中島諒人さんは現在鳥取県鹿野町の、廃校を利用して「鳥の劇場」という名のもと、演劇活動を行っている。
あえて、東京でなく地方を拠点として選んだのには、東京で演劇を行うことに対して違和感をもったからだとおっしゃっていた。確かに、東京での演劇はある一定の町で展開されるようなターゲットを提供側から絞っているような作品づくりがされるか、或いは商業的な傾向が強くないと生き残っていけないのが現状である。そのような状況を鑑み、中島さんは実際に鳥取に向かった。劇場さえないような地方で演劇を行うということは、相当の覚悟と決意があったのではないだろうか。
多くの困難の中でも、本来多くの人々に見られるものという演劇の原点に戻り、また自治体という以上に、その地域のために何かをやるという考えのもとの「鳥の劇場」の公演は、確実に地元の人々の参加と演劇への関心を向けさせている。みせて下さった写真の中には、楽しそうな地元の方々の多くの笑顔があった。「地域だから」といって手を抜くのではなく、面白いもの、深いものをやるという中島さんの揺るがない演劇へのこだわりが共感を生んでいるのであろう。中島さんの、演劇を「感性のインフラ」として一極集中の日本の中で取り残されつつある地方を活性化させるという発想は、演劇を社会に対する活性化のための「手段」として捉えているということではない。決して「手段」ではなく、「目的」であることを見失わない必要があるというと中島さんの言葉の中には、演劇に対する強い情熱を感じさせられた。
劇場とはそもそも、ほぼ収益を上げるのは無理で、非効率といわれている芸術分野である。しかし、非効率だからこそ、発見できる価値があるのではとおっしゃっており、社会にその芸術を還元することで存在価値を見出すという発想は、いかに私たちが経済やお金のことに囚われがちであるのかいうことを反省させられた。
中島さんがおっしゃっていた、日常生活で突然降ってくる雨のような、人間の力でどうにもならない圧倒的装置としての演劇が行われる劇場が、ドイツの公共劇場のように多くの人にとって身近な安心、従属するような場所になり、日常的に生身の体同士のインタラクションが行われるようになったら、どんなに素晴らしいことだろうか。中島さんの「鳥の劇場」での活動は、まさに市民社会における演劇という芸術の存在価値を証明しており、今後の演劇の有効な方向性を指し示しているように思う。
(レポート作成:小野田真実)
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