2007/06/08

第1回|高山博先生 グローバル化と個人

 第一回目の公開講座では、冒頭、木下直之先生により趣旨説明があった。文化資源学研究室の向かいにある一大教室は、研究室に所属する学生にとって「ホームグラウンド」のような場所である。そこで授業を行う木下先生にとっても同様の場所である。公開講座では、自分たちだけではなく、研究室の外から参加する受講生にとっても、この一大教室が「ホームグラウンド」のような気持ちになれる場所になってほしい。隔週金曜日に「帰ってくる場所」になってほしい。そのため受講生がただ講義を受けるだけではなく、受講生とインタラクティブな関係をつくることで共に公開講座とつくっていきたい、という姿勢が示された。

 趣旨説明の後、第一回の講師である高山博先生の講義が始められた。まず、古代ローマから現在へとつながるヨーロッパでの市民概念の変化が時代ごとに整理された。日本語にある「市民」と、ヨーロッパで発達してきた「市民」という概念を対応させるためである。古代ギリシアにおいて市民は参政権をもつごく限られた人々を指していた。やがて古代ローマでは帝国の一員としての権利という現在の国籍に近い概念となった。さらに中世においては租税を払う能力によって商人といった富裕な人々も含まれていく。このように高山先生の説明を通じて日本語の「市民」という一語に含まれている複数の意味が明らかにされた。
 
 次に、本題でもある「グローバル化と個人」について。グローバル化は私たちの生活が大きく変化する歴史的な分水嶺となるという。国境を越えて、モノ・情報・資本は自由に行き来しはじめている。現在はアメリカやヨーロッパ、日本を中心としている。しかし、その領域は拡大していき、さらに領域相互の関係はどんどん緊密化していく。制度の平準化とともに、地域による機能分化が生まれていく。このような全体でのシステムの再編は細部へのチャンスも生んでいく。たとえば海外の街並みを模倣した街よりも、江戸時代から残された街並みのある街へ、突然に、世界中から観光客が集まってくることも起こりうる。制度の平準化は誰もが機会へアクセスするチャンスを拡大していく。

 一方で、グローバル化は従来の均一化とは違い、生活水準の格差の拡大も伴い、進行していく。また機能分化はより幅広い地域での役割分担であり、そこでは独立し、完結した主権国家という前提はなくなっていく。工場や資本だけでなく、人材もまた国境を越えて流動していく。国単位の社会機能は低下していく。外部遮断も不可能となっていく。そのため市場といった非国家セクターが巨大な力をもち、大きな影響力を及ぼしていく。
しかし、国家が弱体化していることはかならずしも国家が不要になることを意味しない。グローバル化は無法地帯へと向かう危険性、相互依存の高まりはネットワークが機能しなくなったときの危険性を孕んでいる。無秩序の市場と弱体化する国家、地理的な制約を越えた相互依存の高まりとその危険性。このような状況の中で何らかの強制力のある組織がなければならない。現在は主権国家から次のシステムへの過渡期とみることができる。

 このような社会の急速な変化のなかで個人の潜在的な行動範囲は拡大していく。交通網の発達は活動域を拡大した。個人の行動は、時間ごとの分化だけでなく、機能や地域による分化へとつながっていく。このような変化は人々に新たな結びつきを生む。たとえば非常に狭い関心の趣味をもつ人々がインターネットを介して新たなコミュニティを形成することも可能となっている。そこでは個人にとって細分化された仮想の世界が生まれていく。個人は仮想の社会と実体験するものの違いのなかで生活していくことになる。このようにして細分化された人格の結びつきにおいては、個人の特定の側面だけがクローズアップされていく。細分化は人格を統御することの難しさをも生んでいく。
 中世のフランスでは王国の大部分は領主による統治がなされていた。森に囲まれた集落はそれぞれが孤立し、存在していた。99%以上が農民であり、自然に合わせた生活を送っていた。特定の時間に特定の事柄を行う。このような農村の生活では人格の全体でのコミュニティが形成されていた。
 
 以上が講義の内容であったが、最後に、高山先生によって鮮やかに描き出された中世の風景は、グローバル化した現在の社会の理想像ではなく、むしろ現在の社会を中世の社会と対比することでより、はっきりと現在の社会の状況を明らかにするものではなかっただろうか。それは前半の市民という言葉と概念の整理も同様である。何気なく過ごしている普段の生活や、その中で使われる「市民」という言葉。それらを大きな歴史の流れや抽象的な概念のなかから見直したとき、新たな視点から現在を問い直すことができた。

 だからこそ今回の講義において残念だったのは、それぞれの意見を交わし、議論する場がなかったことだろう。それぞれの参加者が「市民」や「文化」という言葉を改めて問い返し、それぞれに過ごす生活のレベルで問い直す。そのとき思い描くことは個々人によって違っていたはずである。特に講義後半では先生の社会の捉え方も明らかにされていたようにも思う。そのため先生もまたひとりの個人として議論に参加していくことも可能であったかもしれない。そして、そのようにして議論する作業は、インタラクティブな場をつくることであり、また同時に「市民社会」のあるべき姿を構想していくことへもつながっていくのではないだろうか。
(レポート作成:佐藤李青)

5 件のコメント:

公開講座運営委員会事務局 さんのコメント...

事務局より、初回の講義のコメントシートから、後に続くコメントでご意見、ご感想をピックアップします(氏名は控えさせていただきます)。

匿名 さんのコメント...

「市民の定義を基本から歴史的に概観されたのが、公開講座のよい出発点になったと思います。広辞苑定義『(2) citizen』の意の形成について、もう少し詳しく知りたいと思いました」
「グローバル化、グローバリゼーションという言葉だけが飛び交い、実感の持ちにくい単語だけが頭の中でこだましていたのですが、それが生み出す功罪はもとより、歴史的文脈から「市民」「社会」を解説していただいた上で講義してくださったので、大変分かりやすかったです」
「グローバル化の進展は国家の党勢力を弱め次なる統制システムが『何らかの強制力を持つ組織』であるという点は、様々なことを考える上でよい視点になりました」

匿名 さんのコメント...

「私はアートアドミニストレーションなどを勉強しておりますが、講義でグローバル化について聞いたことで、芸術や文化が社会の中でどんな役割を果たすのかを考える上で、広い視野で考える重要性を再認識しました」
「特に『都市化』に関して、アート・マネジメントを考える上で興味深いと感じました」
「『祭りの時間』から『祭りの空間』へ、という視点がとてもおもしろいと思った」

匿名 さんのコメント...

「グローバル化の破滅、破綻はないのか、疑問に思った。その可能性についても伺いたかった」
「西欧から第三世界とされていた地域における市民の問題も考えなければ、グローバル社会において市民を考えるには不十分なのではないか、とも思いました」
「EUを意識した米国の農民の活動の話が出てきましたが、自国産の商品を求める消費者の拡大は、グローバル化の中でどのような位置となって行くのでしょうか?」

匿名 さんのコメント...

「競争化社会がどこまでも際限なく進む、ということはあり得るのでしょうか?資本主義社会の仕組みがどこかで大きく崩れ去るようなことがあれば…例えば中世から近代への移行のような出来事」
「消えゆく『国家』と再構築すべき『国家』が現代の市民社会からどのように形成されていくのか、大変興味をもった。自分も考えていきたい」
「文化はどうなるのか、個々の地域の持つ文化の消失や、『仮想の地域』の出現によって生まれる文化は、どういったものになるのか、是非議論したいと思った」