※事務局より…第6回の講義では、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
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中島諒人さんという演出家がどのような活動をなさっている方なのかは、お話を伺うまであまりよく存じ上げなかった。
印象的だったのは、中島さんが主宰する「鳥の劇場」の拠点である鳥取市の旧鹿野小学校という「場」に関係した事柄である。
それは、校舎部分は占有できるものの、上演スペースである体育館部分に関しては、建前上1日ごとの使用という形を取らざるを得ないといった具体的な問題から、この場所を地域の「知の拠点」として位置づけて行きたいというような、理念的な問題にまで及ぶ。
前者の問題については、以前は公演ごとに毎回、客席の解体を行っていたら、行政側の方が見かねて実質的には連続での使用を可能にしてくれたというようなエピソードから両者の円満な関係を感じられたし、体育館を劇場に改造するための投資金額の例などは、会場とのやり取りの中でも話題になったように、今後地域の文化拠点を作っていく上で、「鳥の劇場」のようなケースが1つの選択肢として取り上げられるべきであるということを説得するに十分だろう。
「知の拠点」という言葉には、恒常的な演劇活動などによって、地域の知が「蓄積」される場を目指したいという意図が込められているようであった。
最後に小林真理先生もドイツのレパートリー劇場について少し触れられていたが、劇場専属の劇団によって、文字通り演劇の作品が「蓄積」されていく劇場が国内各地に存在する状況に対して、いわゆる「貸し館」が大部分で(貸し館=悪と単純に言ってしまってはいけないが)、恒常的な活動による成果の蓄積が期待しにくかったり、東京以外の土地で継続して活動する演劇集団の数が少ないといった日本の現状を眺めた時、鈴木忠志氏や「鳥の劇場」の活動は非常に意義の深いものだと感じる(中島さんも「鳥の劇場」が地域で活動をするにあたって、鈴木氏の利賀村での活動を目にしていたことが非常に参考になったと仰っていたが、これもある種の「蓄積」といえる)。
「わかりやすい」ことをやるのではなく、あえて観客がわからないかもしれないことをやろうとなさっている姿勢にも非常に共感を覚えた。「わからない」というところから、演出家・俳優と観客、観客同士の対話や交流が生まれるというようなあり方こそ、市民社会の中での演劇・劇場の姿として望ましいものだろう。
「鳥の劇場」のような例がもっと広く知られることで、東京・その他の地域を問わず、日本の演劇状況がより豊かになっていくことを期待したい。
鳥取まで行き、実際にこの「場」の空気に触れてみたいものだが、なかなか時間的にも経済的にもそうはいかないので、まずは年末に予定されている東京での「鳥の劇場」の公演に足を運ぼうと思っている。
(レポート作成:日置貴之)
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