2007/10/19

第6回|中島諒人氏+小林真理先生

※事務局より…第6回の講義では、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
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中島諒人さんという演出家がどのような活動をなさっている方なのかは、お話を伺うまであまりよく存じ上げなかった。
印象的だったのは、中島さんが主宰する「鳥の劇場」の拠点である鳥取市の旧鹿野小学校という「場」に関係した事柄である。
それは、校舎部分は占有できるものの、上演スペースである体育館部分に関しては、建前上1日ごとの使用という形を取らざるを得ないといった具体的な問題から、この場所を地域の「知の拠点」として位置づけて行きたいというような、理念的な問題にまで及ぶ。
前者の問題については、以前は公演ごとに毎回、客席の解体を行っていたら、行政側の方が見かねて実質的には連続での使用を可能にしてくれたというようなエピソードから両者の円満な関係を感じられたし、体育館を劇場に改造するための投資金額の例などは、会場とのやり取りの中でも話題になったように、今後地域の文化拠点を作っていく上で、「鳥の劇場」のようなケースが1つの選択肢として取り上げられるべきであるということを説得するに十分だろう。
「知の拠点」という言葉には、恒常的な演劇活動などによって、地域の知が「蓄積」される場を目指したいという意図が込められているようであった。
最後に小林真理先生もドイツのレパートリー劇場について少し触れられていたが、劇場専属の劇団によって、文字通り演劇の作品が「蓄積」されていく劇場が国内各地に存在する状況に対して、いわゆる「貸し館」が大部分で(貸し館=悪と単純に言ってしまってはいけないが)、恒常的な活動による成果の蓄積が期待しにくかったり、東京以外の土地で継続して活動する演劇集団の数が少ないといった日本の現状を眺めた時、鈴木忠志氏や「鳥の劇場」の活動は非常に意義の深いものだと感じる(中島さんも「鳥の劇場」が地域で活動をするにあたって、鈴木氏の利賀村での活動を目にしていたことが非常に参考になったと仰っていたが、これもある種の「蓄積」といえる)。
「わかりやすい」ことをやるのではなく、あえて観客がわからないかもしれないことをやろうとなさっている姿勢にも非常に共感を覚えた。「わからない」というところから、演出家・俳優と観客、観客同士の対話や交流が生まれるというようなあり方こそ、市民社会の中での演劇・劇場の姿として望ましいものだろう。
「鳥の劇場」のような例がもっと広く知られることで、東京・その他の地域を問わず、日本の演劇状況がより豊かになっていくことを期待したい。
鳥取まで行き、実際にこの「場」の空気に触れてみたいものだが、なかなか時間的にも経済的にもそうはいかないので、まずは年末に予定されている東京での「鳥の劇場」の公演に足を運ぼうと思っている。
(レポート作成:日置貴之)

第6回|中島諒人氏+小林真理先生(report #2)

中島諒人さんは現在鳥取県鹿野町の、廃校を利用して「鳥の劇場」という名のもと、演劇活動を行っている。
あえて、東京でなく地方を拠点として選んだのには、東京で演劇を行うことに対して違和感をもったからだとおっしゃっていた。確かに、東京での演劇はある一定の町で展開されるようなターゲットを提供側から絞っているような作品づくりがされるか、或いは商業的な傾向が強くないと生き残っていけないのが現状である。そのような状況を鑑み、中島さんは実際に鳥取に向かった。劇場さえないような地方で演劇を行うということは、相当の覚悟と決意があったのではないだろうか。
多くの困難の中でも、本来多くの人々に見られるものという演劇の原点に戻り、また自治体という以上に、その地域のために何かをやるという考えのもとの「鳥の劇場」の公演は、確実に地元の人々の参加と演劇への関心を向けさせている。みせて下さった写真の中には、楽しそうな地元の方々の多くの笑顔があった。「地域だから」といって手を抜くのではなく、面白いもの、深いものをやるという中島さんの揺るがない演劇へのこだわりが共感を生んでいるのであろう。中島さんの、演劇を「感性のインフラ」として一極集中の日本の中で取り残されつつある地方を活性化させるという発想は、演劇を社会に対する活性化のための「手段」として捉えているということではない。決して「手段」ではなく、「目的」であることを見失わない必要があるというと中島さんの言葉の中には、演劇に対する強い情熱を感じさせられた。
劇場とはそもそも、ほぼ収益を上げるのは無理で、非効率といわれている芸術分野である。しかし、非効率だからこそ、発見できる価値があるのではとおっしゃっており、社会にその芸術を還元することで存在価値を見出すという発想は、いかに私たちが経済やお金のことに囚われがちであるのかいうことを反省させられた。
中島さんがおっしゃっていた、日常生活で突然降ってくる雨のような、人間の力でどうにもならない圧倒的装置としての演劇が行われる劇場が、ドイツの公共劇場のように多くの人にとって身近な安心、従属するような場所になり、日常的に生身の体同士のインタラクションが行われるようになったら、どんなに素晴らしいことだろうか。中島さんの「鳥の劇場」での活動は、まさに市民社会における演劇という芸術の存在価値を証明しており、今後の演劇の有効な方向性を指し示しているように思う。
(レポート作成:小野田真実)

2007/10/18

第5回|北川フラム氏+木下直之先生 (report #2)

北川フラム氏といえば、越後妻有アートトリエンナーレが有名だ。豪雪地帯の過疎地域でのトリエンナーレが、これほど魅力的に映る理由は何だろう。フラム氏の講演を聴く中で明らかになったキーワードは二つ。“おもしろい”と“反対者”だ。

アートはおもしろい
絵画なんて、「おもしろい!」と思って見に来る人が見るからおもしろいんであって、そうでない人にとっては何もおもしろくない、とフラム氏は言う。フラム氏が地域の中でアートを展開していくときは、関心のある人も無い人も含めた様々な人を惹きつけて巻き込んでいく“おもしろいアート”を目指す。“おもしろいアート”といっても大衆迎合のテーマパークではない。それは一見アートに見えないが、人と人との新しいコミュニケーションの回路を開くような、五感をつかって体験できるようなものだ。
“おもしろいアート”には力がある。例えば、越後妻有では一人暮らしの老人の家に、見知らぬアーティストや都会の若者が、「あなたの土地に作品を作らせてくれ」とやってくる。自分の家族すら訪ねてくれることの無かった老人は、こうした他者との交流に元気をもらう。これがアートの力だ。さらにアートには、作品を作るという労働がある。不慣れな都会の若者が作業していると、地元の人々は手を貸さずにはいられない。一緒に体を動かす体験をしてしまえば、もともと分けのわからない現代美術は、あいまいさも多様さも許容してしまう。ここではもう、作品なんかより人と喋るほうが重要だ。そう言いきってしまう所に、フラム氏のプロデューサーとしてのすごさがある。地域プロジェクトではアートを愛するあまり、協働する相手が見えなくなってしまうこともあるかと思うが、フラム氏のターゲットは最後までぶれない。

反対者とやる
もう一点、フラム氏がすごいところは、“反対者”と一緒に事業を進めるところだ。志同じくした仲間同士でやったほうが上手くいくのは当然だが、敢えて、反対する人々を巻き込んでいくのである。なぜなら、反対意見や批判から学び、新たな作品ができるからであり、厄介なことを媒介に、人と人とがつながれるからだ。フラム氏は「日本は美談が好きだ」と話した。厄介なことはなるべく避けて、すべて上手くいったように見せかける。けれど、美しいばかりの対話の場で、本当に腹を割った話ができるだろうか。地域イベントを行なうにつけ、対話やコミュニケーションの場が設けられるが、そうした場所は“反対者”を歓迎しているだろうか。場が設けられても切迫して議論する課題が無ければ表面的なやり取りで終わってしまう。妻有でフラム氏は、巻き込むべき“反対者”を巻き込んでいった。だからこそトリエンナーレは地域のものになったのである。今後“反対者”の声がもっと表に聞こえてくるような展開を期待したい。

そこに住む人々のために
越後妻有アートトリエンナーレが、地域のためのアートイベントであることを象徴するのが、中越震災後に行なわれた「大地のお手伝い」である。トリエンナーレのスタッフは、芸術祭の準備を2年間ストップして、被災地の「お手伝い」に向かった。都市間競争が激化する昨今、世界各地で新しいビエンナーレが開催されているが、対外的なアピールはあっても、本当の意味でそこに住む人々のために行なわれているイベントはどれほどあるだろうか。妻有の主役は、地域の住民と他者、都会の若者やアーティストだ。
高齢者人口が多く、いずれ消滅してしまうかもしれない集落に、アートを媒介にして人が集まり、その場所の魅力に気づいて帰る。すると次回は、自ら手伝おうという気持ちになる人が出てくる。棚田や里山、空き家のことが忘れられない人がでてくる。こうしたアートの力を使って、フラム氏は日本各地にある、見捨てられそうな土地を救っていくようだ 。アートは都会だけのものではない。余裕がある人のためだけのものでもない 。一見アートから最も遠い場所や人々こそ、実はアートを必要としているのかもしれない。フラム氏はそうした場所や人を見つけ出し、“おもしろいアート”で人々をつなげるプロフェッショナルだった。

※1 フラム氏は公害の直島、人口流出が続く瀬戸内海を舞台にアートプロジェクトを計画している。山陽新聞2007年7月7日
※2 阪神淡路大震災直後、被災地の人々の何人かが、フラム氏の手がけたファーレ立川の様子をテレビで見て、あんなまちに復興したいと思ったそうである。
(レポート作成:豊田梨津子)

2007/10/05

第5回|北川フラム氏+木下直之先生

※事務局より…第5回の講義では、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
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「美術は本当は人の側にあった、そうした美術というものを何か残せないか」という北川さんの美術は、人とのつながること・つながりたいという思いをとても大切にしている。それを考えるきっかけになったのは、海外のパブリックアートだったそうだ。
例えば、ミネアポリスの橋の話(アーティスト名を控えられなかったので、詳しい方がいたらコメントをいただけると嬉しいです)。街を南北に分断する何車線もの高速道路のバイパスの上で、道路の向こう側とこちら側を橋渡ししているのだけれど、人2人がすれ違うのがやっとなくらいの細い狭い通路(catwalk)になっている。これをつくったアーティストは、本来人と人とをつなぐ交流の道だった道路が、人と人とを分断してしまっていることに問題を感じ、断絶をこえる仕組みとして、この橋をデザインした。狭い橋の上では、橋を渡る街の南北の住人が、否応なくすれ違う構造になっている。橋を渡るたびに至近距離ですれ違っていれば、少なくともすれ違い相手に仏頂面ではいられなくなるし、自然にコミュニケーションも生まれてくる。億単位のお金をかけてそんなバカなことを、という議論も紛糾したそうだが、その議論も含めて、この橋のおかげで確かにコミュニケーションが、人と人とのつながりが生まれた。そんなバカなことを考えられるのは美術だけだと、北川さんはいう。他にもいろいろなパブリックアートの事例を紹介しつつ北川さんが語ってくれたのは、地域と人・地域と都市・人と人とのつながりをつくりだす美術の力、美術の楽しさだった。
人とつながるのは楽しいけれど楽ではない。越後妻有の芸術祭は、公園のように作品が守られる前提がある場所ではなく、それぞれの時間・歴史をもつ200あまりの集落で、他者の土地にものをつくるという、ものすごい闘いでもあった。それでも、一緒にやることでつながりは生まれる。アーティストは、これまで越後妻有で生きて働いてきた人々の労働に作品を通して敬意を表現し、泥だらけになってがんばっているアーティストを、地域の人たちも応援してくれるようになった。そうしたコミュニケーションに対し、「美術は赤ん坊と同じ」と北川さんはいう。やっかいで世話もかかるけれど、そこを媒介にみんながつながっていく。
国は金を出す以外は口を出さないのが一番の文化政策だけれど、北川さんは越後妻有では、めんどうだけど行政と関わることを重視したという。一緒に何かをやろうと思ったら、反対者の意見が最も重要で、一番守りに入っているのが行政だからだ。自分と違う人に興味を持つ、一番違う人とつながりたいと思うのは人間の生理だと、北川さんは熱く語ってくれた。
人と関わりたいと思うのは、自分一人だけでは見つけられない、何か素敵な可能性が感じられるからだと思う。1+1が2以上、3以上、もっと未知数な何かになる、そんなわくわくする楽しさが、北川さんが美術という「宛名のないラブレター」のような活動を続ける原動力なのだろう。曖昧さや多様性を許容できる美術のゆるやかなつながりの中では、働きかけは決して一方通行ではなく、相手に働きかける自分自身も変わる。北川さん自身、この10年で自分も変わったという。最初は正直啓蒙意識みたいなものもあったけれど、「若い人が一緒に沢庵食べてくれて嬉しい」というおじいちゃんが考えるように僕も動きたいと思うようになったそうだ。その変化を受け入れて楽しんでいる北川さんは、とても素敵でかっこよかった。
人と人とがつながること、そのつながりを一人ひとりが楽しむこと。ひとりひとりの市民がつながりを楽しむところから、素敵な市民社会も始まっていくに違いない。そうしたコミュニケーションの蓄積が、市民社会における豊かさなのだろう。
(レポート作成:中村美帆)

2007/10/01

後期と来年度に関するwebアンケートを実施

前期の講義を通して、木下先生以下、運営委員会ではこの公開講座を、よりインタラクティブに、受講生とともに動かしていくための仕掛けを検討しました。そこで、後期のゲスト講師に対するご質問や、来年度の公開講座に関する講義テーマや運営手法についてのご意見やアイデアについてwebサイト上のアンケートを行います。
後期のゲスト講師やホスト講師には、講義の前にアンケートで寄せられた質問を事前に目を通してもらい、できるだけ講義の中で回答していただくようにお願いしますので、具体的に「このゲストに、こんなことを質問したい」ということを、こちらにアクセスしていただいて、送信して下さい。
また、来年度の公開講座に対するご意見やアイデアもあわせて受付けますので、「来年度はこういうテーマの講義があるといい」とか「こんな形で講座を運営してみてはどうか」といった忌憚のないご意見やアイデアをお寄せ下さい。