2008/06/23

前期懇親会レポート

前回6月13日の講座の後に、懇親会が催されました。そこで、今回の懇親会に参加できなかった方に様子をお伝えすべくレポートいたします。

懇親会は8時30分ころから準備が始まり、まもなく、サンドイッチ、竹の葉に巻かれたお寿司、枝豆、お菓子などが並べられ、ご参加の皆さんの手にはビール、ソフトドリンクなどが揃いました。「乾杯」の合図で懇親会がスタート。場所はいつもの講義室で行われ、特にグループに分かれるかたちではなく、教壇から近い2列の机に並べられた食べ物を皆で囲むかたちで行われました。懇親会の最初からあちこちでにぎやかな談笑が聞かれ、食べ物・ビールなどもテンポよく皆さんのお腹のなかに入っていったようでした。
さて、懇親会では自己紹介+ひと言タイムが設けられたのですが、自己紹介が始まる頃になると、おもむろにビールケースが教壇のうえに置かれました。どうやら「ビールケースの上に登ってしゃべるように」とのこと。かくして自己紹介はスタートしました。まず教壇上に上がり、懇親会の参加費を支払ってから自己紹介を始めるという流れだったのですが、ビールケースに登るひと・登らないひと、皆さんさまざまな様子で自己紹介をされました。また、「ひと言」では、この講座に参加されるきっかけやご職業、または、研究内容やご自分が参加されているプロジェクトの活動内容などなどが披露されました。懇親会では、自己紹介への導入になるようにと、5月16日の初回の講座で記入していただいた自己紹介カードを集計した受講生名簿が配布されており、私はそれを参照しつつ自己紹介を聞いていました。そこで感じたのは、その人が直接目の前で話しているということは、それ自体、大変な情報量を持っているものだということでした。名簿に書かれている、「氏名・所属・関心ごと」を追うだけではなかなか実感できない部分に関わる多様な側面が少し見えたのではないかと思います。(ビールケースに登る・登らないもその一つですよね)参加された皆さんはどのようなことを感じられたのでしょうか。
さて、50音順に並んだ名簿の「わ」からスタートした自己紹介でしたが、懇親会に出席された受講生全員(総勢70名ほどいらっしゃったでしょうか)が終わったときにはすでに10時半を過ぎていました。そして、そのころには、食べ物も飲み物もほぼ皆さんのお腹の中に。

最後に、木下先生から閉会の言葉をいただき、懇親会は終了しました。(ここで、ビールケースに登っての挨拶は、田中角栄>田中真紀子>市民社会再生講座へと受け継がれてきたものであることが判明!)木下先生がおっしゃったように、受講生同士がより早く打ち解けられるように、そして、今後のグループ活動やグループを越えた議論の場が活発にするための大きな弾みになるように、そのことを目指して企画された懇親会でした。終始にぎやかな雰囲気だったこの懇親会では、きっとそのことが達成されたものと思われました。 
(木下紗耶子)

2008/06/17

感想文●南嶌宏「人間の家-真に歓喜に値するもの」

6月27日の南嶌宏先生(女子美術大学芸術学教授、前熊本市現代美術館館長)の講義に先立ち、『ATTITUDE 2007 人間の家-真に歓喜に値するもの』(熊本市現代美術館2007)に南嶌先生が寄せられたエッセーを拝読した感想を記します。
「神様、私をあなたの平和を広める道具にお使いください。…」―アッシジの聖フランチェスコの「祈りの言葉」(「平和の祈り」)が冒頭に掲げられたこのエッセーでは、2002年の熊本市現代美術館開館までの準備期間2年半と開館後の5年間の南嶌先生の歩みが、つぶさに語られています。
「現代の美術を通して人間のありようを検証する美術館」という基本理念を持つ熊本市現代美術館では、開館記念展「ATTITUDE 2002」において、堕胎を強制されたハンセン病元患者の女性が、わが子の代わりにしてきた抱き人形「太郎」が展示されました。「ATTITUDE 2007」展のポスターに使われたのはハンセン病回復者である成瀬テルさんの20歳の頃のドレスを纏った輝かしい写真(この公開講座のホームページの開講趣旨のページにも使われています。)で、この展覧会では、ハンセン病回復者の人々の作品が世界の現代アーティストたちの作品と共に展示されました。差別され、人間としての権利を奪われてきた人々の表現に人間の美しさを見出し、光を当てたのです。美術史の枠組みにとらわれず、人間の営みを見つめる「人間の家」としての美術館の可能性を提示しています。
エッセーでは、日本にある13のハンセン病の国立療養所、そして台湾と韓国の療養所を巡る間のハンセン病回復者一人ひとりとの出会いの記憶が、大切に思い起こされ、書き綴られていました。美術の専門家である前に、常にひとりの人間として真摯に向かい合う様子が浮かんできました。
私は、自分の大学の博物館学の授業の一環で、多摩全生園と国立ハンセン病資料館(前高松宮記念ハンセン病資料館)に訪れたことがあります。資料館の展示では、入所者の人々が文学や絵画を創作していたことにも触れていて、印象に残りました。エッセーの中で南嶌先生もご自身の無知と無関心を責めておられましたが、私もハンセン病資料館にはじめて行ったとき、これまでの関心を持たずにきた自分が恥ずかしくなったのを覚えています。そういえば聖フランチェスコに大きな影響を受けたというマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と言いました。
人間としての権利、尊厳を奪われてきた人々、差別や偏見にさらされた人々に目を向けること、そして自分のATTITUDEを問い直すことが私たちには必要なのではないでしょうか。これは前回の大沼先生の講義内容にも通じるものだと思います。(池田香織)

著書の紹介|南嶌宏

次回、6月27日(金)の第4回講座の講師、南嶌宏氏の著書を紹介します。

豚と福音—現代美術の純度へ
1997、七賢出版
ATTITUDE2007 人間の家-真に歓喜に値するもの
南嶌宏, 本田代志子, 芦田彩葵編集 2007、熊本市現代美術館
アン・ハミルトン [voce] 南嶌宏, 本田代志子編集
2006、熊本市現代美術館
生人形と江戸の欲望展 南嶌宏、本田代志子 編集
2006、熊本市現代美術館

レポート|事例1 中村雄祐(言語動態学)

2008年6月13日(金)、第3回目の公開講座は、中村雄祐(なかむらゆうすけ)・東京大学大学院人文社会系研究科准教授の講演でした。前回の講座で予め、論文『読み書きと生存の行方』が配布されており、今回はこの論文の内容を踏まえた上で「文書をいかに使いこなすか?」という話題が繰り広げられました。(ここでは論文の概要と講演内容を交えて書かせていただきます。)

中村先生の自己紹介として、西アフリカで語り部のもとでマリンケ語の口頭伝承の調査、ボリビアの先住民女性向け女性職業訓練工房での読み書きと生計維持・向上に関する支援・共同調査など、これまでご経験された調査について簡単にお話され、本題に入りました。
人が生きていくためには、基礎教育、特に読み書きが重要であり、統計上では就学率や識字率は収入や平均余命の間に緩やかな相関関係があることが認められているそうです。「読み書きと生存」を考える際には、リテラシー・スタディーズの動向を軸に進めるのが定番だそうですが、中村先生は「読み書き・印刷用紙の消費動向と生存の関係」について述べられました。
電子化が著しい先進国はともかく、世界全体を見渡すと「紙」は読み書きの道具として現在もなお重要な役割を果たしています。そこで現代世界における読み書き用紙の普及ぶり、その生存にとっての意味を考えるため、あるデータをもとに、国別1人あたりの印刷・筆記用紙および新聞用紙の年間消費量と人々の暮らし向きを示す指標との関係を表すグラフが示されました。
データや指標の詳細はここでは省略しますが、グラフから見えてくることは、1人あたり年間紙総消費量と平均寿命指数の間に強い相関関係が見られ、どうやら「経済的に豊かな国ほどたくさん紙を使い、読み書きをしながら暮らしており、長生きできる」ということです。1人あたり年間紙総消費量の166カ国中の上位、下位それぞれ20カ国の平均値を計算してみると、最上位20カ国の平均が122㎏もあるのに対して、最下位20カ国のそれは0.13kgしかないとのことでした。
次に「文書という道具」について触れられました。文書は複雑な出来事を単純化し、本質を捉え、それ以外を意図的に省略して生まれるものです。(ドナルド・ノーマンの言葉より)また文書とは「象徴+道具」でもあります。これは南アフリカで発見された「Blombas Cave」の例が示されました。そして「オイラーの公式」や「中国の地図」などの例を挙げ、文書の発展、文書の用いられ方の説明がありました。そして文書にはさまざまなタイプがありますが、多様な文書のライフサイクルを峻別し、状況に応じて「自分が今何をなすべきか」を判断し、実行できることが「文書を使える」ということだと述べられました。
文書における表現方法の広がりを示すために「図的表現」についての話題もあがりました。これは個人的にとても興味深かった話題です。途上国では図を用いての相互理解が有効という一例とともに、ロンドンの地下鉄マップが生まれるまでの経過が紹介されました。途上国も先進国もコミュニケーションの有効化(相互理解の簡略化)のために、ほぼ同様なことがされているとは驚きでした。また、人間の数感覚や世界の数字体系についても触れられました。世界各国1~3までは、ほぼ同じ体系がありますが4以上の数字は各国で恣意的なルールが設けられているそうです。

「身体、顔、声、話し言葉、そして文字」と題し、表情で心を読み取ることの例や文字という表現方法の特質についての話題もあがりました。その上で、タイポグラフィーを言語別にみた実験結果、金融広告などの話題も出ました。「文字を読む、心を読む」と題されたトピックでは文字を通しての微妙な心情表現についての考察が紹介されました。
では現代社会における「文書」とはいったいどのようなものなのでしょうか? 文書は不確かな「認知のパワー」を持っています。その文書をいかに使っていくべきでしょうか? 書面に展開されている多様な記号群からは何が読み取れるでしょうか? 文書の奔流をいかに制御するべきでしょうか?
煩雑な書類仕事に振り回される経験は先進諸国ではありふれたものですが、振り回されること以上に、膨大な文書の作成、処理は人々に災厄をもたらす過程に深く関わる場合があります。その例として、中村先生の調査・研究から「ジェノサイド」と呼ばれる国家による計画的な大量虐殺と「グアテマラ」の殺戮についての詳細が述べられました。
「文書」は現代文明の輝かしい躍進にも絶望の極みにも等しく関わってきました。文書使用は人々にとっての大きな助けとなるとともに負の効果をも及ぼしえます。文書が世界中に氾濫する現代は、さまざまな知が思いもよらない形で出会い、ともに世界中の人々の生存に関わりを持つ時代です。これらの事情を踏まえ、私たちはさまざまな文書を通し、その特性を吟味しながら「人間の安全保障」を考えていく。これが今後取り組むべき課題の1つとなるのだろうと考えさせられました。
1時間という短時間で、中村先生は「文書」について多角的にお話くださり、講演後のグループディスカッションも盛り上がり、質疑応答も活発になされました。講演終了後は懇親会が開かれ、冷えたビール片手に美味しい食事をいただきながら受講者1人ひとりの自己紹介に皆、聞き入ってくださいました。
文責・有賀沙織

<参考>
高橋哲哉・山影進 編2008『人間の安全保障』
中村雄祐先生 講演レジュメ 2008年6月13日

2008/06/15

感想文・中村雄祐『読み書きと生存の行方』

6月13日の講義に先立ち、前回配布された中村先生の参考文献を拝読しました。
読み書きの能力は、知識や情報を得るために重要なものです。朝起きて新聞を読み、移動中の電車内で本を読み、中吊り広告をながめる。お昼休みには雑誌を読み、帰宅するとポストに入れられた手紙を読み、パソコンに向かってメールのチェックをする。普段の生活の中で何気なく、当たり前に行っていることですが、もし文字が読めなかったら、これらの行為はできません。
ただ、テレビやラジオなど、視覚、聴覚を使った情報伝達も存在します。文字が読めなくとも、ある程度の知識、情報は得られるはずです。しかし、人々の暮らし向きを示す指標としてよく参照される人間開発指標(HDI)では、その主要構成要素である知識の大きな位置を読み書きが占めています。「読み書きと生存の間の関わりを強めるような人工的な制度群が急速に地球上を覆い尽くしつつあることを示唆するものとして捉えるべき」という一文に、現代世界の中に見えない支配の存在を感じました。
「読み書きと生存」の関係を見るにあたり、物理的存在としては人間の生存に特に影響のない「紙」の消費量とHDIの間に関係が認められることは、興味深く思いました。ただし、読み書き用紙の消費量増加が暮らし向きの向上と直結するわけではなく、ドイツのホロコーストを例に災厄をもたらす過程に深く関わることもあり、「結局、印刷用紙は、現代文明の輝かしい躍進にも絶望の極みにも等しく関わってきた」という、一筋縄にはいかない難しさを感じました。
現代の日本では、読み書きの能力はある程度の年齢に達すれば誰もが持っているものとされ、特に議論されることはありません。そのため、その利点や他との関連は考えたことがありませんでしたが、「読み書きと生存」の間には簡単には説明できない、様々な関わりがあることを知りました。
(渡辺直子)

2008/06/07

レポート|基調講演 大沼保昭(国際法)

2008年5月30日(金)、2回目となる公開講座が行われました。今回からいよいよ、ゲスト講師を迎えての講義+ディスカッション形式が始まります。記念すべき初回は、大沼保昭(おおぬまやすあき)・東京大学大学院法学政治学研究科教授による基調講演でした。

はじめに先生のご挨拶があった後、この講座の後のゲスト講師である野田秀樹氏、田中泯氏にまつわるちょっとした“憤り”について、先生の苦いご経験のお話があり、それまでやや緊張モードだった会場は、笑いとともにやわらいだ雰囲気に包まれました。そして、先生は「公憤(こうふん)、すなわち公の憤りは、こうした私憤(しふん)から生じるのです」と加えられました。そう、本日のテーマである「公共性・多様性・マイノリティ」へと続くイントロダクションだったのですね。
講義は、Ⅰ市民と国民、市民活動とNGO活動、Ⅱ多様性とマイノリティ、Ⅲ公共性、まとめ、の大きく分けて4つからお話がありました。すべて詳細にレポートしたいところですが、あまりにも盛り沢山になってしまうので、紙面(ウェブ面?)の関係上、ここでは私が個人的に特に印象に残ったお話などを中心にお伝えします(ぜひ受講生のコメントと合わせて、お読みください!)。
一つは、マイノリティのお話です。Ⅱのところで、画一主義・同一主義的な社会(コンフォーミズム)について、そして多様性については地域によっての違いがあるというご説明がありました。例えば、ヨーロッパの場合は、陸続きであるため、国境をまたいで他国へ入ることが頻繁に行われており、そこには多様性が自然的に存在しています。一方、日本のような島国の場合は、単一的民族主義になりやすく、多様性がなかなか浸透しにくい環境にあります。そうしたことから、日本ではドイツで行われているような本格的な移民受け入れを行ってきていない歴史があり、移民受け入れを行っていれば、西洋を超える国になり、もっと受け入れを積極的に行うべきと先生は力説されました。一方で、Ⅰでもお話があったような、先生が在日韓国朝鮮人問題に取り組まれていた70年代に比較すれば、ずいぶん多様性が進んだという実感があるとも。確かに、私たちが物心ついたころには、外国の人をまちの中で見かけることも、一緒に何かするということも、わりあい普通になっていたように思います。では、マイノリティって・・・とイメージをつかもうと頭をめぐらせていたとき、「コンフォーミズムは、民族的には減っても、社会的には強化されているのではないか。」というお話が続きました。すなわち最近では、目立ちたくない、仲間と違いたくない、という思いから仲間と同じ行動をとる同調主義が広まっていて、マイノリティには、ますます住みにくい社会となっているとのこと。現代を生きる私たちにとって、それにはどこか、思い当たる節があるのではないでしょうか? 多数とマイノリティの問題は、民族性のみで話されるべきものではなく、色々な切り口をもつものだというご説明に、今日のテーマの広がりと深みを感じました。

Ⅲの公共性以降は、公(おおやけ)の語をはじめとして、公とは私とは、公共性とはをしきりに考えさせるお話が続きました(「公」という字は、「ハ」の部分が「広く」、「ム」の部分が「自らを囲む」という意味をそれぞれ持ち、合わせて共同性を意味するそうです)。昨年本にもまとめられた「慰安婦」問題を通じ、「公=国=政府=官」というとらわれ方への問題定義(毎日新聞1997年1月26日記事)、影響力の大きいNGOやメディアの「公」としての責任のあり方、企業、そして公共的存在の市民はどうかかわっていくべきか……。政府、NGO、メディアのそれぞれが持つ長所、短所をあげられながら、それぞれの役割を再認識し、役割分担を行った上で取り組まなければならない、というお話でした。
ご存知の通り、この講座は東京大学内外の学生をはじめ、様々な方面でお仕事をされている社会人の方をも数多く含む受講生から成っています。まとめで、先生が「新たな公共性の確立に尽力したい。ただ、あらゆる観念、あらゆる理念に疑念を抱く余地がある。公共性への信念を疑う自分が必要」と話されているのを聞きながら、「多様な」受講生がそれぞれ自らの立場を照らしながら、公共性とのかかわりを考えていたのではなでしょうか。

各自に色々思うところがありながら、グループディスカッションの時間はあっという間で、短い時間内に発言しそびれたという人も多かったように思われます(ぜひ、この受講生コメントの場を使って、発表してくださいね。また、このつたないレポートを補っていただけると幸いです)。質疑応答の時間にも、先生から補足のご説明をいただけるような、核心をついた積極的な発言が沢山見られました。大沼先生の丁寧でやわらかな話され方には、最後までひきつけられました。先生、ありがとうございました。
講座も会を重ねるごとにグループでの親交も徐々に深まって、より活発な意見交換になっていくのではないかと思います。次回は、終了後に懇親会もありますので、ふるってご参加ください。まずは、第2回、お疲れ様でした。
文責・横山梓