2008/11/04

感想文●渡部泰明「身の表現としての和歌」

次回(11月7日)の講座講師のお一人である渡部泰明先生は、もう一人の講師野田秀樹さんが夢の遊眠社を立ち上げられた際に一緒に活動をされていました。今回、公開講座に先立ち先生の「身の表現としての和歌」(『和歌をひらく第一巻 和歌の力』所収)を拝読しました。その中で展開されていた「演じられる和歌論」とでもいうべき論がとても興味深く、先生の研究テーマの「和歌」と演劇をつなぐヒントになるのではないかと考え、ご紹介させていただきます。
本文では『古今和歌集』仮名序・『無名抄』・藤原俊成・藤原定家・二条為世と京極派の時代を追って展開される和歌論の5例から、和歌における「さま」「姿」「風体」について論じられています。とだけ書くとたいへん分かりにくいですが、「和歌には人の心だけでなく世の中のすべてに影響を与える不思議な力がある」と主張する『古今和歌集』仮名序の文章に対し、なぜ和歌がそのような力をもつ存在になるのか、その経緯は、ということを考察した文章です。
仮名序で語られる「さま」とは公的な宮廷文学としての価値をもつ和歌の形です。詠まれた和歌それのみでなく、作者自身にも「さま」が相応していることが求められます。「作者の身が和歌の表現の中にすっかり溶け込むような、隙のない完全な演技」が必要なのです。これは「虚構の生」と呼ばれます。『無名抄』では、優美な仮構の姿を演じることを突き詰めた先に表れる余情が和歌の本質であると語られます。
藤原俊成・定家親子は、よい和歌を詠むためには「古来の歌の姿」=「風体」を身につけることが必要であるといっています。それはたとえばあたかも『枕草子』の中で描かれていそうな具体的・典型的・和歌的な空間を描出し、自分がその中に身を置いているような感覚をもつことによって「姿」を実感すること。そうして想像力を広げ、新たな表現の可能性を探るべきことです。ここで、定家の著作であるとされる『毎月抄』が定家になりかわった何者かが書いたものであり、定家の思想のもとに和歌を学ぶ人を教育しようとするものである可能性が示されます。そこには「姿」「風体」を実感する、演じることを求める書がまた演じられているという二重構造があります。
鎌倉時代の二条為世は、上で見てきたような伝統的な発想から読まれた和歌がどれも同じようでありながら一人ひとりの個性を逆に強調すると語ります。「古来の歌の姿」を追い「虚構の生」を演じることがここでも求められます。
題を与えられたうえで詠むことが殆どである和歌は、その表現に強い虚構性を持ちます。和歌は「身の表現としての性格があり、演技性をもつ作者の振る舞いを表現するもの」です。それはどのような立場の歌人にとっても同じであるといえます。和歌のもつ不思議な力を与える条件を演じるということに結びつけて展開される論に、渡辺先生の演劇人としての一面を見たように思いました。(赤星友香)

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