2009/06/19

3年目の公開講座が始まりました。

先週金曜日から3年目の文化資源学公開講座
「市民社会再生ー新しい理論構築に向けて」が始まりました。
今後の講座の様子は以下のブログでお知らせします。
http://shiminsyakaisaisei3.blogspot.com/

2008/12/04

紹介文●ゲスト講師3人をお招きした理由

今年度、数々のゲスト講師の最後を飾る次回の公開講座は、大阪と神戸から、第一線のアートの現場で活動されている三人をお迎えします。ここでは、この三人のこれまでの活動をごく簡単に紹介したうえで、なぜ、この三人を講座に招いたのか、その背景と趣旨を説明させていただきます。
神戸を拠点に活動されているアーティストの杉山知子さんは、1994年からC.A.P.(芸術と計画会議)の代表を務められています(2002年にNPO法人化)。ご自身の作家活動と並行して、神戸市内の遊休施設をアーティストのアトリエとして転用したCAP HOUSEを運営し、アーティスト・コミュニティの拠点を形成されてきました。
神戸と大阪で活動されている木ノ下智恵子さんは、現在、大阪大学のコミュニケーションデザイン・センターの特任講師を務められており、大阪の都心部を中心に、さまざまなアートプロジェクトやカフェイベントの企画制作を手掛けられています。また、長らく神戸アートヴィレッジセンターのアートプロデューサーとしても活動されてきました。
山口洋典さんは、浄土宗應典院の主幹でもあり、京都の同志社大学の教員もされています。應典院の境内には劇場設備を有する地域に開かれた施設があり、そこで大阪の若い演劇人たちの人材育成や作品発表が展開されています。また、「大阪でアーツカウンシルをつくる会」の世話人としても活動されています。
さて、この三人を「市民社会再生」をテーマとする本講座にお招きしたのは、昨今の関西における文化を取り巻く事情を抜きにしては語れません。
昨年度の公開講座でも、NPO法人DANCE BOXの大谷さんから、大阪市の行財政改革の荒波によって、活動拠点だったフェスティバルゲートからの撤退を余儀なくされた話を伺いました。その後DANCE BOXは、大阪市からの提案により代替施設に移転したものの、そこも短期間の退去となり、最近、神戸市からの申し出によって、拠点となるスペースを構えることができたそうです。
また、みなさんご承知のとおり、大阪府においても知事からのトップダウンの財政改革によって、大阪センチュリー交響楽団の存続問題に代表されるように、文化団体や文化施設の財政危機だけでなく、その存在意義そのものに疑問を投げかけられている状況です。
さらには、滋賀県では県立芸術劇場であるびわ湖ホールの運営予算について県知事と県議会とが対立し、「福祉か文化か」といった二者択一の議論に発展する一方で、県民だけでなく、全国の芸術関係者や芸術団体による署名運動が展開されました。
以上のような関西の文化事情は、個々の問題についての当事者の意見や立場の違いによる見解の相違を検証することは可能です。しかし、より重要なことは、「そもそも市民社会にとって文化の役割とは何か、そしてその役割を、誰が、どこまで担うのか」を語るべきではないでしょうか。
三人の共通は、関西で活動すること、芸術の現場に関わっていること、何らかのコミュニティの媒介を担っていること、そして非営利の公益活動を実践していることです。そうした立場から、市民社会における「文化の射程」を、どこまで広げているのか。あるいは、市民社会再生の芽生えが、どのような形で見えてきているか。短い時間ではありますが、熱く語っていただきたいと思っています。(大澤寅雄)

2008/11/07

レポート|事例1 田中泯(舞踏家・振付家・農業者)

2008年10月31日は後期の事例1として舞踏家・振付家・農業者である田中泯氏をお迎えしました。「しゃべっていてあきちゃうんですよね」という言葉から始まった講義ですが、インドネシアでの「場踊り」のお話しや、前回の沼野先生の公演を事前に聞かれた上で、それと絡めてお話してくださるところもあり、また逆に木下先生に質問されるなど、田中氏の人柄が感じられました。最後には、田中氏の行っているワークショップの様子を映像とともにご紹介くださいました。
前回の沼野先生の講義と絡めては、越境についてお話いただきました。境界には、見える境界と見えない境界があるのではないかと仰って、それぞれを説明してくださいました。
見える境界は、大人数で意思・思考を働かせやすいもの。それは、例えば株を買うとか、地所を増やすなどの、「所有する」こと、自分の「持てる境界線」を広げたいということとも関わってきます。また、優劣・勝敗など「向こう側に行きたい」と思わせるこれらのくくりに関しても、ボーダーが見えるのではないかと仰っていました。一方、見えない境界は、大勢で対処しにくいものだとします。田中氏は、認否人のことを「人間のボーダーからはずされた人」と表現し、人でないばっかりに許されたことができたのではないかと仰いました。そして、ご自身は「できれば、こっから先があっちだな」と感じられる、ボーダーラインに立ってしまっている状態を実践したいと仰いました。
ここで、「市民社会再生」に言及。
人間:ヒト社会の中で、社会を前提とした存在(つまり人非人は「人間じゃない」と言われて当然だと位置付けられる。けど、踊りがすごくなれればそっちのがいいな)
市民:ポジティブに社会に参加している人間
・・・現在生きている人間たちの文化ということ?
木下先生「人をどういう風に呼ぶのか。社会の構成員であり、社会に対してポジティブに何か変えていきたいと主体的に関わる人のこと。かつて輝いていた言葉で、今はあまりつかわれない言葉を選んだ。」
「市民社会再生」の受講生の多くが引っかかっているであろう、これらの言葉について、逆に木下先生に質問されました。
その上で、生まれた瞬間に空気を吸うようになることが、地球上の営みに参加したことになるという点で大転換だと仰いました。空気は境界のないものの最たるもの、しかし今でも境界のないものなんて多くあるといいます。そして、所有と越境の絡まりを、身体に引き付けて話してくださいました。
「自分」というもの―からだという環境―を持ちながら、それと一緒に歩き死んでいくのであって、からだの中に記憶がある、という言葉はとても印象的です。からだが自分の一番近くにあるブツであり、最初で最後の砦であって、そのことはとても大きなことなのだということ。一方で、自分のからだを自由に使い「自分」から自由になることは、自意識過剰になってしまうことと表裏一体で、自意識がおこるとできなくなってしまうといいます。それはトランスしてしまってはだめで、だけど覚醒状態にあるということが大切だということです。
記憶と身体(とコミュニティー)は、後期のキーワードですが、私はこれらがどう結びついていくのか、まだよく分からないでいます。ただ、からだのことをこんなに大切にしていいんだ!という驚きというか、疎かにしてきたつもりではないにせよ、自分の記憶として、からだに向き合ったことがなかったことに、(大げさでなく)気付かされました。これは、もちろん人によるのかもしれません。グループディスカッションの場では、表現の形としてからだを通す経験をされた方は、私が驚いていることが不思議だったようです。では私は、からだを持った存在としての相手も、見てこなかったのでしょうか。はた、とまた驚いてしまいます。ワークショップの様子を映しながら解説してくださった、見えていることの乱暴さということはこういうことでしょうか。
「ダンサーという性質から」と前置きしてから「一瞬よりもちょっと長い永遠」と仰いました。時間をどう感じながら生きているのかということのために自分が選んだ表現だといいます。しかし、「泯さんはダンサーだから」とか、「泯さんだから」という視点からこの講義をとらえることがはばかられてしまうのは、私だけでしょうか。
この講義で、ちょっとからだに興味をもってしまった方もいらっしゃるでしょう。そういえばそんなサークルもあったっけ、という人々に向けて、サークルの活動報告もぜひしていただきたく思います。
(宮川智美)

レポート|基調講演 沼野充義(ロシア東欧文学)

2008年10月24日、後期第2回目は沼野充義先生(東京大学文学部教授、ロシア東欧文学・世界文学論)による基調講演でした。タイトルは、「とどまることと越えていくこと―故郷、境界、越境について」。配られたレジュメには、①現代的現象(?)としての「越境」、②二つのノーベル文学賞受賞スピーチ―日本とその境界、③亡命文学―その光と悲惨、④日本文学の「境界」、と記されています。ここでは、簡単に(そして主観的に)講演の概要をふりかえりたいと思います。
①現代的現象(?)としての「越境」では、冷戦終結後、世界は一元化していくのか、それとも多様化していくのかという問題提起がありました。例として挙げられたのは、インターネットの普及に伴う「英語」の世界共通言語化です。しかし英語だけが世界中に浸透していったわけではなく、各地の言語にあわせてコンピューターの仕様を変換するという現象が同時に起こってきます。世界的な一元化と並行して多様化が進行するのです。したがって、あれかこれかという単なる二者択一ではなく、そのはざまの中に私達は位置していると言えるのではないでしょうか。また、中国からフランスへ亡命した高行健氏やドイツと日本の空間及び言語を自由に往来する多和田葉子氏などの例からわかるように、文化の領域で「国籍」を定めることが難しくなりつつある、というのも事実でしょう。
二つのノーベル文学賞受賞スピーチ(②)では、川端康成が「美しい日本の私」、大江健三郎氏が「あいまいな日本の私」というタイトルで各々の受賞スピーチを行った背景には世界と日本を区別する境界の変化が読み取れることをご教示いただきました。自分を規定(定義)するとは境界を定めること、という先生のお言葉に、しばしば「私って○○な人間なんで〜」と言う人は、その発言によって自分の境界を無意識のうちに作り出し、その中に自分自身をつなぎとめようとしているのではないかなどと考えました。
③の「亡命文学―その栄光と悲惨」については時間の制約があり詳しくは触れられなかったのですが、過去を向く「求心的なもの」と「遠心的なもの」として、過去に戻りたい・望郷の念・母語への愛着といった方向性と、反対に未知の領域を開拓してゆこうとする方向性を説明してくださいました。亡命とは境界を越えて出てゆくことですが、境界が曖昧になりつつある現在でも、越境することはやはり簡単ではないように思われます。内にとどまろうとするのか、外に出て行こうとするのか。ここでも①と同様、二極のどちらか一方向に進んでゆくわけではなく、単純には語り得ないということが露わになりました。
日本文学の「境界」(④)では、日本語で書き、日本語で読まれることを前提とした日本文学というものと世界文学との境界が曖昧になってきているというご指摘がありました。芥川賞受賞が記憶に新しい楊逸氏の使った「汗玉」という表現などを例に、ちょっと違和感を覚えるような表現を切り捨てるのか、それともその差異にこそ新しい表現の可能性を見出してゆくのか、という問いかけがありました。執筆・発表する言語や表現方法、記憶など、これまで自明のこととして共有されてきた前提が今揺らいでいるのでしょう。
コミュニティとは、「何かを共通にもっている」者の集まりであるといいます。人・物・情報そして文化も移動する時代にあって、今私達は何を共有しどのようなコミュニティを築こうとしているのでしょうか。「公共性・多様性・マイノリティ」という前期のテーマから「記憶・身体・コミュニティ」という後期のテーマへのつながり、そして広がりを感じさせられる基調講演でした。
講演の内容自体は奥深いものでしたが、穏やかでかつ随所にユーモアを交えた沼野先生のお話に会場の空気は終始和やかでした。質疑応答も盛り上がり、中には川端の「美しい日本の私」と大江の「あいまいな日本の私」にひっかけて、「夏目漱石がノーベル賞を受賞したとしたら、どのようなタイトルで受賞スピーチをしたと思うか」というような珍(?)質問も飛び出しました。
ちなみに、沼野先生は「可笑しい日本のあなた」という文章を『200X年 文学の旅』(作品社、2005年)に書いていらっしゃいます。柴田元幸先生(英米文学、翻訳論)との共著です。読書の秋、興味をもたれた方は是非ご一読ください。
質疑応答のあとは、早速“サークル”のメンバー募集が3件ありました。
これからどの“サークル”に入るか、はたまた自ら旗揚げするか。悩みどころですが、自らの「境界」を定めず、寧ろ普段はあまり関わらないような分野の活動に「越境」を試みるのも良いかも知れません。
(三石恵莉)

2008/11/04

感想文●渡部泰明「身の表現としての和歌」

次回(11月7日)の講座講師のお一人である渡部泰明先生は、もう一人の講師野田秀樹さんが夢の遊眠社を立ち上げられた際に一緒に活動をされていました。今回、公開講座に先立ち先生の「身の表現としての和歌」(『和歌をひらく第一巻 和歌の力』所収)を拝読しました。その中で展開されていた「演じられる和歌論」とでもいうべき論がとても興味深く、先生の研究テーマの「和歌」と演劇をつなぐヒントになるのではないかと考え、ご紹介させていただきます。
本文では『古今和歌集』仮名序・『無名抄』・藤原俊成・藤原定家・二条為世と京極派の時代を追って展開される和歌論の5例から、和歌における「さま」「姿」「風体」について論じられています。とだけ書くとたいへん分かりにくいですが、「和歌には人の心だけでなく世の中のすべてに影響を与える不思議な力がある」と主張する『古今和歌集』仮名序の文章に対し、なぜ和歌がそのような力をもつ存在になるのか、その経緯は、ということを考察した文章です。
仮名序で語られる「さま」とは公的な宮廷文学としての価値をもつ和歌の形です。詠まれた和歌それのみでなく、作者自身にも「さま」が相応していることが求められます。「作者の身が和歌の表現の中にすっかり溶け込むような、隙のない完全な演技」が必要なのです。これは「虚構の生」と呼ばれます。『無名抄』では、優美な仮構の姿を演じることを突き詰めた先に表れる余情が和歌の本質であると語られます。
藤原俊成・定家親子は、よい和歌を詠むためには「古来の歌の姿」=「風体」を身につけることが必要であるといっています。それはたとえばあたかも『枕草子』の中で描かれていそうな具体的・典型的・和歌的な空間を描出し、自分がその中に身を置いているような感覚をもつことによって「姿」を実感すること。そうして想像力を広げ、新たな表現の可能性を探るべきことです。ここで、定家の著作であるとされる『毎月抄』が定家になりかわった何者かが書いたものであり、定家の思想のもとに和歌を学ぶ人を教育しようとするものである可能性が示されます。そこには「姿」「風体」を実感する、演じることを求める書がまた演じられているという二重構造があります。
鎌倉時代の二条為世は、上で見てきたような伝統的な発想から読まれた和歌がどれも同じようでありながら一人ひとりの個性を逆に強調すると語ります。「古来の歌の姿」を追い「虚構の生」を演じることがここでも求められます。
題を与えられたうえで詠むことが殆どである和歌は、その表現に強い虚構性を持ちます。和歌は「身の表現としての性格があり、演技性をもつ作者の振る舞いを表現するもの」です。それはどのような立場の歌人にとっても同じであるといえます。和歌のもつ不思議な力を与える条件を演じるということに結びつけて展開される論に、渡辺先生の演劇人としての一面を見たように思いました。(赤星友香)

感想文●野田秀樹「駄文集大成 おねえさんといっしょ」

公開講座後半も4回目。11月7日の講座には演劇界のトップランナーとしてご活躍中の野田秀樹さんがいらっしゃり、人文社会系研究科日本文化研究専攻で、野田さんと演劇の活動もされていた渡部泰明先生が、さまざまなお話を引き出してくださいます。お二人は一緒に夢の遊眠社を立ち上げられたとのことなので、私個人的には活動当初のことや当時のエピソードをお聞きしたいと考えています。
野田さんの書かれた文庫本、『駄文集大成 おねえさんといっしょ』(新潮文庫)を、先日ふと手に取りました。だいぶ前に出されたものですが、コンパクトかつ多岐にわたる野田さんの活動が紹介されています。昭和60年4月から62年3月まで「膝小僧時代」昭和62年4月から8月まで『小説新潮』に連載されたエッセイや、中村勘九郎さん、扇田昭彦さんら演劇人との対談、その他もろもろ多種多様な文章がまとめられており、当時、野田さんが演劇で挑戦したかったこと、作家に関しての考察、演劇をとりまく環境についてなど書かれています。
中でも衝撃的なのが有名人をドラマティックに紹介しているエッセイ! 美空ひばりや松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄などの個性豊かな人たちを紹介するのに、いつの間にかにショートストーリーが出来上がっていて、エッセイだけれど短編小説? と思うほどです。紹介する人物の日常では到底ありえない世界をつくりあげ、そこにイキイキと人物を描きだす。すると、いつの間にか、そのありえない世界の中で人物が歩き出していて、最終的には「あっ、そうだよね、この人、きっと!」といった感じで読者を納得させてしまう。それも松田聖子、マドンナ、長嶋茂雄ですよ! 皆、ありきたりの言葉では語りきれない個性的な人ばかり。たった数ページのエッセイで、これをやり遂げてしまう野田さんの表現力に、私はただただ驚くばかりでした。
そしてこれが演劇の脚本になるとどうでしょう。エッセイで取り上げた人たちに劣らず個性的な登場人物が複数出てきて、それぞれが、それぞれの道を歩き出し、巡り合い、ぶつかりあう。それはいったいどのような話でしょうか? これは考えても、なかなかわかるものではありません。舞台を見て、初めてわかるのかもしれません。来年年明けに、野田さんの新作『パイパー』が上演されます。それも舞台は1000年後の火星!? まずは、ちょっと手軽な宇宙旅行に渋谷へ参り、考えてみようと思います。(有賀沙織)

2008/10/23

感想文●田中泯 出演作品「たそがれ清兵衛」「メゾンドヒミコ」

後期第2回、10月31日の公開講座に向けて、講師にお迎えする田中泯さんの出演作品を鑑賞しました。
田中泯さんは、世界的に知られる舞踏家で振付師です。…と、同時に山梨県北杜市白州町で1985年に「身体気象農場」を開設され、97年には同県甲斐市上芹沢に「舞踏資源研究所/桃花村」を設立。農業と舞踊を同時に実践される農業者でもいらっしゃいます。
舞踏においては、土方巽の作品に参加されるなど、すでにそのご活動の様子はよく知られていましたが、その名がそれまで舞踏の世界に接したことのなかった多くの人々(まさに私のように)の知るところとなったのは、映画への出演がありました。今回は、その映画作品のなかから、代表作である標記2作品を取り上げ、ご紹介します。
2作品ともひじょうに有名で、人気のある作品ですので、ご覧になった受講生の皆さんも多いかと思います(まだの方はぜひ!)。田中さんの役どころは、「たそがれ」では主人公の敵役・余吾善右門、「ヒミコ」では主人公の父で、ゲイの老人ホームを経営する卑弥呼を演じられています。この2つの役だけで田中さんを語るには足りなさ過ぎることは十分承知のうえで、あえていうなら、どちらの役もその存在感に「ゾクゾクする」ということ。いずれも、出演者情報では3番目にでてくるような役どころですが、総出演“時間”は他の脇役さんより少なめです。特に余吾善右門は、途中に少しと最後に登場して、終始暗いアングルなので表情が見えにくいような気さえします。それでも、迫力のある決闘シーンの立ち回り、憂いと怒りと悲しみが同居したたたずまいに、初映画出演となった同作品で日本アカデミー助演男優賞を受賞されたのも納得です。恥ずかしながら舞踏の知識はほとんどありませんが、切られた善右門が最後に悶絶して倒れるシーンには、舞踏の要素がぎゅっと凝縮されているような、力強さが感じられます。
一方の「ヒミコ」は、そうした舞踏家の「動」のイメージとは逆に、末期がんにおかされほとんどをベッドですごす「静」の役どころ。田中さんも、はじめの記者会見では「舞踏家が寝てるばかりじゃあ」とボヤかれたそうですが、映画になったのを見たときは、「踊っているときの感覚が見えた」※そうです 。ますます舞踏の世界の奥深さを感じます。コワイのか、やさしいのか、寂しいのか・・・最後までとらえどころのない卑弥呼ですが、死の間際に、娘である主人公に向かって、『本当のことを言うわ・・・』とじっと見開いた目で漏らす、『・・・あなたが、好きよ・・・』の一言は、まさに究極のゾクゾク感。それは、怖いとかドキドキするとかそういう陳腐な言葉ではもはや表せない、フシギな感覚を私たちにもたらす演技です。
舞踏や農業のくらしがどのように結実して、かの役たちをつくりだしていったのか、30日はぜひその一端が伺えるといいなと、いまから楽しみに思います。(横山梓)
※ クロワッサン2008年2月25日号 インタビューより

レポート|オリエンテーション 小林真理(文化資源学)

10月10日、後期の開始を告げるオリエンテーションが小林真理先生(文化資源学)からありました。ここではごく簡単に振り返ってみます。
まず、後期のテーマは「記憶・身体・コミュニティ」ですが、前期のテーマ「公共性・多様性・マイノリティ」も引き続き講座の根底に流れているということを確認しました。
次に、この公開講座を実施していることについて、問題意識を共有する人と集うことがまず大事だということを、小林先生自身の経験―ある制度についての意見をインターネット上で呼びかけたら、たくさんの反応があったということなどを交えて語ってくださいました。そして、なぜこの国は文化の問題を重視しないのか?という問いに行政側だけに「○○すべき」という価値判断させることを許してしまう市民の姿勢にも問題がある、と指摘しました。この講座では、より多くの人が豊かに生きていくために、自分たちは何ができるのか?をひとりひとりが自分に問い直すことが求められています。
議論を深めるために、基調講演や事例を話してくださる講師の方々について、なぜこの方を選んだのかについても触れられました。さまざまな分野で活躍されている講師のみなさんのお話を聞くのはとても楽しみですね。
大澤さんから後期の講座の進み方、最終課題についての説明もありました。前期のグループとは別に、新たなA~Jグループが編成され、講義を聴いたあとにディスカッションを行います。またそのグループとは別に「サークル活動」としてより関心の近い仲間同士が集まり、グループワークを行うことになりました。そして「あなた自身が実践できる市民社会再生」をひとりずつ表明するという課題が出されました。
それから、新しいグループごとに挨拶が交わされ、ディスカッションを進行する際のリーダー・サブリーダーを決めました。後期もそれぞれ個性豊かなグループができあがりました。ちなみに前期のグループのメーリングリストは今でも有効だそうなので、新しいグループの関係を育みつつ、前期のグループワークを通して絆を培った方々とも交流を続けていければ、と思います。小林先生が最初に触れ、ほかの運営委員の方からもお話があった通り、人間関係自体が大切な資源です。盛りだくさんで大変なこともあると思いますが、たくさんの出会いを楽しみ、このミニ「市民社会」を大いに盛り上げ、日常生活の糧としましょう。前期から引き続きの方も、後期からご参加の方も、どうぞよろしくお願いいたします!(池田香織)

2008/10/10

著書の紹介|沼野充義

次回、10月24日(金)の第8回講座の講師、沼野充義先生の著書を紹介します。

徹夜の塊-亡命文学論
作品社、2002
ユートピア文学論-徹夜の塊
作品社、2003
屋根の上のバイリンガル
白水社、1996
スタニスワフ・レム『ソラリス』(訳書)
国書刊行会、2004

感想文●沼野充義「亡命文学論」

後期第二回目、10月24日の沼野充義先生の講義へ向けて『徹夜の塊-亡命文学論』(作品社、2002年)を拝読しました。この本は、沼野先生によって書かれたロシア東欧の「亡命作家」についての文章が、まとめられ、再構成されて新たに一冊の書物になったものです。
わたしはロシア東欧の歴史についてあまり知識がないまま読み進めてしまったのですが、亡命ということを軸に集められた、作家・作品の紹介文のように読むことができました。本文では、数多くの亡命作家について、その理由や状況、それぞれに異なる亡命のあり方、または、亡命作家の作家としての活動にまつわる内面的なことがらや、活動を取り巻く枠組についてなど、幅広い内容が書かれています。
みなさんは「亡命」という言葉を聞いてどのようなことをイメージされるでしょうか。現代の日本において、「亡命」ということを自分自身に関係のあるものとして、ごく身近なものとして考えたことのある人は大変少ないのではないだろうかと思われます。先生も本文中で指摘されていることですが、漠然と何かロマンティックな響きを感じる人も多いと思われます。私自身もタイトルの「亡命」という言葉にはるかに遠い土地での出来事を遠くからうっすらと見るような感覚を持ちました。しかし、本文において先生は「亡命」という状態に含まれるわたしたち人間の全員にかかわりある「究極の問い」を指摘されています。その問いとは、私たちの人間の生の「起源」と「終末」についてです。私たちはその問いのどちらも確かめることはできないで「起源」と「終末」の「間」の時間を生きています。亡命者が「ユートピア」を離れもう一つの新たな「ユートピア」求めてさすらい、その「『間』を漂い続ける」ということに、私たちの生のあり方の原型を見ることができると指摘されています。
前期・夏休み課題を通じて、ひとの集まり、それを作り出すこと、支える枠組みなどについて考える機会がたくさんあったように思います。さて、本書で取り上げられている「亡命」は集まりや枠組みの境を飛び越えようとする力によるものと考えられます。ご自身も亡命者のように越境と回帰を繰り返してこられたという沼野先生が、どのような切り口で「市民社会」あるいは「文化の射程」ということについてお話くださるのか大変楽しみに思います!(木下紗耶子)

後期オリエンテーション

■後期スケジュール
後期7回 記憶・身体・コミュニティ
10/10(金)オリエンテーション|小林真理(文化資源学)
10/24(金)基調講演|沼野充義(ロシア・東欧文学)
10/31(金)事例1|田中 泯(舞踊家・振付家・農業者)
11/ 7(金)事例2|野田秀樹(劇作家・演出家 )渡部泰明(国文学)
11/21(金)事例3|鳥越けい子(サウンドスケープ)
12/ 5(金)事例4|杉山知子/木ノ下智恵子/山口洋典
   (C.A.P./大阪大学コミュニケーションデザインセンター/浄土宗應典院)
1/ 9(金)グループワーク発表

■基本的な授業の流れ
授業開始前(18:40まで)に教室前で出席を確認
(出席カード提出、押印、リストのチェック)
18:40 開始
 講義(60分)
 グループディスカッション(15分)
 質疑応答(25分)
20:20 終了

■グループ編成の説明
受講生はA〜Jの10のグループに分かれて着席します(概ね前期の出席状況からグループごとの出席率が均等になるよう配慮しました)。
グループは、各回の講義での意見交換や質問の集約など、受講生の積極的な参加による双方向の授業を行うために編成します。
1つのグループは10人前後で編成し、公開講座の運営委員とアシスタントを配置しています。
グループ内で、議論をリードする「グループリーダー」「サブリーダー」を決めてください。

■サークル編成の説明
講義時間内の「グループ」とは別に、講義以外の時間も議論や情報交換を活発に行っていただくため、受講生の発案、発意による「サークル」を組織します。
後期の課題(後述)を見据えたアイデアを受講生・運営委員ともに出し合い、サークル単位で活動に取り組んでいただきます。
「サークル」は、毎回出席の受付周辺で掲示板を設置し、講義終了時間で呼びかけ、自主的に情報交換の手段を構築していただきます。

■レポートとコメント
各回の講義は、アシスタントが概要のレポートを作成し、ブログに掲載します。
ブログ上のレポートに対して、1グループにつき2人の受講生は、コメントを投稿して下さい(受講生全員が、前期と後期で必ず1回ずつはコメントを投稿して下さい)。
誰がコメントを投稿するのかは、グループの中で決めてください。
コメントの字数は200字程度とします。
ブログへのコメントの方法は、メールでインストラクションを行います。

■課題の説明
後期の課題は、下記の通りです。
「あなた自身が実践できる市民社会再生」に取り組み、その中で考察したことをA4×1枚のレポートにまとめて下さい。

レポートは、ウェブサイト上で公開します(基本的にお名前の公開を前提とします)。
最終回1/9(金)の後期グループワークの発表は、「サークル」ごとに発表します。
12/19(金)18時より、本教室をグループワーク準備のために提供します。
修了証は出欠+課題の提出で発行を決めます。
形式は自由ですが、各サークルごとにプレゼンテーションできるように体裁を揃えてください。
例えば、各自のレポートをWordファイルにまとめた報告書、画像を使ったPowerPointのプレゼンテーション、webサイトの制作など、創意工夫をしてください。
1月9日のグループワーク発表では、各グループごとに短いプレゼンテーションを行います。
発表されたプレゼンテーションは、公開講座のウェブサイトで発表します。

2008/09/11

前期グループワーク発表の概要

公開講座「市民社会再生」受講生の皆様、長らくご無沙汰しておりました。どのような夏休みを過ごされたでしょうか。
さて、この公開講座も前期の最後となるグループワークの発表会が、来週9月12日(金)に行われます。前期5回の講義を踏まえて「公共性・多様性・マイノリティ」という3つのキーワードから、各グループごとに様々な事例を発見し、考察していただきます。
みなさんは、この夏休みでどのような事例を発見したのでしょうか。発表の前に、各グループの発表の概要をご紹介しましょう。

A●Living Libraryを通じて

私たちAグループはまず各自で様々な事例を挙げることから始めました。その中からLiving Libraryという事例を取り上げることを選択しました。この事例を通して、日本において「市民社会」を築くための問題点を中心に提言しようと思います。5分という短い時間では議論し尽くせないために、続きはWEBで議論しましょう!Living Libraryに関する資料もここにあります。

AグループのWEB→http://d.hatena.ne.jp/CR-Agroup/

B●市民社会への「気づき」(仮題)

私たちBグループは、グループそのものが「ミニ市民社会」である、と初回の講座から話していました。そして9月12日発表に向けての打ち合わせをする中で、各人も場を移動すればマイノリティになりうる。市民社会再生の具体的な方法を示すことよりも、メンバーが集まって、議論する作業そのものに市民社会再生へのヒントが隠されているんじゃないか…と考えました。
今回の発表では、メンバー各々が出した「公共性・多様性・マイノリティ」について考えたきっかけとなった事例をダイジェスト版で紹介しながら、市民社会について、そこに参加する私たちの意識の持ち方について、何らかの“気づき”ができればと考えております。

<主な構成>
事例紹介:
(1) 世界遺産
(2) 考古学+地球資源関連
(3) 美術
(4) ポップス音楽
(5) 地域演劇
など

まとめ:
市民社会に参加する私たちはどうすることが望ましいのか? Bグループなりの考え方

2008/09/10

C●市民社会再生とは…

○Cグループの考え方
事例の列挙→キーワードを抽出→私たちが考える「市民社会」とは?
・・再生っていうけれど、再生すべき「市民社会」って何だ?
・・これまでの授業を踏まえてそれぞれが市民社会再生と感じるような事例を持ち寄り、検討することによって、「市民社会」を「再生」するために必要なことは何かに気付くのではないか?

○事例
 ・長野県南木曽町:妻籠宿の再生
 ・埼玉県志木市:昭和レトロでの地域社会再生
 ・秋田県大館市:アートプロジェクト「ゼロダテ」
 ・兵庫県芦屋市:南芦屋浜コミュニティ&アートプロジェクト
 ・東京都:東京マラソン(その他の市民マラソンも含めて)
 ・神奈川県川崎市:アジア/日本の人々の多文化共生

○抽出したキーワード
 ・地域   ・コミュニケーションのための場所、機会
 ・交流   ・マジョリティ/マイノリティ
 ・他者と自己を認識する

2008/09/09

D●公共放送とは何か?~NHK改革の事例から~(仮)

Dグループは、「公共性」「マイノリティ」「多様性」というキーワードに深く関わる事例として、「NHK」を取り上げました。「公共放送」としてのNHKの役割は、これらすべてに立脚すべきだからです。しかしながら、昨今話題のNHK改革をめぐる議論では、3つの視座が欠けた議論になってはいないでしょうか?
本発表では、今後のNHKを考える手がかりとして、「公共性」「マイノリティ」「多様性」という視点を提案することを目的とします。

〈主な構成〉
(1) NHK改革で展開される議論の概要
(2) 「公共放送」の意義への不十分な問い 傍証:諸外国の公共放送
(3) 回答としての「公共性」「多様性」「マイノリティ」
(3) 考察・まとめ

〈配布資料(予定)〉
パワーポイントのレジュメ(スライドは8枚程度)

2008/09/06

E●マイノリティーから社会的連鎖へ

メンバーは、それぞれ様々な事例に取り組んでいる。話し合いの中から、マイノリティーが多様化へと進化を遂げ、社会的認知を経て、公共性に至るというプロセスがあると考えた。メンバーが取り組んでいる事例を複数に分類し、その中から、一部を紹介し、方法論を検証する。

《紹介する事例》
A:ハンセン病に関する取組み
 (1) 草津温泉 栗生楽泉園
 (2) ハンセン病史料館
B:障害者に関する取組み
 (1) ダイアログ・イン・ザ・ダーク
 (2) Do It Japan(高校生障がい者の進学問題)

F●NPOふらの演劇工房にみる「公共性・多様性・マイノリティ」

ふらの演劇工房のNPO設立に至る経緯と、その後の取り組み、劇場「富良野演劇工場」は、「公共性・多様性・マイノリティ」を考える事例として相応しいと考えた。
ふらの演劇工房の設立をめぐって、多様な市民が、篠田氏(NPO富良野演劇工房元理事長)たちが始めた活動にどのように関わって活動するようになり、信頼関係を結んで、ネットワークを拡がったのか。さまざまな問題を乗り越えて、新たな地域社会が創設されつつある富良野について考察する。
(発表時間が限られているため、詳細については別途ブログに掲載予定。)

概要:
1. 発表の端緒とポイント
2. 富良野の概要と歴史
3. ふらの演劇工房と富良野演劇工場
4. 事例のエッセンス
5. 事例の考察
キーワード:新陳代謝、越境者、「社会的実践を行う個人」としての「市民」、重層性 など

G●アウトサイダーアート

私たちGグループでは、グループ内受講生の関心が「アウトサイダーアート」に集まってきたことをきっかけに、この言葉の意味するところを改めて考えたいと思いました。そこで、障がい者のアートに関する活動を行っているNPOに直にお話を伺い、少しでも現場にふれてみたいと思い、都内にあるNPOエイブル・アート・ジャパンに連絡をとり、活動の一つであるアトリエ・ポレポレにお邪魔させていただきました。
今回の発表では、この活動への参加を通じて「公共性・多様性・マイノリティ」について考えたことを発表したいと思います。

〈主な構成〉
(1) 事例紹介:エイブル・アート・ジャパンのアトリエポレポレ
(2) 参加までの経緯(事例を選ぶまで) 
(3) エイブル・アート・ジャパンの概要
(4) アトリエ・ポレポレに参加して・・・(事例から、今回の課題についてどう考えたか)

〈配布資料(予定)〉
・パワーポイントのレジュメ(スライドは8枚程度)
・発表事例以外で、メンバーが関心をもった関連事例の紹介
 あわせてA3用紙2枚程度の予定

H●アートで街を変える!?―黄金町におけるアートプロジェクト」

わたしたちHグループは、今回の発表で横浜市中区黄金町において、今目下進められている「アートプロジェクト」について考察しました。これらのプロジェクトは以前から黄金町に関係を持っていた人、あるいは「プロジェクト」を行うにあたって黄金町の地を訪れた人、などさまざまな立場の人が入り混ざったかたちで繰り広げられています。
この事例を考察するにあたって、ある地域社会が変化しようとするとき、あるいは変化させられようとするときに立ち現れる力関係の構造を改めて見つめることができました。今回の発表では「黄金町」関係者のインタビューなどから明らかになった、変化している黄金町の今と今後についての考察を発表します。

発表内容
1. 「黄金町」に注目した理由
2. 3つの行為者(行政・住民・民間)による「地域社会再生プロジェクト」とその試み
3. 「黄金町」事例のシステム要素
4. 公共・多様性・マイノリティという視点からの考察と課題