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2008/12/04

紹介文●ゲスト講師3人をお招きした理由

今年度、数々のゲスト講師の最後を飾る次回の公開講座は、大阪と神戸から、第一線のアートの現場で活動されている三人をお迎えします。ここでは、この三人のこれまでの活動をごく簡単に紹介したうえで、なぜ、この三人を講座に招いたのか、その背景と趣旨を説明させていただきます。
神戸を拠点に活動されているアーティストの杉山知子さんは、1994年からC.A.P.(芸術と計画会議)の代表を務められています(2002年にNPO法人化)。ご自身の作家活動と並行して、神戸市内の遊休施設をアーティストのアトリエとして転用したCAP HOUSEを運営し、アーティスト・コミュニティの拠点を形成されてきました。
神戸と大阪で活動されている木ノ下智恵子さんは、現在、大阪大学のコミュニケーションデザイン・センターの特任講師を務められており、大阪の都心部を中心に、さまざまなアートプロジェクトやカフェイベントの企画制作を手掛けられています。また、長らく神戸アートヴィレッジセンターのアートプロデューサーとしても活動されてきました。
山口洋典さんは、浄土宗應典院の主幹でもあり、京都の同志社大学の教員もされています。應典院の境内には劇場設備を有する地域に開かれた施設があり、そこで大阪の若い演劇人たちの人材育成や作品発表が展開されています。また、「大阪でアーツカウンシルをつくる会」の世話人としても活動されています。
さて、この三人を「市民社会再生」をテーマとする本講座にお招きしたのは、昨今の関西における文化を取り巻く事情を抜きにしては語れません。
昨年度の公開講座でも、NPO法人DANCE BOXの大谷さんから、大阪市の行財政改革の荒波によって、活動拠点だったフェスティバルゲートからの撤退を余儀なくされた話を伺いました。その後DANCE BOXは、大阪市からの提案により代替施設に移転したものの、そこも短期間の退去となり、最近、神戸市からの申し出によって、拠点となるスペースを構えることができたそうです。
また、みなさんご承知のとおり、大阪府においても知事からのトップダウンの財政改革によって、大阪センチュリー交響楽団の存続問題に代表されるように、文化団体や文化施設の財政危機だけでなく、その存在意義そのものに疑問を投げかけられている状況です。
さらには、滋賀県では県立芸術劇場であるびわ湖ホールの運営予算について県知事と県議会とが対立し、「福祉か文化か」といった二者択一の議論に発展する一方で、県民だけでなく、全国の芸術関係者や芸術団体による署名運動が展開されました。
以上のような関西の文化事情は、個々の問題についての当事者の意見や立場の違いによる見解の相違を検証することは可能です。しかし、より重要なことは、「そもそも市民社会にとって文化の役割とは何か、そしてその役割を、誰が、どこまで担うのか」を語るべきではないでしょうか。
三人の共通は、関西で活動すること、芸術の現場に関わっていること、何らかのコミュニティの媒介を担っていること、そして非営利の公益活動を実践していることです。そうした立場から、市民社会における「文化の射程」を、どこまで広げているのか。あるいは、市民社会再生の芽生えが、どのような形で見えてきているか。短い時間ではありますが、熱く語っていただきたいと思っています。(大澤寅雄)

2008/11/04

感想文●渡部泰明「身の表現としての和歌」

次回(11月7日)の講座講師のお一人である渡部泰明先生は、もう一人の講師野田秀樹さんが夢の遊眠社を立ち上げられた際に一緒に活動をされていました。今回、公開講座に先立ち先生の「身の表現としての和歌」(『和歌をひらく第一巻 和歌の力』所収)を拝読しました。その中で展開されていた「演じられる和歌論」とでもいうべき論がとても興味深く、先生の研究テーマの「和歌」と演劇をつなぐヒントになるのではないかと考え、ご紹介させていただきます。
本文では『古今和歌集』仮名序・『無名抄』・藤原俊成・藤原定家・二条為世と京極派の時代を追って展開される和歌論の5例から、和歌における「さま」「姿」「風体」について論じられています。とだけ書くとたいへん分かりにくいですが、「和歌には人の心だけでなく世の中のすべてに影響を与える不思議な力がある」と主張する『古今和歌集』仮名序の文章に対し、なぜ和歌がそのような力をもつ存在になるのか、その経緯は、ということを考察した文章です。
仮名序で語られる「さま」とは公的な宮廷文学としての価値をもつ和歌の形です。詠まれた和歌それのみでなく、作者自身にも「さま」が相応していることが求められます。「作者の身が和歌の表現の中にすっかり溶け込むような、隙のない完全な演技」が必要なのです。これは「虚構の生」と呼ばれます。『無名抄』では、優美な仮構の姿を演じることを突き詰めた先に表れる余情が和歌の本質であると語られます。
藤原俊成・定家親子は、よい和歌を詠むためには「古来の歌の姿」=「風体」を身につけることが必要であるといっています。それはたとえばあたかも『枕草子』の中で描かれていそうな具体的・典型的・和歌的な空間を描出し、自分がその中に身を置いているような感覚をもつことによって「姿」を実感すること。そうして想像力を広げ、新たな表現の可能性を探るべきことです。ここで、定家の著作であるとされる『毎月抄』が定家になりかわった何者かが書いたものであり、定家の思想のもとに和歌を学ぶ人を教育しようとするものである可能性が示されます。そこには「姿」「風体」を実感する、演じることを求める書がまた演じられているという二重構造があります。
鎌倉時代の二条為世は、上で見てきたような伝統的な発想から読まれた和歌がどれも同じようでありながら一人ひとりの個性を逆に強調すると語ります。「古来の歌の姿」を追い「虚構の生」を演じることがここでも求められます。
題を与えられたうえで詠むことが殆どである和歌は、その表現に強い虚構性を持ちます。和歌は「身の表現としての性格があり、演技性をもつ作者の振る舞いを表現するもの」です。それはどのような立場の歌人にとっても同じであるといえます。和歌のもつ不思議な力を与える条件を演じるということに結びつけて展開される論に、渡辺先生の演劇人としての一面を見たように思いました。(赤星友香)

感想文●野田秀樹「駄文集大成 おねえさんといっしょ」

公開講座後半も4回目。11月7日の講座には演劇界のトップランナーとしてご活躍中の野田秀樹さんがいらっしゃり、人文社会系研究科日本文化研究専攻で、野田さんと演劇の活動もされていた渡部泰明先生が、さまざまなお話を引き出してくださいます。お二人は一緒に夢の遊眠社を立ち上げられたとのことなので、私個人的には活動当初のことや当時のエピソードをお聞きしたいと考えています。
野田さんの書かれた文庫本、『駄文集大成 おねえさんといっしょ』(新潮文庫)を、先日ふと手に取りました。だいぶ前に出されたものですが、コンパクトかつ多岐にわたる野田さんの活動が紹介されています。昭和60年4月から62年3月まで「膝小僧時代」昭和62年4月から8月まで『小説新潮』に連載されたエッセイや、中村勘九郎さん、扇田昭彦さんら演劇人との対談、その他もろもろ多種多様な文章がまとめられており、当時、野田さんが演劇で挑戦したかったこと、作家に関しての考察、演劇をとりまく環境についてなど書かれています。
中でも衝撃的なのが有名人をドラマティックに紹介しているエッセイ! 美空ひばりや松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄などの個性豊かな人たちを紹介するのに、いつの間にかにショートストーリーが出来上がっていて、エッセイだけれど短編小説? と思うほどです。紹介する人物の日常では到底ありえない世界をつくりあげ、そこにイキイキと人物を描きだす。すると、いつの間にか、そのありえない世界の中で人物が歩き出していて、最終的には「あっ、そうだよね、この人、きっと!」といった感じで読者を納得させてしまう。それも松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄ですよ! 皆、ありきたりの言葉では語りきれない個性的な人ばかり。たった数ページのエッセイで、これをやり遂げてしまう野田さんの表現力に、私はただただ驚くばかりでした。
そしてこれが演劇の脚本になるとどうでしょう。エッセイで取り上げた人たちに劣らず個性的な登場人物が複数出てきて、それぞれが、それぞれの道を歩き出し、巡り合い、ぶつかりあう。それはいったいどのような話でしょうか? これは考えても、なかなかわかるものではありません。舞台を見て、初めてわかるのかもしれません。来年年明けに、野田さんの新作『パイパー』が上演されます。それも舞台は1000年後の火星!? まずは、ちょっと手軽な宇宙旅行に渋谷へ参り、考えてみようと思います。(有賀沙織)

2008/10/23

感想文●田中泯 出演作品「たそがれ清兵衛」「メゾンドヒミコ」

後期第2回、10月31日の公開講座に向けて、講師にお迎えする田中泯さんの出演作品を鑑賞しました。
田中泯さんは、世界的に知られる舞踏家で振付師です。…と、同時に山梨県北杜市白州町で1985年に「身体気象農場」を開設され、97年には同県甲斐市上芹沢に「舞踏資源研究所/桃花村」を設立。農業と舞踊を同時に実践される農業者でもいらっしゃいます。
舞踏においては、土方巽の作品に参加されるなど、すでにそのご活動の様子はよく知られていましたが、その名がそれまで舞踏の世界に接したことのなかった多くの人々(まさに私のように)の知るところとなったのは、映画への出演がありました。今回は、その映画作品のなかから、代表作である標記2作品を取り上げ、ご紹介します。
2作品ともひじょうに有名で、人気のある作品ですので、ご覧になった受講生の皆さんも多いかと思います(まだの方はぜひ!)。田中さんの役どころは、「たそがれ」では主人公の敵役・余吾善右門、「ヒミコ」では主人公の父で、ゲイの老人ホームを経営する卑弥呼を演じられています。この2つの役だけで田中さんを語るには足りなさ過ぎることは十分承知のうえで、あえていうなら、どちらの役もその存在感に「ゾクゾクする」ということ。いずれも、出演者情報では3番目にでてくるような役どころですが、総出演“時間”は他の脇役さんより少なめです。特に余吾善右門は、途中に少しと最後に登場して、終始暗いアングルなので表情が見えにくいような気さえします。それでも、迫力のある決闘シーンの立ち回り、憂いと怒りと悲しみが同居したたたずまいに、初映画出演となった同作品で日本アカデミー助演男優賞を受賞されたのも納得です。恥ずかしながら舞踏の知識はほとんどありませんが、切られた善右門が最後に悶絶して倒れるシーンには、舞踏の要素がぎゅっと凝縮されているような、力強さが感じられます。
一方の「ヒミコ」は、そうした舞踏家の「動」のイメージとは逆に、末期がんにおかされほとんどをベッドですごす「静」の役どころ。田中さんも、はじめの記者会見では「舞踏家が寝てるばかりじゃあ」とボヤかれたそうですが、映画になったのを見たときは、「踊っているときの感覚が見えた」※そうです 。ますます舞踏の世界の奥深さを感じます。コワイのか、やさしいのか、寂しいのか・・・最後までとらえどころのない卑弥呼ですが、死の間際に、娘である主人公に向かって、『本当のことを言うわ・・・』とじっと見開いた目で漏らす、『・・・あなたが、好きよ・・・』の一言は、まさに究極のゾクゾク感。それは、怖いとかドキドキするとかそういう陳腐な言葉ではもはや表せない、フシギな感覚を私たちにもたらす演技です。
舞踏や農業のくらしがどのように結実して、かの役たちをつくりだしていったのか、30日はぜひその一端が伺えるといいなと、いまから楽しみに思います。(横山梓)
※ クロワッサン2008年2月25日号 インタビューより

2008/10/10

感想文●沼野充義「亡命文学論」

後期第二回目、10月24日の沼野充義先生の講義へ向けて『徹夜の塊-亡命文学論』(作品社、2002年)を拝読しました。この本は、沼野先生によって書かれたロシア東欧の「亡命作家」についての文章が、まとめられ、再構成されて新たに一冊の書物になったものです。
わたしはロシア東欧の歴史についてあまり知識がないまま読み進めてしまったのですが、亡命ということを軸に集められた、作家・作品の紹介文のように読むことができました。本文では、数多くの亡命作家について、その理由や状況、それぞれに異なる亡命のあり方、または、亡命作家の作家としての活動にまつわる内面的なことがらや、活動を取り巻く枠組についてなど、幅広い内容が書かれています。
みなさんは「亡命」という言葉を聞いてどのようなことをイメージされるでしょうか。現代の日本において、「亡命」ということを自分自身に関係のあるものとして、ごく身近なものとして考えたことのある人は大変少ないのではないだろうかと思われます。先生も本文中で指摘されていることですが、漠然と何かロマンティックな響きを感じる人も多いと思われます。私自身もタイトルの「亡命」という言葉にはるかに遠い土地での出来事を遠くからうっすらと見るような感覚を持ちました。しかし、本文において先生は「亡命」という状態に含まれるわたしたち人間の全員にかかわりある「究極の問い」を指摘されています。その問いとは、私たちの人間の生の「起源」と「終末」についてです。私たちはその問いのどちらも確かめることはできないで「起源」と「終末」の「間」の時間を生きています。亡命者が「ユートピア」を離れもう一つの新たな「ユートピア」求めてさすらい、その「『間』を漂い続ける」ということに、私たちの生のあり方の原型を見ることができると指摘されています。
前期・夏休み課題を通じて、ひとの集まり、それを作り出すこと、支える枠組みなどについて考える機会がたくさんあったように思います。さて、本書で取り上げられている「亡命」は集まりや枠組みの境を飛び越えようとする力によるものと考えられます。ご自身も亡命者のように越境と回帰を繰り返してこられたという沼野先生が、どのような切り口で「市民社会」あるいは「文化の射程」ということについてお話くださるのか大変楽しみに思います!(木下紗耶子)

2008/07/08

感想文●「妹島和世読本−1998」

前期最終回となる7月11日講義へ向け、事前知識を得るために『妹島和世読本−1998』を拝読しました。この本は、『GA』という建築雑誌に掲載された、妹島和世先生へのインタヴューが基になっています。先生の幼少期から1998年時点までの建築活動が、エピソードを交えて描かれています。出版は十年も前のことですが、今日のご活躍の根底にある経験や思いを垣間見ることができました。私自身建築が専門ではないので、具体的な技術上の問題等難しい部分もありましたが、「市民社会再生」という観点から感想を述べたいと思います。
まず興味深かったのは、妹島先生が感じていらっしゃる、建築家の「生みの苦しみ」の部分です。そもそも私が実際に見たことのある先生のお仕事は、表参道のDiorビルだけでしたが、そのスッと白みがかった半透明の建物から受けた印象からは先生の苦労を想像できていませんでした。全ての計画に対する試行錯誤と細部へのこだわりを、この本を通して知ることができました。
そしてそのプロセスは、「市民社会」や「公共性」といった抽象的な概念をいかに具現化し提示するか、という問題への取り組みでもあったのだということがわかりました。例えば、個人住宅を設計される場合、両親−子供で構成されるいわゆる「核家族」とは異なる、現代の多様な家族の在り方とその可能性を意識されていました。また、美術館、学校等公共建築の計画では、ユーザーの自由な使い方を許容•刺激する「立体の公園」を実現することを常に目指されていました。言い換えれば、それは、建築空間の内部で展開される世界と外部にある社会をいかにつなぐのか、という問題だったのだと思います。それに対し建築家は何を提案できるのか。この本を読み、このような大きなテーマに対する答えの模索として、妹島先生の一連のご活動を考えられるようになったと思います。
翻って考えてみれば、それは本講座の受講者全てに共通する意識ではないでしょうか。建築、というフィールドに限らないにしても、芸術分野等での文化活動をいかに社会の中に位置づけていくのか、そして位置づけたところから何を目指すのか。誰もが自分に置き換えて考えられる話なのだと思います。
妹島先生のお仕事を、造形や建築の観点から味わう。もちろんそれも大切だと思いますが、加えて「市民社会再生」の視座から考えることも加えたいと思います。『妹島読本−1998』は私にとってそのきっかけとなりました。(星野立子)

2008/06/17

感想文●南嶌宏「人間の家-真に歓喜に値するもの」

6月27日の南嶌宏先生(女子美術大学芸術学教授、前熊本市現代美術館館長)の講義に先立ち、『ATTITUDE 2007 人間の家-真に歓喜に値するもの』(熊本市現代美術館2007)に南嶌先生が寄せられたエッセーを拝読した感想を記します。
「神様、私をあなたの平和を広める道具にお使いください。…」―アッシジの聖フランチェスコの「祈りの言葉」(「平和の祈り」)が冒頭に掲げられたこのエッセーでは、2002年の熊本市現代美術館開館までの準備期間2年半と開館後の5年間の南嶌先生の歩みが、つぶさに語られています。
「現代の美術を通して人間のありようを検証する美術館」という基本理念を持つ熊本市現代美術館では、開館記念展「ATTITUDE 2002」において、堕胎を強制されたハンセン病元患者の女性が、わが子の代わりにしてきた抱き人形「太郎」が展示されました。「ATTITUDE 2007」展のポスターに使われたのはハンセン病回復者である成瀬テルさんの20歳の頃のドレスを纏った輝かしい写真(この公開講座のホームページの開講趣旨のページにも使われています。)で、この展覧会では、ハンセン病回復者の人々の作品が世界の現代アーティストたちの作品と共に展示されました。差別され、人間としての権利を奪われてきた人々の表現に人間の美しさを見出し、光を当てたのです。美術史の枠組みにとらわれず、人間の営みを見つめる「人間の家」としての美術館の可能性を提示しています。
エッセーでは、日本にある13のハンセン病の国立療養所、そして台湾と韓国の療養所を巡る間のハンセン病回復者一人ひとりとの出会いの記憶が、大切に思い起こされ、書き綴られていました。美術の専門家である前に、常にひとりの人間として真摯に向かい合う様子が浮かんできました。
私は、自分の大学の博物館学の授業の一環で、多摩全生園と国立ハンセン病資料館(前高松宮記念ハンセン病資料館)に訪れたことがあります。資料館の展示では、入所者の人々が文学や絵画を創作していたことにも触れていて、印象に残りました。エッセーの中で南嶌先生もご自身の無知と無関心を責めておられましたが、私もハンセン病資料館にはじめて行ったとき、これまでの関心を持たずにきた自分が恥ずかしくなったのを覚えています。そういえば聖フランチェスコに大きな影響を受けたというマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と言いました。
人間としての権利、尊厳を奪われてきた人々、差別や偏見にさらされた人々に目を向けること、そして自分のATTITUDEを問い直すことが私たちには必要なのではないでしょうか。これは前回の大沼先生の講義内容にも通じるものだと思います。(池田香織)

2008/06/15

感想文・中村雄祐『読み書きと生存の行方』

6月13日の講義に先立ち、前回配布された中村先生の参考文献を拝読しました。
読み書きの能力は、知識や情報を得るために重要なものです。朝起きて新聞を読み、移動中の電車内で本を読み、中吊り広告をながめる。お昼休みには雑誌を読み、帰宅するとポストに入れられた手紙を読み、パソコンに向かってメールのチェックをする。普段の生活の中で何気なく、当たり前に行っていることですが、もし文字が読めなかったら、これらの行為はできません。
ただ、テレビやラジオなど、視覚、聴覚を使った情報伝達も存在します。文字が読めなくとも、ある程度の知識、情報は得られるはずです。しかし、人々の暮らし向きを示す指標としてよく参照される人間開発指標(HDI)では、その主要構成要素である知識の大きな位置を読み書きが占めています。「読み書きと生存の間の関わりを強めるような人工的な制度群が急速に地球上を覆い尽くしつつあることを示唆するものとして捉えるべき」という一文に、現代世界の中に見えない支配の存在を感じました。
「読み書きと生存」の関係を見るにあたり、物理的存在としては人間の生存に特に影響のない「紙」の消費量とHDIの間に関係が認められることは、興味深く思いました。ただし、読み書き用紙の消費量増加が暮らし向きの向上と直結するわけではなく、ドイツのホロコーストを例に災厄をもたらす過程に深く関わることもあり、「結局、印刷用紙は、現代文明の輝かしい躍進にも絶望の極みにも等しく関わってきた」という、一筋縄にはいかない難しさを感じました。
現代の日本では、読み書きの能力はある程度の年齢に達すれば誰もが持っているものとされ、特に議論されることはありません。そのため、その利点や他との関連は考えたことがありませんでしたが、「読み書きと生存」の間には簡単には説明できない、様々な関わりがあることを知りました。
(渡辺直子)

2008/05/27

感想文●大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』

このエントリーでは、アシスタントがあらかじめゲストの著作を読んで、どのような活動をされている方なのか、簡単にご紹介します。皆さんが文献に手を伸ばすきっかけにしていただきたいと思います。

●大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』
 今回の講座に先立って、大沼先生の著作を拝読しました。「慰安婦」問題について、ご自身も中心となって活動された、アジア女性基金についてのことを中心に書かれています。「慰安婦」問題とは何だったのか。それを、「『歴史認識』をめぐり『被害国』との付き合いはいかにあるべきか」という問題と共に、「政府・メディア・NGOという公共性の担い手のあるべき姿とは何か」という問いについて読み解くというものです。
 私が興味深いと思ったのは、「多様性」と「公共性」という言葉です。本講座のキーワードとも重なります。漠然とした「国家」という言葉の中に、個々の人間が立ち現れてきます。ちょっと抽象的な表現かもしれませんが…日常では、私達は「個人」でいることに慣れてしまっているかも知れません。しかしマス・メディアや政治の場では、一個人として実行力をもつ主体として関われることに意識的でいられるでしょうか。その行動の先に、同じ「人間」を認められるでしょうか。
 「被害者」の側が背負うナショナリズムを、切り離して考えることはできません。しかし、それを認めつつも「被害者」個人の意向を実現することもまた、重要な解決策の一つといえます。それぞれの元「慰安婦」・その元「慰安婦」自身・問題の解決策、この三者すべてについて「多様性」を認める、そのためには、「個人」の存在を認める社会認識が必要だと思います。また一方で、マス・メディアからアジア女性基金に対する、「国による救済」ではないという種の批判がありました。それに対する大沼先生の、「国民」としての個人は「国家・市民として公共性の役割をはたす存在」であるというご指摘に納得しました。アジア女性基金という民間団体が補償を行うのではなく、「国民」としてアジア女性基金を通して補償の主体となることができる仕組みがあり、そのようなかたちも「公共性」の一つの形だといえます。
 「慰安婦」問題という具体的な事例から、大沼先生の「市民社会」における「多様性」と「公共性」についての考え方が伺えました。
(宮川智美)