中で、とても考えさせられる課題となって自分の中での自問自答が日が経つごとに膨らみます。
文章よりもキーワード。言葉に代わる五感への伝達法。共有化の手段は文章を超え、どのように進化してゆくのか?果たしてそれは正しく伝わるのか?「言語動態学」新たな専門分野に思いのほか興味が募るこの頃です。

匿名 さんのコメント...

個人的に興味深く思われたのは「人は、何人ぐらいまでだったら、その人がなにを考えるか想像・予測できるか?」の指数を示すダンバー数です。
認知的集団数の上限は約150人。それ以上では相手を個別に把握する能力がガタンと落ちてしまいます。多くの人と出会う機会のある現代社会では、ひとりひとりと向き合うことは物理的に難しいのかもしれません。ただ、顔の見えない社会になってしまったことが昨今の社会問題の要因のひとつなのではないかと考えています。

匿名 さんのコメント...

ナチスやグアテマラ秘密警察が文書を大量に使用し、所持していたことにはショックを受けた。
それは紙の消費が、間接的にだが人の死に関わっていたように感じたからだ。
平均余命と紙の使用量、それは明確な説明はできずとも関係があるというコトは漠然とは感じていた。そのとき私の考えにあったのは、ただ紙の消費が少ない=平均寿命が短い、ということだけだった。だが紙の消費が不自然なとき、それはまた不均衡な平均寿命を生むのではないか(極端にいえば一部のとてつもなく短い寿命)という、私の紙と文字と生とに関する考えを揺らがす事例が、今回の講義の中であったのだった。
紙と文字、文書は情報伝達に深く関わっている。これらが存在する前提には、情報を表象するものの存在(例えば文字)、情報を表彰するものを具現化する道具、そしてそれらを伝える媒体(例えば紙)といったものが当然必要であった。この条件が揃っていたとしても、情報共有のためには別の要素がなければ意味をなさない。つまりそれが一部にとどまるものではなく、共有されねば有効にはなりたたない。
それらの消費にどのような不均衡があるのか、どう読まれ・消費されているのか考えて行かねばならないのではないか。「文書」というもののあり方について、考えさせられる講義であったと思う。

匿名 さんのコメント...

 事前にいただいたペーパーを、紙の使用量と平均寿命に関係があることに新鮮な驚きを受けながら読ませていただきました。印刷筆記用紙の増大が常に住民の暮らし向きの向上につながってきたわけではないという「ジェノサイド」の事実も紙についての認識を新たにしました。また、言語と読みやすいフォントの関係を聞いて、ワードのフォントリストの意味が分かったように思います。
 短時間に大量の情報をお話しいただいたなかに、ロンドンの地下鉄路線図がありました。このお話しを伺いながら、現在の東京の地下鉄路線図の原型となるデザインを作成された河北秀也さんの本(『河北秀也のデザイン原論』p.51-54、新曜社、1989年)を思いだしていました。現在の東京の地下鉄路線図の原型は1970年代前半に作られていることを考えると、ロンドンの地下鉄路線図の優れたデザイン(思想)が伝播しなかったのは、何故だろうと考えたりしています。東京の地下鉄路線は世界で一番複雑であるということもあるのでしょうが、デザインの伝播には時間がかかるのか?それともグローバル化する以前の世界だったからかなどと考えたりしています。(用意していただいた資料があまりに大量で、パワーポイント上にデータが重なって確認できない点があり、ちょっと残念です。)

匿名 さんのコメント...

「わたし、あのひとに嫌われた!だって、昨日送ったメールの返事に、いっこも“かおもじ”が使われていなかったんだもの!」
彼女の目から涙がこぼれ落ちる前に、呆気に取られた私の手元から、ピンセットでつまんでいたコットンが床に落ちた。当時保健委員だった私に恋の相談をもちかけてきた後輩は“かおもじ”に本気で苦悩していた。嘘ではない。つい三年前、私が高校生だった頃の話だ。
「ことばは、いつも気持に足りない。そんな気がしているから、みんながことばをトゥマッチにしたがるんでしょうね。」と言ったのは糸井重里氏だけれど、どんなに言葉を過剰にしたところで、「どんなつもりで」その言葉を選んだのか、という最重要事項が顕在化されない限り、少女たちはおびえ、そのコトバの裏を案じ続ける。今日、我々の言葉は便利な手段で速度を手に入れたのに、未だに「表情」…“かお”を求めて右往左往を続ける。凄まじいスピードで“かおもじ”を打ちながら。
身体感覚に沿わないフォントが機能しないこと、話す相手の微細な表情から会話意味を読み取ろうとしてること、人間の数のとらえ方。中村さんが繰り出す怒濤のテーマの渦にびりびりしながら、ふと思い出したのは、このようなことだったのだ。

匿名 さんのコメント...

講義を聞くまで、私はもっぱら文書のことを、記号としての「文字」とそれが記録してある「媒体(紙)」の組み合わせだと認識していた。しかし先生が講義で話されたのは、モノとしての「文書」の話だった。例えば「声」だって「空気」というモノとして捉えられるように、モノに記された記号の意味を読み解くか/それともモノ自体を見るかは、頭のスイッチの切り替え一つで変わってくる。記号を読もうとする姿勢はユーザーとして正しいけれど、安心して記号を読める環境を可能にする舞台裏にも目を向ける重要性を伝える講義だったと思う。当たり前のことだけれど、「記号」やその「意味」だけが文化なわけではない。優れた劇場のように、舞台裏にこそ豊かさが広がっている。

hasegawa さんのコメント...

死刑執行が問題になっている。宮崎被告を含む、13名の死刑執行が行われたとか。私にはこの問題も、前回中村先生の講義で伺った文書と文化、権力のシステムと自由裁量の中で話題になった問題と捉える事ができるような気がする。
グアテマラの悲惨な出来事は、国家という唯一暴力を合法的に行う事のできる機関により、文書のトップダウンにより、文書の上の文章や様々な権力に取って都合の良い法解釈によって行われてしまった。

講義のあとで先生がおっしゃっていたのは、「文書自体が人を殺したりする事はできない」ということ。たしかにその通りであるが、承認の印を押すだけで、実際に人は殺されてしまう。官僚システムの恐ろしいところ。
私は死刑に絶対反対の立場ではないけれども、そのような国家の暴力を許す事でその範囲が拡大していかないか、そのあたりの監視がきちんとなされる社会でないと、野放図にしてしまうと危険だと思う。司法の問題については抜けていますが、文書と人の生死に関わる問題は大変興味深く感じました。
Hグループ 長谷川

長井 さんのコメント...

中村先生の深い見識に裏打ちされた、領域横断的な講義であり、大変興味深かった。「文字は記号である」。なるほど、この定義によれば、これまでに無文字社会とされてきた先史時代の考古文物にも「記号としての文字」を看取すべきかもしれない。卑近な例では、高度に抽象化された縄文土器の紋様、初期現生人類が作った造形品、壁画等等。これらのコード化された古代紋様のなかに、先史人の認知が隠れているのかもしれない。アンドレ・ルロワ・グーランの業績を思い出しました。

Dグループ 中村 さんのコメント...

 中村先生の講演をお聴きして、生存を左右する営為として「読み書き」を考えたとき、「読む=知る」「書く=考える」というふたつの行為に分れることにあらためて思い至った。人間が複雑な要素を相互に関連づけて理解するには、「紙に書きだす」以外にないのだろう。「書くことが考えること」であるならば、書字方向(縦書きか横書きか)や字体の選択なども、私たちの思考に一定程度の影響を与えていると思う。
 ネット時代にあっても、紙は重要さを失わない。PC等で文章を書くばあい、バックライト上に文字を浮びあがらせるだけでなく、プリントアウトしたものを反射光に照らして再確認することが大事だと感じる。やはり画面上と紙とでは文字が目に飛びこんでくる感覚がちがい、あらたに気づくことがあるし、紙に写すことで想念が定量的な確乎としたものになる気にさせられるから。
 それにしても、虐殺の悪事が、隠そうとしたのに書類として残って露見してしまうというのは、文書に権力性をやすやすと認めてしまう人間の性が、歴史のなかで逆に復讐されることをゆるしたようで、とても興味深かったです。

匿名 さんのコメント...

文書の使い方やその使う際の作為によって、私たちは理解を促されもするし、間違いを犯すこともある、ということが様々な具体例から伝わってきて大変興味深かったです。
講義を聴いて、私は面白い美術展や芸術作品を観た時に「よかったなー」という気持ちがなかなか具体的な言葉にならず、周りの人に伝えられなくてもどかしい思いをすることが多いことを考えました。

匿名 さんのコメント...

何ら意識することもなく、そこにあるのがあたりまえの文字、読み書くという動作。
「読み書きと生存」という主題が従来のリテラシー・スタディーズという観点からではなく、読み書き・印刷用紙の消費動向と生存の関係から論じられているのが興味深かった。
一人あたりの年間紙総消費量と平均寿命指数、知識指数、GDP指数それぞれの相関図が示され、平均余命最下位20カ国の平均使用量が31枚というのには耳を疑った。日々使用している用紙は何年分?
識字ということではベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を読んだ時に感じた読み書きができないことの恐ろしさ、哀しみを思い出していた。
最後にグアテマラの研修生のたくましさは、数年前に会ったアボリジニの劇作家に通じるものがあり、微笑ましくもあり、それだからこそ生きていけるのだろうと胸が熱くなった。

匿名 さんのコメント...

なかなか難しい講義でした。
なぜなら、私たちは“基本的に”言葉を使いこなすように生きてきたからなのでしょう。
それも、義務教育法があったから。
そういえば、トム・クルーズが難読症をカミングアウトしたのが、すでにハリウッドスターの地位を確立してからで、そのニュースに「まさか!トム・クルーズが!?」という気持ちと、「そんな病気の人が存在するの!?」という反応が入り交じったものだったと記憶しています。
私たちは普段どれだけ言葉に頼っているか。個々人の語彙の多さに関わらず、気づかないところで、生活に多かれ少なかれ影響を及ぼしているかもしれないと思うと、平和と言われる日本に生きる日本人でもゾッと思わなくもないですね。

Unknown さんのコメント...

jグループ:宮川
印象的だったのは、紙消費量最下位20カ国の一日の消費分の紙を示して、「これだけでどれだけのコミュニケーションがとれるか?」という問い。紙としてではなく表現をのせた文書として、考えるためにも、伝えるためにも、不可欠な道具として存在しているものだと実感しました。その道具に何をのせるかだけではなく、文書という一体のものとしてどう使いこなしていけるのか、無自覚ではいけないと考えました。
とても難しい講義でした。
内容は具体的な例を話されていて、一見わかりやすいのですが、使う側/受ける側、その力や影響力をわかっている側/わからない側、、様々な要素が混じり合って含まれていて、講義を聞きながら少し混乱してしまいました。直後にグループ内で他の方の考えを聞けたことが、理解の助けになりました。

公開講座運営委員会事務局 さんのコメント...

(事務局です。中村先生より、以下のコメントをメールでお預かりしましたので、転記させていただきます。)
受講生の皆様
講義当日ならびにブログへのコメント、改めてありがとうございます.
一回きりの講義で何をどうお伝えするか、今回もいろいろ考えた末、ああいう形となりました.
あとから反省するところもたくさんあるのですが、皆さんが市民社会について思考を深めるための素材をいささかなりとも提供できたようでほっとしています.
文書もいざまじめに考え始めると奥深いものですが、日々の暮らしでは、書面の向こうにいる人々に思いを馳せ、適当(てきとー)なかげんでデザインなど遊びつつ、楽しく付き合ってまいりましょう.

しげゾー さんのコメント...

<・・・稚拙ながら、今回の講義では、これまでにハーバーマス「公共性の構造転換」などを”実に浅ーく”読んで頭に思い描いたことにいくつか針が振れたので、私なりに”反射”し、講座全体のテーマのひとつである「公共性」に照らし思いつくことをまとめてみます>

以下、少々長文になりましたが、ご容赦ください。

 ハーバーマスにの著書では前半で「『公共性』の概念史、思想史を研究し紐解く」ことが位置づけられていました。乱暴なまとめになりますが、そこでは、近代において富裕層、王侯貴族による専制から、市民社会の萌芽やコーヒーハウスなどで「世論」(Public Opinion)として醸成されていくには、この層がそれまで手の届かなかった”情報”を獲得した事実があったと思います。キー概念のひとつである「公開性」(斎藤純一の言うOPENの意味での公共性-「公共性とはなにか」-)につながってくるのだと思いますが、小川真人は美学に照らして「近代美学と『公共性』の問題」でカントの国民の啓蒙から「『公開(publizitat)の禁止はより良いものへ国民の進歩を妨げる』と引用しているように、グーテンベルグの印刷術によって生み出された紙媒体(=文書)がのちに新聞のような”メディア”にまで発達し、市民がサロンで文芸に加えて、政治についても公開を通じて議論出来るようになり、世論形成に寄与していきました。
「公表あるいは公刊(Publish)されること」によって、公共性の担い手が移行を促進する、そこに介在した”メディウム”こそ文書と捉えるなら、一方で歴史が証明しているように、時に公表あるいは公刊されず“通達”として命令のように下される文書。あるいは文書が強烈なメッセージを汲んだり、恣意性を含んだりすると、大衆を煽動し暴走させうる、極めて危険な側面を孕んでいるという正と負の二面性が、この文書というメディウムを纏っているようです。

また、メキシコでは、革命後のアイデンティティー確立の一翼を壁画運動という芸術が担い、政策にまで用いられていたように思います。それは、いわば”公(OFFICIAL、オフィシャルな-斎藤-)の”国の歴史の構築、啓蒙に寄与していましたが、しかしながらグアテマラの小学校に描かれた壁画の絵図は一方で”記憶”を刻むという営為を(当然のことながら)識字率の問題も密接に関わっていると思いますが、文書でなく、じつに”場所(サイト)”に相応しい形で次世代へ継承しようとするアンチ・テーゼのようにも映ります。

金谷@Dグループ

匿名 さんのコメント...

中村先生の講義では、ダンバー数が紹介されました。霊長類にとって「群れの物理的規模が大きくなるに従って、群れの社会的な複雑さが急激に増す」「人の数には認知的な上限がある。そしてその上限は脳全体に対する大脳新皮質の相対的なサイズによって決まってくる。(中略)その上限は約150人と推定される」ことが示されました。私たちが無意識に捉えている地域社会の最小単位とは、行政区などに規定されるものではなく、他者を認知できる範囲を指すのではないかと思います。具体的にその範囲とは、伝統的な血縁・地縁的な集団、NPOなどの特定の目的を持った集団などであり、この範囲を越えた時点で個々人は個々の人としてではなく、帰属する集団の一員として認知されるのではないかと思います。多様性を許容しあえる社会とは、個々人の価値観の多様性だけでなく、個々の集団の文化や歴史を認める社会であろうと考えます。この個々人と集団との関係を認識しない限り、個人個人で交流すると友好的であるのに、集団同士となった瞬間に敵対関係に到ってしまうのかもしれません。Iグループ土屋