後期第二回目、10月24日の沼野充義先生の講義へ向けて『徹夜の塊-亡命文学論』(作品社、2002年)を拝読しました。この本は、沼野先生によって書かれたロシア東欧の「亡命作家」についての文章が、まとめられ、再構成されて新たに一冊の書物になったものです。
わたしはロシア東欧の歴史についてあまり知識がないまま読み進めてしまったのですが、亡命ということを軸に集められた、作家・作品の紹介文のように読むことができました。本文では、数多くの亡命作家について、その理由や状況、それぞれに異なる亡命のあり方、または、亡命作家の作家としての活動にまつわる内面的なことがらや、活動を取り巻く枠組についてなど、幅広い内容が書かれています。
みなさんは「亡命」という言葉を聞いてどのようなことをイメージされるでしょうか。現代の日本において、「亡命」ということを自分自身に関係のあるものとして、ごく身近なものとして考えたことのある人は大変少ないのではないだろうかと思われます。先生も本文中で指摘されていることですが、漠然と何かロマンティックな響きを感じる人も多いと思われます。私自身もタイトルの「亡命」という言葉にはるかに遠い土地での出来事を遠くからうっすらと見るような感覚を持ちました。しかし、本文において先生は「亡命」という状態に含まれるわたしたち人間の全員にかかわりある「究極の問い」を指摘されています。その問いとは、私たちの人間の生の「起源」と「終末」についてです。私たちはその問いのどちらも確かめることはできないで「起源」と「終末」の「間」の時間を生きています。亡命者が「ユートピア」を離れもう一つの新たな「ユートピア」求めてさすらい、その「『間』を漂い続ける」ということに、私たちの生のあり方の原型を見ることができると指摘されています。
前期・夏休み課題を通じて、ひとの集まり、それを作り出すこと、支える枠組みなどについて考える機会がたくさんあったように思います。さて、本書で取り上げられている「亡命」は集まりや枠組みの境を飛び越えようとする力によるものと考えられます。ご自身も亡命者のように越境と回帰を繰り返してこられたという沼野先生が、どのような切り口で「市民社会」あるいは「文化の射程」ということについてお話くださるのか大変楽しみに思います!(木下紗耶子)
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