並河さんは、やわらかな雰囲気を纏った、とても素敵な女性である。穏やかな口調で淡々と、お父様から継いだ銀座のルナミ画廊からアートNPOに「行き着いてしまう」までを語ってくださった。
アーティストにとって、自由な表現が可能になる“場所”は重要だ。ホスト講師の村田真さんは、無審査自由出品の展覧会として前衛的な表現活動の場を提供していた読売アンデパンダン展が、過激化していく表現を支えきれずに1963年に終了してしまった後、場所を失った若い作家たちの活動を支えたのが、60年代に増加した貸し画廊だったのではないか、という。日本の、特に銀座の貸し画廊は、自由な場所の提供以上の作家のサポートもやってきた。ルナミ画廊の場合は誰にでも貸すわけではなく、face to faceの関係を大切にして、「アーティストと一緒にやる」という心意気で人を選んでいた。
特に若い人が発表する場所である貸し画廊は、まさに日本の新しい文化が生まれてくるところだ。そこにもっと栄養を与えてほしい。並河さんは、画廊同士が組んで仕掛ける活動にも取り組んだ。企業や行政、いろんなところに支援を働きかけたが、縦割り構造の中で、芸術支援にお金を集めるのは大変だった。90年代になってメセナを意識した企業が文化部を設置したときは、話を聞いてくれる部署ができただけで嬉しかったそうだ。
1998年、並河さんは、35年続いたルナミ画廊を閉じる。専門化しすぎた現代美術の動向に対する閉塞感を感じ、画廊でできることは全てやった、離れないと前に進めないと思ったそうだ。その後地域に出て行くアート活動に取り組み、2002年にARDAを設立する。杉並区の高齢者施設を中心に、アート・デリバリー、アーティストの協力を得て地域にアートをもっていく活動を行っている。
こうした活動を並河さんは、「そうしなくちゃいけないからやってきた」と、いたって淡々と話す。並河さんの歩いてきた道程は、日本におけるアートと社会とのかかわり方の変遷そのものだと思うのだけれど、おそらく当の並河さんは「何かおかしいな」と思い、「こうしたらもっとよくなるかな」と思い、そのために必要だと判断したことを淡々と実践していった結果、アートNPOに「行き着いてしまった」のだと思う。人の心を動かし社会を変えるのは特別なことではなくて、問題意識を忘れずに淡々と行われる実践の積み重ねだろう。その原動力は何かという質問に対して並河さんは、「好奇心、あと人に話すこと。話すと、実現させなきゃと思って、自分に対する責任が生まれるから」と答えていた。並河さんの問題意識の鋭さと芯の強さが垣間見えた気がした。
もう1つ印象に残ったのは、画廊という枠の中では、極端な話「反芸術」を掲げてさえも「アート」と規定できるけれど、枠をとりはらって画廊の外に出たら今度は何をやってもアートと見なされない、そういう「アートレスな社会」のジレンマをどう考えるか、という村田さんの問いかけに対し、並河さんが、「そこに問題は感じない」と言い切ったことだった。画廊においては専らアート=作品だったけれど、並河さんにとってアートとは、作品とその解釈に留まるものではなく、プロセスや行為を通して「誰もが心の底に持っているものをひらいていくこと」だからだ。「人の心をひらくのがアートで、それができるのがアーティスト」で、「枠を取り払うと、アートの解釈ではなくて、人とつながれるアーティストの才能が問われる」、「自分が何を伝えたいかが問われて、ある意味アーティストがすごく試される」。淡々と、けれどもしっかりそう言い切った並河さんは、60年代以降の貸し画廊という新しい文化が生まれてくる場所で、アーティストと一緒に日々がんばってきた人だった。アートという枠に留まらないアーティストという人間の可能性を信じているから、画廊という枠を飛び出してアートNPOに行き着いたのかもしれない。
(レポート作成:中村美帆)
0 件のコメント:
コメントを投稿