2008年10月31日は後期の事例1として舞踏家・振付家・農業者である田中泯氏をお迎えしました。「しゃべっていてあきちゃうんですよね」という言葉から始まった講義ですが、インドネシアでの「場踊り」のお話しや、前回の沼野先生の公演を事前に聞かれた上で、それと絡めてお話してくださるところもあり、また逆に木下先生に質問されるなど、田中氏の人柄が感じられました。最後には、田中氏の行っているワークショップの様子を映像とともにご紹介くださいました。
前回の沼野先生の講義と絡めては、越境についてお話いただきました。境界には、見える境界と見えない境界があるのではないかと仰って、それぞれを説明してくださいました。
見える境界は、大人数で意思・思考を働かせやすいもの。それは、例えば株を買うとか、地所を増やすなどの、「所有する」こと、自分の「持てる境界線」を広げたいということとも関わってきます。また、優劣・勝敗など「向こう側に行きたい」と思わせるこれらのくくりに関しても、ボーダーが見えるのではないかと仰っていました。一方、見えない境界は、大勢で対処しにくいものだとします。田中氏は、認否人のことを「人間のボーダーからはずされた人」と表現し、人でないばっかりに許されたことができたのではないかと仰いました。そして、ご自身は「できれば、こっから先があっちだな」と感じられる、ボーダーラインに立ってしまっている状態を実践したいと仰いました。
ここで、「市民社会再生」に言及。
人間:ヒト社会の中で、社会を前提とした存在(つまり人非人は「人間じゃない」と言われて当然だと位置付けられる。けど、踊りがすごくなれればそっちのがいいな)
市民:ポジティブに社会に参加している人間
・・・現在生きている人間たちの文化ということ?
木下先生「人をどういう風に呼ぶのか。社会の構成員であり、社会に対してポジティブに何か変えていきたいと主体的に関わる人のこと。かつて輝いていた言葉で、今はあまりつかわれない言葉を選んだ。」
「市民社会再生」の受講生の多くが引っかかっているであろう、これらの言葉について、逆に木下先生に質問されました。
その上で、生まれた瞬間に空気を吸うようになることが、地球上の営みに参加したことになるという点で大転換だと仰いました。空気は境界のないものの最たるもの、しかし今でも境界のないものなんて多くあるといいます。そして、所有と越境の絡まりを、身体に引き付けて話してくださいました。
「自分」というもの―からだという環境―を持ちながら、それと一緒に歩き死んでいくのであって、からだの中に記憶がある、という言葉はとても印象的です。からだが自分の一番近くにあるブツであり、最初で最後の砦であって、そのことはとても大きなことなのだということ。一方で、自分のからだを自由に使い「自分」から自由になることは、自意識過剰になってしまうことと表裏一体で、自意識がおこるとできなくなってしまうといいます。それはトランスしてしまってはだめで、だけど覚醒状態にあるということが大切だということです。
記憶と身体(とコミュニティー)は、後期のキーワードですが、私はこれらがどう結びついていくのか、まだよく分からないでいます。ただ、からだのことをこんなに大切にしていいんだ!という驚きというか、疎かにしてきたつもりではないにせよ、自分の記憶として、からだに向き合ったことがなかったことに、(大げさでなく)気付かされました。これは、もちろん人によるのかもしれません。グループディスカッションの場では、表現の形としてからだを通す経験をされた方は、私が驚いていることが不思議だったようです。では私は、からだを持った存在としての相手も、見てこなかったのでしょうか。はた、とまた驚いてしまいます。ワークショップの様子を映しながら解説してくださった、見えていることの乱暴さということはこういうことでしょうか。
「ダンサーという性質から」と前置きしてから「一瞬よりもちょっと長い永遠」と仰いました。時間をどう感じながら生きているのかということのために自分が選んだ表現だといいます。しかし、「泯さんはダンサーだから」とか、「泯さんだから」という視点からこの講義をとらえることがはばかられてしまうのは、私だけでしょうか。
この講義で、ちょっとからだに興味をもってしまった方もいらっしゃるでしょう。そういえばそんなサークルもあったっけ、という人々に向けて、サークルの活動報告もぜひしていただきたく思います。
(宮川智美)
2008/11/07
レポート|基調講演 沼野充義(ロシア東欧文学)
2008年10月24日、後期第2回目は沼野充義先生(東京大学文学部教授、ロシア東欧文学・世界文学論)による基調講演でした。タイトルは、「とどまることと越えていくこと―故郷、境界、越境について」。配られたレジュメには、①現代的現象(?)としての「越境」、②二つのノーベル文学賞受賞スピーチ―日本とその境界、③亡命文学―その光と悲惨、④日本文学の「境界」、と記されています。ここでは、簡単に(そして主観的に)講演の概要をふりかえりたいと思います。
①現代的現象(?)としての「越境」では、冷戦終結後、世界は一元化していくのか、それとも多様化していくのかという問題提起がありました。例として挙げられたのは、インターネットの普及に伴う「英語」の世界共通言語化です。しかし英語だけが世界中に浸透していったわけではなく、各地の言語にあわせてコンピューターの仕様を変換するという現象が同時に起こってきます。世界的な一元化と並行して多様化が進行するのです。したがって、あれかこれかという単なる二者択一ではなく、そのはざまの中に私達は位置していると言えるのではないでしょうか。また、中国からフランスへ亡命した高行健氏やドイツと日本の空間及び言語を自由に往来する多和田葉子氏などの例からわかるように、文化の領域で「国籍」を定めることが難しくなりつつある、というのも事実でしょう。
二つのノーベル文学賞受賞スピーチ(②)では、川端康成が「美しい日本の私」、大江健三郎氏が「あいまいな日本の私」というタイトルで各々の受賞スピーチを行った背景には世界と日本を区別する境界の変化が読み取れることをご教示いただきました。自分を規定(定義)するとは境界を定めること、という先生のお言葉に、しばしば「私って○○な人間なんで〜」と言う人は、その発言によって自分の境界を無意識のうちに作り出し、その中に自分自身をつなぎとめようとしているのではないかなどと考えました。
③の「亡命文学―その栄光と悲惨」については時間の制約があり詳しくは触れられなかったのですが、過去を向く「求心的なもの」と「遠心的なもの」として、過去に戻りたい・望郷の念・母語への愛着といった方向性と、反対に未知の領域を開拓してゆこうとする方向性を説明してくださいました。亡命とは境界を越えて出てゆくことですが、境界が曖昧になりつつある現在でも、越境することはやはり簡単ではないように思われます。内にとどまろうとするのか、外に出て行こうとするのか。ここでも①と同様、二極のどちらか一方向に進んでゆくわけではなく、単純には語り得ないということが露わになりました。
日本文学の「境界」(④)では、日本語で書き、日本語で読まれることを前提とした日本文学というものと世界文学との境界が曖昧になってきているというご指摘がありました。芥川賞受賞が記憶に新しい楊逸氏の使った「汗玉」という表現などを例に、ちょっと違和感を覚えるような表現を切り捨てるのか、それともその差異にこそ新しい表現の可能性を見出してゆくのか、という問いかけがありました。執筆・発表する言語や表現方法、記憶など、これまで自明のこととして共有されてきた前提が今揺らいでいるのでしょう。
コミュニティとは、「何かを共通にもっている」者の集まりであるといいます。人・物・情報そして文化も移動する時代にあって、今私達は何を共有しどのようなコミュニティを築こうとしているのでしょうか。「公共性・多様性・マイノリティ」という前期のテーマから「記憶・身体・コミュニティ」という後期のテーマへのつながり、そして広がりを感じさせられる基調講演でした。
講演の内容自体は奥深いものでしたが、穏やかでかつ随所にユーモアを交えた沼野先生のお話に会場の空気は終始和やかでした。質疑応答も盛り上がり、中には川端の「美しい日本の私」と大江の「あいまいな日本の私」にひっかけて、「夏目漱石がノーベル賞を受賞したとしたら、どのようなタイトルで受賞スピーチをしたと思うか」というような珍(?)質問も飛び出しました。
ちなみに、沼野先生は「可笑しい日本のあなた」という文章を『200X年 文学の旅』(作品社、2005年)に書いていらっしゃいます。柴田元幸先生(英米文学、翻訳論)との共著です。読書の秋、興味をもたれた方は是非ご一読ください。
質疑応答のあとは、早速“サークル”のメンバー募集が3件ありました。
これからどの“サークル”に入るか、はたまた自ら旗揚げするか。悩みどころですが、自らの「境界」を定めず、寧ろ普段はあまり関わらないような分野の活動に「越境」を試みるのも良いかも知れません。
(三石恵莉)
①現代的現象(?)としての「越境」では、冷戦終結後、世界は一元化していくのか、それとも多様化していくのかという問題提起がありました。例として挙げられたのは、インターネットの普及に伴う「英語」の世界共通言語化です。しかし英語だけが世界中に浸透していったわけではなく、各地の言語にあわせてコンピューターの仕様を変換するという現象が同時に起こってきます。世界的な一元化と並行して多様化が進行するのです。したがって、あれかこれかという単なる二者択一ではなく、そのはざまの中に私達は位置していると言えるのではないでしょうか。また、中国からフランスへ亡命した高行健氏やドイツと日本の空間及び言語を自由に往来する多和田葉子氏などの例からわかるように、文化の領域で「国籍」を定めることが難しくなりつつある、というのも事実でしょう。
二つのノーベル文学賞受賞スピーチ(②)では、川端康成が「美しい日本の私」、大江健三郎氏が「あいまいな日本の私」というタイトルで各々の受賞スピーチを行った背景には世界と日本を区別する境界の変化が読み取れることをご教示いただきました。自分を規定(定義)するとは境界を定めること、という先生のお言葉に、しばしば「私って○○な人間なんで〜」と言う人は、その発言によって自分の境界を無意識のうちに作り出し、その中に自分自身をつなぎとめようとしているのではないかなどと考えました。
③の「亡命文学―その栄光と悲惨」については時間の制約があり詳しくは触れられなかったのですが、過去を向く「求心的なもの」と「遠心的なもの」として、過去に戻りたい・望郷の念・母語への愛着といった方向性と、反対に未知の領域を開拓してゆこうとする方向性を説明してくださいました。亡命とは境界を越えて出てゆくことですが、境界が曖昧になりつつある現在でも、越境することはやはり簡単ではないように思われます。内にとどまろうとするのか、外に出て行こうとするのか。ここでも①と同様、二極のどちらか一方向に進んでゆくわけではなく、単純には語り得ないということが露わになりました。
日本文学の「境界」(④)では、日本語で書き、日本語で読まれることを前提とした日本文学というものと世界文学との境界が曖昧になってきているというご指摘がありました。芥川賞受賞が記憶に新しい楊逸氏の使った「汗玉」という表現などを例に、ちょっと違和感を覚えるような表現を切り捨てるのか、それともその差異にこそ新しい表現の可能性を見出してゆくのか、という問いかけがありました。執筆・発表する言語や表現方法、記憶など、これまで自明のこととして共有されてきた前提が今揺らいでいるのでしょう。
コミュニティとは、「何かを共通にもっている」者の集まりであるといいます。人・物・情報そして文化も移動する時代にあって、今私達は何を共有しどのようなコミュニティを築こうとしているのでしょうか。「公共性・多様性・マイノリティ」という前期のテーマから「記憶・身体・コミュニティ」という後期のテーマへのつながり、そして広がりを感じさせられる基調講演でした。
講演の内容自体は奥深いものでしたが、穏やかでかつ随所にユーモアを交えた沼野先生のお話に会場の空気は終始和やかでした。質疑応答も盛り上がり、中には川端の「美しい日本の私」と大江の「あいまいな日本の私」にひっかけて、「夏目漱石がノーベル賞を受賞したとしたら、どのようなタイトルで受賞スピーチをしたと思うか」というような珍(?)質問も飛び出しました。
ちなみに、沼野先生は「可笑しい日本のあなた」という文章を『200X年 文学の旅』(作品社、2005年)に書いていらっしゃいます。柴田元幸先生(英米文学、翻訳論)との共著です。読書の秋、興味をもたれた方は是非ご一読ください。
質疑応答のあとは、早速“サークル”のメンバー募集が3件ありました。
これからどの“サークル”に入るか、はたまた自ら旗揚げするか。悩みどころですが、自らの「境界」を定めず、寧ろ普段はあまり関わらないような分野の活動に「越境」を試みるのも良いかも知れません。
(三石恵莉)
2008/11/04
感想文●渡部泰明「身の表現としての和歌」
次回(11月7日)の講座講師のお一人である渡部泰明先生は、もう一人の講師野田秀樹さんが夢の遊眠社を立ち上げられた際に一緒に活動をされていました。今回、公開講座に先立ち先生の「身の表現としての和歌」(『和歌をひらく第一巻 和歌の力』所収)を拝読しました。その中で展開されていた「演じられる和歌論」とでもいうべき論がとても興味深く、先生の研究テーマの「和歌」と演劇をつなぐヒントになるのではないかと考え、ご紹介させていただきます。
本文では『古今和歌集』仮名序・『無名抄』・藤原俊成・藤原定家・二条為世と京極派の時代を追って展開される和歌論の5例から、和歌における「さま」「姿」「風体」について論じられています。とだけ書くとたいへん分かりにくいですが、「和歌には人の心だけでなく世の中のすべてに影響を与える不思議な力がある」と主張する『古今和歌集』仮名序の文章に対し、なぜ和歌がそのような力をもつ存在になるのか、その経緯は、ということを考察した文章です。
仮名序で語られる「さま」とは公的な宮廷文学としての価値をもつ和歌の形です。詠まれた和歌それのみでなく、作者自身にも「さま」が相応していることが求められます。「作者の身が和歌の表現の中にすっかり溶け込むような、隙のない完全な演技」が必要なのです。これは「虚構の生」と呼ばれます。『無名抄』では、優美な仮構の姿を演じることを突き詰めた先に表れる余情が和歌の本質であると語られます。
藤原俊成・定家親子は、よい和歌を詠むためには「古来の歌の姿」=「風体」を身につけることが必要であるといっています。それはたとえばあたかも『枕草子』の中で描かれていそうな具体的・典型的・和歌的な空間を描出し、自分がその中に身を置いているような感覚をもつことによって「姿」を実感すること。そうして想像力を広げ、新たな表現の可能性を探るべきことです。ここで、定家の著作であるとされる『毎月抄』が定家になりかわった何者かが書いたものであり、定家の思想のもとに和歌を学ぶ人を教育しようとするものである可能性が示されます。そこには「姿」「風体」を実感する、演じることを求める書がまた演じられているという二重構造があります。
鎌倉時代の二条為世は、上で見てきたような伝統的な発想から読まれた和歌がどれも同じようでありながら一人ひとりの個性を逆に強調すると語ります。「古来の歌の姿」を追い「虚構の生」を演じることがここでも求められます。
題を与えられたうえで詠むことが殆どである和歌は、その表現に強い虚構性を持ちます。和歌は「身の表現としての性格があり、演技性をもつ作者の振る舞いを表現するもの」です。それはどのような立場の歌人にとっても同じであるといえます。和歌のもつ不思議な力を与える条件を演じるということに結びつけて展開される論に、渡辺先生の演劇人としての一面を見たように思いました。(赤星友香)
本文では『古今和歌集』仮名序・『無名抄』・藤原俊成・藤原定家・二条為世と京極派の時代を追って展開される和歌論の5例から、和歌における「さま」「姿」「風体」について論じられています。とだけ書くとたいへん分かりにくいですが、「和歌には人の心だけでなく世の中のすべてに影響を与える不思議な力がある」と主張する『古今和歌集』仮名序の文章に対し、なぜ和歌がそのような力をもつ存在になるのか、その経緯は、ということを考察した文章です。
仮名序で語られる「さま」とは公的な宮廷文学としての価値をもつ和歌の形です。詠まれた和歌それのみでなく、作者自身にも「さま」が相応していることが求められます。「作者の身が和歌の表現の中にすっかり溶け込むような、隙のない完全な演技」が必要なのです。これは「虚構の生」と呼ばれます。『無名抄』では、優美な仮構の姿を演じることを突き詰めた先に表れる余情が和歌の本質であると語られます。
藤原俊成・定家親子は、よい和歌を詠むためには「古来の歌の姿」=「風体」を身につけることが必要であるといっています。それはたとえばあたかも『枕草子』の中で描かれていそうな具体的・典型的・和歌的な空間を描出し、自分がその中に身を置いているような感覚をもつことによって「姿」を実感すること。そうして想像力を広げ、新たな表現の可能性を探るべきことです。ここで、定家の著作であるとされる『毎月抄』が定家になりかわった何者かが書いたものであり、定家の思想のもとに和歌を学ぶ人を教育しようとするものである可能性が示されます。そこには「姿」「風体」を実感する、演じることを求める書がまた演じられているという二重構造があります。
鎌倉時代の二条為世は、上で見てきたような伝統的な発想から読まれた和歌がどれも同じようでありながら一人ひとりの個性を逆に強調すると語ります。「古来の歌の姿」を追い「虚構の生」を演じることがここでも求められます。
題を与えられたうえで詠むことが殆どである和歌は、その表現に強い虚構性を持ちます。和歌は「身の表現としての性格があり、演技性をもつ作者の振る舞いを表現するもの」です。それはどのような立場の歌人にとっても同じであるといえます。和歌のもつ不思議な力を与える条件を演じるということに結びつけて展開される論に、渡辺先生の演劇人としての一面を見たように思いました。(赤星友香)
感想文●野田秀樹「駄文集大成 おねえさんといっしょ」
公開講座後半も4回目。11月7日の講座には演劇界のトップランナーとしてご活躍中の野田秀樹さんがいらっしゃり、人文社会系研究科日本文化研究専攻で、野田さんと演劇の活動もされていた渡部泰明先生が、さまざまなお話を引き出してくださいます。お二人は一緒に夢の遊眠社を立ち上げられたとのことなので、私個人的には活動当初のことや当時のエピソードをお聞きしたいと考えています。
野田さんの書かれた文庫本、『駄文集大成 おねえさんといっしょ』(新潮文庫)を、先日ふと手に取りました。だいぶ前に出されたものですが、コンパクトかつ多岐にわたる野田さんの活動が紹介されています。昭和60年4月から62年3月まで「膝小僧時代」昭和62年4月から8月まで『小説新潮』に連載されたエッセイや、中村勘九郎さん、扇田昭彦さんら演劇人との対談、その他もろもろ多種多様な文章がまとめられており、当時、野田さんが演劇で挑戦したかったこと、作家に関しての考察、演劇をとりまく環境についてなど書かれています。
中でも衝撃的なのが有名人をドラマティックに紹介しているエッセイ! 美空ひばりや松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄などの個性豊かな人たちを紹介するのに、いつの間にかにショートストーリーが出来上がっていて、エッセイだけれど短編小説? と思うほどです。紹介する人物の日常では到底ありえない世界をつくりあげ、そこにイキイキと人物を描きだす。すると、いつの間にか、そのありえない世界の中で人物が歩き出していて、最終的には「あっ、そうだよね、この人、きっと!」といった感じで読者を納得させてしまう。それも松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄ですよ! 皆、ありきたりの言葉では語りきれない個性的な人ばかり。たった数ページのエッセイで、これをやり遂げてしまう野田さんの表現力に、私はただただ驚くばかりでした。
そしてこれが演劇の脚本になるとどうでしょう。エッセイで取り上げた人たちに劣らず個性的な登場人物が複数出てきて、それぞれが、それぞれの道を歩き出し、巡り合い、ぶつかりあう。それはいったいどのような話でしょうか? これは考えても、なかなかわかるものではありません。舞台を見て、初めてわかるのかもしれません。来年年明けに、野田さんの新作『パイパー』が上演されます。それも舞台は1000年後の火星!? まずは、ちょっと手軽な宇宙旅行に渋谷へ参り、考えてみようと思います。(有賀沙織)
野田さんの書かれた文庫本、『駄文集大成 おねえさんといっしょ』(新潮文庫)を、先日ふと手に取りました。だいぶ前に出されたものですが、コンパクトかつ多岐にわたる野田さんの活動が紹介されています。昭和60年4月から62年3月まで「膝小僧時代」昭和62年4月から8月まで『小説新潮』に連載されたエッセイや、中村勘九郎さん、扇田昭彦さんら演劇人との対談、その他もろもろ多種多様な文章がまとめられており、当時、野田さんが演劇で挑戦したかったこと、作家に関しての考察、演劇をとりまく環境についてなど書かれています。
中でも衝撃的なのが有名人をドラマティックに紹介しているエッセイ! 美空ひばりや松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄などの個性豊かな人たちを紹介するのに、いつの間にかにショートストーリーが出来上がっていて、エッセイだけれど短編小説? と思うほどです。紹介する人物の日常では到底ありえない世界をつくりあげ、そこにイキイキと人物を描きだす。すると、いつの間にか、そのありえない世界の中で人物が歩き出していて、最終的には「あっ、そうだよね、この人、きっと!」といった感じで読者を納得させてしまう。それも松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄ですよ! 皆、ありきたりの言葉では語りきれない個性的な人ばかり。たった数ページのエッセイで、これをやり遂げてしまう野田さんの表現力に、私はただただ驚くばかりでした。
そしてこれが演劇の脚本になるとどうでしょう。エッセイで取り上げた人たちに劣らず個性的な登場人物が複数出てきて、それぞれが、それぞれの道を歩き出し、巡り合い、ぶつかりあう。それはいったいどのような話でしょうか? これは考えても、なかなかわかるものではありません。舞台を見て、初めてわかるのかもしれません。来年年明けに、野田さんの新作『パイパー』が上演されます。それも舞台は1000年後の火星!? まずは、ちょっと手軽な宇宙旅行に渋谷へ参り、考えてみようと思います。(有賀沙織)
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