公開講座の前期最終回にあたる本日の渡辺先生の講義は、講座の前期を締めくくるにふさわしい、非常に示唆に富んだ内容だったのではないだろうか。我々が市民社会再生という問題をこれからも引き続き考察していくにあたり、その根本的なところを改めて自覚しなおす必要が、ピアノ文化の諸相という具体的事例を通して私たちに投げかけられたからだ。
まず冒頭では、市民社会のモデルが西洋近代のそれをグローバルスタンダードとして拡がってきた中で、市民社会は再生できるのか、できないのか、そもそも再生とは何か、ということを私たちは考えなければならないという本講座にとって極めて重要な問題が提示されたように思う。私たちが再生しようとしている「市民社会」というものの表象自体が一枚岩的にあるわけではないことを再認識し、それを一つに括らないで見る見方が今求められていると渡辺先生は指摘した。このことはまさに前回の佐藤健二先生による、再生すべき対象そのものを掴むにあたって流動する枠を設定することで共同体の様々な類型を考えることの有用性があるという指摘と密接にリンクする。市民社会再生をテーマとする以上、何か再生するべきモデルがどこかにあって議論を通じてそれを手探りしていく…という傾向にともすれば陥ってしまう危険性を私たちは常に抱えているわけであり、その意味でこの渡辺先生の指摘は私たちの立脚点をもう一度思い起こさせるものだった。
そのような問題を考えるために本日とりあげられた事例がピアノ文化である。渡辺先生によれば、私たちは当たり前のようにピアノを西洋音楽の代名詞のように思ってしまいがちであり、ピアノというと何となく女性をイメージしてしまいがちなのだが、そういったピアノの位置づけ自体がなぜそのようなあり方をしてきたのかということ自体を捉えなおす必要があるという。確かに渡辺先生のおっしゃるとおり、私たちはピアノと言えば何となく“若くてハイソな良家のお嬢さま的な女性”が弾くと考えてしまうことの方が圧倒的に多く、ピアノと“金歯のオジサン”を連想する人はなかなかいない。ピアノは女性と結びついて考えられてきたのである。しかし実際プロのピアニストの大半は男性であり、女性の場合は「女流」ピアニストと呼ばれるなど、特殊な存在としてあるという分裂したピアノ状況が現実にはあるようだ。
次に渡辺先生は国別ピアノ生産量の統計を例に、単に各国でピアノの生産が同じように増えたと見るのではなく、なぜそのような形で増えたのかということの背景が各地域によって異なっており、地域の様々な文化条件やその時のメディアによってピアノ文化は違った展開をしているのであってそれは決して西洋のピアノ文化のコピーではないという本日の講義の基本的な視点を示してくださった。
ここで渡辺先生によって示された視点は、何となくそうであることが当たり前のようにイメージされてしまっていることについて一体なぜそうなのかという地点にまで立ち戻る必要があること、イメージと違って現実の文化では様々な動きが複雑な展開をしておりそれは決して一枚岩的に動いているわけではないと自覚する必要があることであり、その視点こそ私たちが「市民社会再生—文化の有効性を探る」うえで重要なツールになると思われた。そうして私たちは、日本の近代が単に西洋を模倣してきたわけではないことを自覚し、近代のイメージを見直すためにも西洋の元のイメージがどのように形成されてきたのかということを、西洋と日本のピアノ文化を例にとって辿ろうとする本日の講義が目指す地平に立ったわけである。
さて、なぜ私たちはピアノと言うと女性をイメージしてしまうのか。西洋や日本におけるピアノ文化の実際はどのようなものであり、これまでピアノはどのように表象されていたのだろうか。そのようなピアノと女性が結びつくイメージが形成された背景は19世紀のドイツのピアノ文化を探ることで見えてくる、ということで私たちは渡辺先生をナビゲーターに当時の具体的なピアノ状況を追いかけていくことになる。
まず19世紀が家庭に様々なピアノを生み出していた様子について、豊富な図版を用いた説明がされた。紹介された19世紀のピアノたちは今からするとちょっと考えられないようなユニークなものばかりである。例えば「ピラミッドピアノ」などの家庭に置かれる装飾性の高いピアノ、ピアノ内のデッドスペースを戸棚にしてしまった「たんすピアノ」、裁縫箱や化粧台と一体になった「裁縫ピアノ」や「化粧ピアノ」などである。今の感覚からすると不思議に思えるこれらのピアノが私たちに教えてくれるのは、当時ピアノが居間の中で家具として機能していたということと、「裁縫」「化粧」から伺えるように女性的な家事と結びついた形でピアノがつくられてきたということだ。
そのように家事とピアノが結びついた背景には何があったのか。この時代のドイツではブルジョワの間で「家庭音楽」の思想が広がり、そこでは一種の花嫁修業として女性にピアノが教えられる状況だったという。例として先生は当時の女性のある一日の時間割を紹介した。それによると午前中は手芸に語学に地理歴史、午後から夕飯時にかけては手芸にピアノに習字…と私だったら気が狂ってしまいそうな内容の時間割なのだが、当時はこのようにピアノと家事は並ぶものであり、家庭を担う女性はそういった能力を求められたそうだ。
これには産業革命以後、それまでの家庭内手工業的な労働スタイルの変化と共に家庭のあり方も血縁関係だけで成り立つコミュニティに変わっていく中、男は外に働きに、女は家を守る、というようなブルジョワの新しいライフスタイルが定着していったことが関わっていたようだ。もうひとつは、この頃「教養」がブルジョワの証になるという状況があった。貴族が家系を自らの証とするのに対し、ブルジョワが自分たちを単なる労働者ではないのだということを示すメルクマールになったのが「教養」だったのである。
つまりこの頃女性がピアノを習うということは単なるアクセサリーなどではなく、良妻賢母的な女性のあり方が前面に出てくるような社会状況下にあって、家庭の教養は女性が担うという位置づけが形成されていく中にピアノが入りこんでいったのだ。
ではなぜそれはピアノだったのか。ひとつには、女性が弾いて良い/悪い楽器という考えがこの頃並行して出てきたからだそうだ。例えばチェロなどは股に挟んで演奏するスタイルのためか、女性にはふさわしくない楽器とされていたらしい。
もうひとつの背景には、この頃には教養ある家庭のアイデンティティを外に見せるという面が出てきたことがある。例えば、居間というものがこの時期に家族の団らんと教養ある雰囲気を外に見せるものとして成立したのだが、ピアノもそのように家庭を象徴するものとしてはたらくようになった。ピアノにおける連弾などもそのような家族の象徴として機能していたという。つまり女性らしさの表象が出てくるのと並行して、ピアノは家庭楽器の要として定着していったのだ。思わずニヤリとしてしまうような先生ご自身の微笑ましいピアノ経験を交えながら、19世紀ドイツの家庭におけるピアノの位置づけと女性との結びつきが説明された。
このような様子は19世紀後半になると変化していく。この時期にはクラシック音楽が精神的な体験、特殊なものになっていき、家庭音楽が空洞化していった。ではこの頃にはどのような音楽がつくられたかというと、プロ向けのレパートリーと女性向けのそれとは別々に考えられていたそうで、「乙女の祈り」に代表されるような女性のための女性らしいレパートリーが開発されていたという。ここで私たちは当時の典型的女性用ピアノ曲を数曲聴いたのだが、確かにベートーベンのジャジャジャジャーンよりは明らかに女性らしい華やかで優美なメロディという印象をうけた。こういった旋律を女性らしいと思ってしまうこと自体も一考するべきなのかもしれないが、これらの曲の女性的な印象は確かに拭えないものであり、このような甘ったるいピアノ曲が女性向けとして爆発的に当時つくられていたというのだから面白い。曲以外には、この頃の楽譜の表紙も女性が前面に出ていたようだ。その時代の西洋に生まれずにすんだことをありがたいと私なんか思ってしまうような西洋のピアノ状況をひととおり駆け足で具体的に辿ったところで、そういったピアノ文化の動きがアメリカや日本に広がっていく様子を次に見ていくことになる。
まず、ピアノ文化が広がると一口に言っても、地域によって女性の家の中でのあり方や文化の位置づけは全く違うということを確認したうえで、戦前のアメリカにおける雑誌広告を例にピアノがどのように位置づけられていたかを辿った。この頃の広告に登場する女性は家庭的ではなく、新しい家電製品と結びついて女性の新しい生き方がアピールされていた。そしてそのような状況とピアノ文化のあり方も結びついていた。それを示す好例がアメリカで爆発的に流行った自動ピアノである。これは勝手に曲を弾いてくれるピアノであり、そういったものが家庭に入ってくるという状況が戦前のアメリカのピアノ文化にはあったわけである。ピアノを弾く父と子の図像に見られるような団らんイメージを引き継ぎながらも、それまでとは違う新しい女性の生き方のイメージが好んで描かれるようになったのだ。
これには当時のメディアの変化も関わっていた。レコードがなかった19世紀ヨーロッパではピアノを実際に弾くという音楽実践しかあり得なかったのだが、レコード登場以後は買ってきて消費するという変化の中でピアノ文化は広がっていった。家庭のことには手間をかけないで外へ出て行こうという新しい女性のライフスタイルの流れの上に自動ピアノは乗っていた。ピアノが自動ピアノへ、さらには蓄音機へ、と音楽のあり方が生産型から消費型に変わっていくことと女性のあり方の変化は同時に動いていたようである。どういう時期に、どのように拡がるのかによって同じ「ピアノ文化」と言っても背景が全然違うということが具体的に示されたわけである。
では日本のピアノ文化はどうだったのか。戦前には家庭のステータスと結びついてピアノが普及した。例えば当時のある雑誌にはピアノについて「令嬢音楽」と書かれていたり、昭和4年当時のモデル住宅の図面や写真を見ると居間にピアノが置かれていたなど、文化住宅や文化村などがつくられていたこの頃にはピアノも前面に出され招聘されていたのである。また当時の広告からは音楽学校と裁縫学校がひとつになっていた様子も見てとれ、そのような位置づけ方にはドイツの音楽文化のあり方が入ってきたという面もあった。しかし日本の場合が西洋と違うのはピアノと蓄音機が同時に入ってきたことであり、文化的な生活と言う時はピアノよりも蓄音機であり、そのように西洋でのプロセスを省略する形で家庭に音楽が入っていったというのが実状だった。そのためか戦後の高度成長時代にはあまり家庭音楽という形でピアノは根づかなかったらしい。
このように辿ってみると日本には日本なりの背景のもとにピアノ文化が根づいていったことが理解できるのであり、それは西洋には近代の奥行きがあるけれども日本には近代がないということではない。渡辺先生が言うように、どういう時期にどのような形で入ってくるのかということによって文化はいろいろな形に成り得るのであり、日本はドイツと同じピアノ文化の形になる状況ではなかったのである。したがってそれはどちらが文化的に高級であるという問題などではなく多様性の問題なのだ。
最後に、渡辺先生はそのような問題の捉え方をもう一度「市民社会」の問題にリンクさせてまとめとしてくれた。「市民社会」はヨーロッパに型があってそれが今崩れているというような二分法で捉えるべきではなく、市民社会も日本には日本なりの市民社会があり日本なりの根づき方があるのだと。どうしたら生きた文化を有効につくっていけるのか、様々な要素を勘案しながら考えていく姿勢が求められるのだと。
私たちはこれからどのような市民社会の再生に向かうのだろうか。「市民社会」や「文化」について多面的な見方で捉えることの重要性を、誰もが知っているボピュラーな楽器・しかしそれが帯びてきた文化状況を見ると実は非常に奥の深い楽器:ピアノという素材を通して提示して下さった本日の渡辺先生の講義は、私たちに改めて市民社会再生という問題の根源を自覚させてくれるものだったように思う。本日の講義で得られた視点を「市民社会」「再生」「文化」の問題領域において有効に活用していけるか否か、そこから先は私たち次第である。
(レポート作成:川瀬さゆり)
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