2007/07/30

第4回|渡辺裕先生 ピアノと市民文化—図像から読み解く3つの局面—

※事務局より…第4回の渡辺先生の講義では、4人の受講生にレポートを書いていただきました。講義の内容だけでなく、受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、4回に分けて投稿します。
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 前期の締めくくりとなる今回の授業の冒頭では、「市民社会」の表象の曖昧さとともに、一枚岩では語りつくせない実体が指摘され、具体的個別的な展開をひとつにくくらない見方の重要性が強調された。そして、西洋音楽文化の代名詞の位置を占めてきた「ピアノ」と市民文化の関わりを、(1)「ピアノ」文化の発祥ともいえる19世紀のドイツ、(2)両大戦間のアメリカ、(3)そして1920年代の日本という、3つの局面に着目することで、その多面性が鮮やかに明示されることとなった。西洋社会から周辺へと伝播していった「ピアノ」であるが、受け皿となる社会や時代は当然のことながら一様ではなく、それぞれの社会での普及の有り様もまた、均質なものではなかったのである。
 プロのピアニストの大半は男性であるにもかかわらず、なぜ「ピアノ」は女性らしさの象徴として受け止められているのであろうか。その秘密を探るべく、まずは市民の「ピアノ」文化の原点ともいえる、19世紀のドイツに目を向けてみた。産業革命以後、家庭のあり方が大きく変化する中で、それまでは公共の空間で享受されてきた音楽も家庭の中に取り込まれ、当時のドイツでは「家庭音楽」という思想が広まっていた。そして、「ピアノ」も家具の一部として配され、教養の象徴としてブルジョワ階級のアイデンティティの確立に一役買うことになる。しかし、その後いわゆるクラシック音楽が精神的体験として根付くことで、「家庭音楽」は空洞化を免れず、花嫁修業としての音楽教育と、プロを養成する専門的教育に両極化していく。
 このように19世紀のドイツで豊かな文化を育んだ「ピアノ」が、再び注目を浴びることになったのは、両大戦間のアメリカであった。当時のアメリカでは、科学技術の急速な進歩に伴い、次々と新しい家電が発売されていった。そして、それまで家庭に留まっていた女性たちが外へ出るようになり、女性の新しいライフスタイルが模索されるようになった。そのような背景の下、「自動ピアノ」が普及し、「ピアノ」文化も新しい局面を迎えることになる。さらに、「楽器」としての「蓄音機」も登場したことで、次第に音楽は「生産」するものから「消費」するものへと変貌を遂げていったのである。そして最後に、日本における「ピアノ」の受容に目を移してみると、日本の場合は「ピアノ」と「蓄音機」が同時期に流入されたこともあり、たとえば、音楽と裁縫が花嫁修業の一環として取り扱われるなど、やはり独自の発展の道を歩むことになった。
以上のように、同じ「ピアノ」であっても、波及した時代や地域が異なれば、当然のことながら、社会の中で全く別の文化の営みを生み出してきた。今回の講座では、「ピアノ」という切り口で「市民社会」を眺めてみることで、文化を受け容れる社会の多様性を改めて実感させられた。われわれが目指すべき「市民社会」を描く際にも、既存のモデルを模倣するだけではなく、日本の、そして現代の実体に即した「市民社会」の姿を柔軟に創出していく姿勢が求められるであろう。豊富な図版を使った楽しい講義の後に、そんな大切なメッセージが心に刻まれた。
(レポート作成:片多祐子)

第4回|渡辺裕先生(report #2)

 市民社会について確認する前期の最終回は、市民社会とは再生できるものなのかを問う作業であった。つまり、市民社会と思われているものが、本当に一枚岩的に存在するのか、そもそも再生とはなにかを考え直す必要がある、という内容だったと思う。
 第4回目の講師である渡邊裕先生は、ピアノと市民文化という具体例を挙げて、文化というものが重層的に成立したものであることを説明していった。特に、日本のような非西欧圏での西欧化には、様々要因が絡んでいる。複雑なものであるが故に、環境毎に文化が異なっている。だからこそ、地域毎の文化の差を対立させることの無意味さを説いた。
 どの文化が、どの市民が優れているとか、劣っているとか、同じものをそのまま再生するということ自体、ナンセンスなものであるとは理解しているつもりであった。しかしそう主張するためには、文化の背景にまで踏み込む作業をしなくてはならないのに、そういった行為を怠っていたのではないかと思わされた講義だった。
 講義の具体的内容にはいっていこう。
 西欧音楽の雄といえばピアノであるが、何故ピアノがその地位についたのか。そして多くのピアニストは男性であるにもかかわらず、ピアノにまつわる図像には何故女性が多いのか、を読み解く内容であった。
  ピアノは19世紀ドイツ、両大戦間のアメリカ、戦後の日本で流行した。今回はその事実をふまえて、19世紀ドイツと1920年代アメリカ、第二次世界大戦前の日本のピアノにまつわる図像を中心に見ていった。
 19世紀のドイツでは家庭にピアノが普及していった。コンパクトなピアノが製造され、居間に置かれて家具として使われた。産業革命以後、ブルジョワジーが教養を示すために女性とピアノが結びついたのである。その為に、女性のための曲も作られるようになった。こういった曲は華やかだが難しくないものであったという。
 ここで実際に曲を先生は流してくれた(事実、私はここで流された曲の一つを、小学校の頃に習い、弾いた記憶がある。それも華やかだという印象で、弾きたいとピアノの先生に直談判をして教えてもらった。今思うと、まさに術中にはまったのである)。
 つまり、家庭を支える女性とピアノという構図はそれ以前に存在しない。産業革命以後のドイツにて生まれた構図でしかないのである。
 一方で1920年代のアメリカでは、ドイツ同様ピアノは女性と結びついていたが、その様子は異なっていた。アメリカでは家庭的な女性というよりも、モダンな女性像と結びついていた。それは自動演奏機能のついたピアノが流行したことと、同時に蓄音機も入っていったことによる。音楽を消費するスタイルが生まれたのである。アメリカでは簡単にピアノを演奏し、家電で時間を節約して遊ぶ女性像とピアノは結びついた。
 最後に、戦前の日本ではどうだったというと、家庭のステイタスとしてのピアノとして導入された。良家の子女と結びついたものであったことを、住宅の間取り図やピアノ雑誌から確認していった。
 ピアノと女性の結びつきは、当初からあったものではなく、普及と同時に生まれたものであること。女性と言っても結びつく女性のジャンルは、国や時代によりかわることが確認された。それはピアノだけではない。つまりある文化は、他の文化の影響だけを受け入れているのではないということだ。時代の影響も受けるし、それまでの文化的背景も大きく関わっているものなのである。
 今ある文化を、そして今まで生きた文化をどういうようにしたら有効に活用できるのかを考える時、背景を見ていかないと、それは単純な二項対立に陥ってしまう。それを避けるためにも、文化の背景を問い直していく姿勢が重要だということを考えさせられる講義だった。
(レポート作成:松永しのぶ)

第4回|渡辺裕先生(report #4)

 公開講座の前期最終回にあたる本日の渡辺先生の講義は、講座の前期を締めくくるにふさわしい、非常に示唆に富んだ内容だったのではないだろうか。我々が市民社会再生という問題をこれからも引き続き考察していくにあたり、その根本的なところを改めて自覚しなおす必要が、ピアノ文化の諸相という具体的事例を通して私たちに投げかけられたからだ。
 まず冒頭では、市民社会のモデルが西洋近代のそれをグローバルスタンダードとして拡がってきた中で、市民社会は再生できるのか、できないのか、そもそも再生とは何か、ということを私たちは考えなければならないという本講座にとって極めて重要な問題が提示されたように思う。私たちが再生しようとしている「市民社会」というものの表象自体が一枚岩的にあるわけではないことを再認識し、それを一つに括らないで見る見方が今求められていると渡辺先生は指摘した。このことはまさに前回の佐藤健二先生による、再生すべき対象そのものを掴むにあたって流動する枠を設定することで共同体の様々な類型を考えることの有用性があるという指摘と密接にリンクする。市民社会再生をテーマとする以上、何か再生するべきモデルがどこかにあって議論を通じてそれを手探りしていく…という傾向にともすれば陥ってしまう危険性を私たちは常に抱えているわけであり、その意味でこの渡辺先生の指摘は私たちの立脚点をもう一度思い起こさせるものだった。
 そのような問題を考えるために本日とりあげられた事例がピアノ文化である。渡辺先生によれば、私たちは当たり前のようにピアノを西洋音楽の代名詞のように思ってしまいがちであり、ピアノというと何となく女性をイメージしてしまいがちなのだが、そういったピアノの位置づけ自体がなぜそのようなあり方をしてきたのかということ自体を捉えなおす必要があるという。確かに渡辺先生のおっしゃるとおり、私たちはピアノと言えば何となく“若くてハイソな良家のお嬢さま的な女性”が弾くと考えてしまうことの方が圧倒的に多く、ピアノと“金歯のオジサン”を連想する人はなかなかいない。ピアノは女性と結びついて考えられてきたのである。しかし実際プロのピアニストの大半は男性であり、女性の場合は「女流」ピアニストと呼ばれるなど、特殊な存在としてあるという分裂したピアノ状況が現実にはあるようだ。
 次に渡辺先生は国別ピアノ生産量の統計を例に、単に各国でピアノの生産が同じように増えたと見るのではなく、なぜそのような形で増えたのかということの背景が各地域によって異なっており、地域の様々な文化条件やその時のメディアによってピアノ文化は違った展開をしているのであってそれは決して西洋のピアノ文化のコピーではないという本日の講義の基本的な視点を示してくださった。
 ここで渡辺先生によって示された視点は、何となくそうであることが当たり前のようにイメージされてしまっていることについて一体なぜそうなのかという地点にまで立ち戻る必要があること、イメージと違って現実の文化では様々な動きが複雑な展開をしておりそれは決して一枚岩的に動いているわけではないと自覚する必要があることであり、その視点こそ私たちが「市民社会再生—文化の有効性を探る」うえで重要なツールになると思われた。そうして私たちは、日本の近代が単に西洋を模倣してきたわけではないことを自覚し、近代のイメージを見直すためにも西洋の元のイメージがどのように形成されてきたのかということを、西洋と日本のピアノ文化を例にとって辿ろうとする本日の講義が目指す地平に立ったわけである。
 さて、なぜ私たちはピアノと言うと女性をイメージしてしまうのか。西洋や日本におけるピアノ文化の実際はどのようなものであり、これまでピアノはどのように表象されていたのだろうか。そのようなピアノと女性が結びつくイメージが形成された背景は19世紀のドイツのピアノ文化を探ることで見えてくる、ということで私たちは渡辺先生をナビゲーターに当時の具体的なピアノ状況を追いかけていくことになる。
 まず19世紀が家庭に様々なピアノを生み出していた様子について、豊富な図版を用いた説明がされた。紹介された19世紀のピアノたちは今からするとちょっと考えられないようなユニークなものばかりである。例えば「ピラミッドピアノ」などの家庭に置かれる装飾性の高いピアノ、ピアノ内のデッドスペースを戸棚にしてしまった「たんすピアノ」、裁縫箱や化粧台と一体になった「裁縫ピアノ」や「化粧ピアノ」などである。今の感覚からすると不思議に思えるこれらのピアノが私たちに教えてくれるのは、当時ピアノが居間の中で家具として機能していたということと、「裁縫」「化粧」から伺えるように女性的な家事と結びついた形でピアノがつくられてきたということだ。
 そのように家事とピアノが結びついた背景には何があったのか。この時代のドイツではブルジョワの間で「家庭音楽」の思想が広がり、そこでは一種の花嫁修業として女性にピアノが教えられる状況だったという。例として先生は当時の女性のある一日の時間割を紹介した。それによると午前中は手芸に語学に地理歴史、午後から夕飯時にかけては手芸にピアノに習字…と私だったら気が狂ってしまいそうな内容の時間割なのだが、当時はこのようにピアノと家事は並ぶものであり、家庭を担う女性はそういった能力を求められたそうだ。
これには産業革命以後、それまでの家庭内手工業的な労働スタイルの変化と共に家庭のあり方も血縁関係だけで成り立つコミュニティに変わっていく中、男は外に働きに、女は家を守る、というようなブルジョワの新しいライフスタイルが定着していったことが関わっていたようだ。もうひとつは、この頃「教養」がブルジョワの証になるという状況があった。貴族が家系を自らの証とするのに対し、ブルジョワが自分たちを単なる労働者ではないのだということを示すメルクマールになったのが「教養」だったのである。
 つまりこの頃女性がピアノを習うということは単なるアクセサリーなどではなく、良妻賢母的な女性のあり方が前面に出てくるような社会状況下にあって、家庭の教養は女性が担うという位置づけが形成されていく中にピアノが入りこんでいったのだ。
 ではなぜそれはピアノだったのか。ひとつには、女性が弾いて良い/悪い楽器という考えがこの頃並行して出てきたからだそうだ。例えばチェロなどは股に挟んで演奏するスタイルのためか、女性にはふさわしくない楽器とされていたらしい。
 もうひとつの背景には、この頃には教養ある家庭のアイデンティティを外に見せるという面が出てきたことがある。例えば、居間というものがこの時期に家族の団らんと教養ある雰囲気を外に見せるものとして成立したのだが、ピアノもそのように家庭を象徴するものとしてはたらくようになった。ピアノにおける連弾などもそのような家族の象徴として機能していたという。つまり女性らしさの表象が出てくるのと並行して、ピアノは家庭楽器の要として定着していったのだ。思わずニヤリとしてしまうような先生ご自身の微笑ましいピアノ経験を交えながら、19世紀ドイツの家庭におけるピアノの位置づけと女性との結びつきが説明された。
 このような様子は19世紀後半になると変化していく。この時期にはクラシック音楽が精神的な体験、特殊なものになっていき、家庭音楽が空洞化していった。ではこの頃にはどのような音楽がつくられたかというと、プロ向けのレパートリーと女性向けのそれとは別々に考えられていたそうで、「乙女の祈り」に代表されるような女性のための女性らしいレパートリーが開発されていたという。ここで私たちは当時の典型的女性用ピアノ曲を数曲聴いたのだが、確かにベートーベンのジャジャジャジャーンよりは明らかに女性らしい華やかで優美なメロディという印象をうけた。こういった旋律を女性らしいと思ってしまうこと自体も一考するべきなのかもしれないが、これらの曲の女性的な印象は確かに拭えないものであり、このような甘ったるいピアノ曲が女性向けとして爆発的に当時つくられていたというのだから面白い。曲以外には、この頃の楽譜の表紙も女性が前面に出ていたようだ。その時代の西洋に生まれずにすんだことをありがたいと私なんか思ってしまうような西洋のピアノ状況をひととおり駆け足で具体的に辿ったところで、そういったピアノ文化の動きがアメリカや日本に広がっていく様子を次に見ていくことになる。
 まず、ピアノ文化が広がると一口に言っても、地域によって女性の家の中でのあり方や文化の位置づけは全く違うということを確認したうえで、戦前のアメリカにおける雑誌広告を例にピアノがどのように位置づけられていたかを辿った。この頃の広告に登場する女性は家庭的ではなく、新しい家電製品と結びついて女性の新しい生き方がアピールされていた。そしてそのような状況とピアノ文化のあり方も結びついていた。それを示す好例がアメリカで爆発的に流行った自動ピアノである。これは勝手に曲を弾いてくれるピアノであり、そういったものが家庭に入ってくるという状況が戦前のアメリカのピアノ文化にはあったわけである。ピアノを弾く父と子の図像に見られるような団らんイメージを引き継ぎながらも、それまでとは違う新しい女性の生き方のイメージが好んで描かれるようになったのだ。
 これには当時のメディアの変化も関わっていた。レコードがなかった19世紀ヨーロッパではピアノを実際に弾くという音楽実践しかあり得なかったのだが、レコード登場以後は買ってきて消費するという変化の中でピアノ文化は広がっていった。家庭のことには手間をかけないで外へ出て行こうという新しい女性のライフスタイルの流れの上に自動ピアノは乗っていた。ピアノが自動ピアノへ、さらには蓄音機へ、と音楽のあり方が生産型から消費型に変わっていくことと女性のあり方の変化は同時に動いていたようである。どういう時期に、どのように拡がるのかによって同じ「ピアノ文化」と言っても背景が全然違うということが具体的に示されたわけである。
 では日本のピアノ文化はどうだったのか。戦前には家庭のステータスと結びついてピアノが普及した。例えば当時のある雑誌にはピアノについて「令嬢音楽」と書かれていたり、昭和4年当時のモデル住宅の図面や写真を見ると居間にピアノが置かれていたなど、文化住宅や文化村などがつくられていたこの頃にはピアノも前面に出され招聘されていたのである。また当時の広告からは音楽学校と裁縫学校がひとつになっていた様子も見てとれ、そのような位置づけ方にはドイツの音楽文化のあり方が入ってきたという面もあった。しかし日本の場合が西洋と違うのはピアノと蓄音機が同時に入ってきたことであり、文化的な生活と言う時はピアノよりも蓄音機であり、そのように西洋でのプロセスを省略する形で家庭に音楽が入っていったというのが実状だった。そのためか戦後の高度成長時代にはあまり家庭音楽という形でピアノは根づかなかったらしい。
 このように辿ってみると日本には日本なりの背景のもとにピアノ文化が根づいていったことが理解できるのであり、それは西洋には近代の奥行きがあるけれども日本には近代がないということではない。渡辺先生が言うように、どういう時期にどのような形で入ってくるのかということによって文化はいろいろな形に成り得るのであり、日本はドイツと同じピアノ文化の形になる状況ではなかったのである。したがってそれはどちらが文化的に高級であるという問題などではなく多様性の問題なのだ。
 最後に、渡辺先生はそのような問題の捉え方をもう一度「市民社会」の問題にリンクさせてまとめとしてくれた。「市民社会」はヨーロッパに型があってそれが今崩れているというような二分法で捉えるべきではなく、市民社会も日本には日本なりの市民社会があり日本なりの根づき方があるのだと。どうしたら生きた文化を有効につくっていけるのか、様々な要素を勘案しながら考えていく姿勢が求められるのだと。
 私たちはこれからどのような市民社会の再生に向かうのだろうか。「市民社会」や「文化」について多面的な見方で捉えることの重要性を、誰もが知っているボピュラーな楽器・しかしそれが帯びてきた文化状況を見ると実は非常に奥の深い楽器:ピアノという素材を通して提示して下さった本日の渡辺先生の講義は、私たちに改めて市民社会再生という問題の根源を自覚させてくれるものだったように思う。本日の講義で得られた視点を「市民社会」「再生」「文化」の問題領域において有効に活用していけるか否か、そこから先は私たち次第である。
(レポート作成:川瀬さゆり)

2007/07/25

後期ゲスト講師大谷燠氏の活動に関わるニュース紹介

こんにちは。
運営委員の曽田です。

後期の第7回講義(12月21日)のゲスト講師である大谷燠さんが中心的に関わっている大阪・新世界の「新世界アーツパーク事業」に関するニュースが報じられましたので、皆さんにご紹介しておきます。

産経新聞の7月20日付のネット記事
「大阪・フェスティバルゲート破綻 芸術系NPO行き場なく 」
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070720/bnk070720005.htm

「新世界アーツパーク事業」が行われていた都市型遊園地「フェスティバルゲート」が経営破綻したことにより、同施設にテナントとして入居し活動してきたアートNPOを移転を余儀なくされている、という状況です。
移転先を市が斡旋するという話があったのですが、それが難航しているとのことで、今後の動向が気がかりです。

2007/07/21

前期が終わったばかりの時点での個人的感想

運営委員の曽田です。
皆さん、昨日はお疲れ様でした。

なんだか、あっという間に前期の4回が終了した気がします。

4回の講義を通じて、市民も、市民社会も、文化も、非常に重層的なものであり、それを一面的にとらえることは間違いなのだ、ということに気づかされました。

考えてみれば、それは当たり前とも思えることなのですが、こうした当たり前の思考や議論のステップを誰もが普段は省略してしまいたがっているし、そのことに無自覚である、という点は常に心しておかなければならないことだと思いました。

また、講義終了後の懇親会では、出席者の皆さんの多様なバックグラウンド(立場、所属、経歴)に驚くとともに、皆さんの強い期待と意欲が感じられて心強く感じました。

皆さんからも、ぜひ自由な感想をお寄せください。

2007/07/08

第3回講義の短い感想を書いてみました

公開講座運営委員の曽田です。
講座も第3回を終えて、だんだんとペースがつかめてきたのではないでしょうか。
佐藤健二先生が、第1回、第2回の高山先生、熊野先生の講義内容を踏まえてお話してくださったので、市民または市民社会を問うということがどういうことか、より多面的に、あるいはより構築的に考えることができるようになったと思います。
「市民」も「市民社会」もその内実は多様であること。そして、その内実を決めているのは、それを承認するグループが誰を(どこまでを)含むのかによって決定されるのだ、という指摘があったと思います。ひとつの言葉を平板にとらえて議論を進めることの不適切さを気づかされ、大いに納得しました。今後、このことを常に頭の中においておこうと思います。

皆さんも、個別の感想、意見、要望などを、このブログにどんどん投稿してください。お待ちしています。

2007/07/06

第3回|佐藤健二先生 「市民+社会+文化+再生」の糸口と結び目を探る

 ここまでの講義で何度もでてきた「市民」。しかしまだ「市民」の実態が明確な形で立ち現れてこない。佐藤先生は講義の最初に「市民」がわからないという自覚が出発点だとおっしゃってくれた。まずは再生すべき対象そのものを掴む必要があると。
 最初にここまでの2回の講義を軽く振り返ったあと、「市民+社会」というカテゴリーの現代日本的な特質ということで、平田清明が「市民社会」を外来の抽象概念だとしたことを指摘した。この言葉には宙に浮いた、実態がないためにユートピア的な形で成立してしまうこともあるようだ。

 まずは(1)政治参加として、これが市民という言葉の核であり、政治システムへの主体参加を市民に一つの行動の形として挙げられた。特に戦後、市民の主体性が市民運動のような形で主張されていた。その背景には、国家と市民、社会の対立構造があり、戦時だけでなく平時をもふくめた国家の力に市民が注目したということがあり、それが厭戦思想と結びついたとも考えられるようだ。また“文化政策”や“資源”という言葉が登場したのも、総動員体制から生まれたものである。国家という大きなシステムからどうやって市民の側に自発的に引き離すかということが、市民の関心になってきたといえる。
 次に(2)個人の確立。「市民」という言葉は共同体の解体と個人の自立という過程に結び付けられ、イエ・ムラというような共同体のリアリティが弱体することで、「市民」という言葉自体がイデオロギー化してしまったことを先生は指摘した。このような議論の際には、共同体の「解体」は唱えられても、「形成」はほとんど唱えられない。特に70年代には近代主義への批判として共同体の解体だけが唱えられ、「市民」に議論が集中し、「社会」について考えることが背後に追いやられてしまった。そこで、societyということばが明治でどう訳すかという問題になったことを紹介された。この時代には二つの言葉を合わせて、一つの言葉を作るという手法が取り入れられ、漢字を用いて新しい概念を作るということで、言葉の力が特に重要視されていたようである。「社会」という言葉は、かつてなかった公共性をどう言葉でつかまえるか?というような理解を通じての構築に基づいていたようである。
 (3)として都市とも結びつきについて。明治前期にはまだ「市民」という言葉は不安定であり、政府による大規模な政策によって新しい「市」という行政区分が誕生したのであった。しかしその新しい枠組みは、寄せ集めのものであり共同体単位の枠組みとはずれたものだった。その「市」という枠組みが認識されるが遅れ、頼りない言葉になってしまったという。大正デモクラシーにおいては「群集」という運動の認識が存在し、70年代からの社会史の研究の中でも改めて注目される。今一度「群集」の実態に即した問題を問うべきだと先生は指摘した。例えば普通選挙の無記名投票における匿名性が、自由や個人の権利を保障したように、現代のインターネットの普及に関しても匿名的、無定形な新しい形の「群集」を見出すことも可能なのである。
 (4)として主体性の重視について。日本においては主体性の議論に傾きがちであり、ただ自立し批判的でありさえすれば、「市民社会」が立ち現れると簡単に考えてはいなかったかということが指摘された。「市民」という概念と「市民社会」という概念をぴったり寄り添わせるのではなく一度切り離す試みが、「市民」という言葉が理念化、イデオロギー化してしまい、具体的・実質に届かないというような状態から免れられるのである。70年代から、公害問題などにおいて「住民」が登場してきた。90年代にはNPOやボランティアが注目されるようになった。このような時代の流れの中で、イデオロギーとしての「市民」が、より具体的、実質的な市民のイメージに重なっていくのである。

 これまでの現代日本における「市民+社会」をみてきたことを踏まえ、それをどう組み立てなおせばいいのだろうか。佐藤先生は「公」と「私」の二項対立を避けるためにその間に「共」を入れて考えれるべきだとして、その3つの概念を組み合わせ、重なる部分を動かしながら様々な類型を考えることの有用性を、黒板にベン図を書いて示した。現在がどういう状況で、どのような状況が望ましいのか、それを考えることは私たちに委ねられていて、この流動的な「動く」枠を設定することで、共同体の再建を考える必要性を指摘された。そうすることで、国家という枠だけでなく、具体的な厚みをもって社会を捉えられるのではないだろうか。次に、政治システム・経済システム・文化システムという類型について、自発的にこの類型に分けて考える必要性を指摘された。政治と文化のシステムとして読み替える力を文化システムが持つべきだという。また「文化」という言葉が、その意味付けや主体性の分析に傾きがちであることを指摘された。概念的な話ではなく、もっとモノのつながりとして文化をつなげるというシステムと捉える視点も必要ではないだろうか。例えば「文化資源」という言葉には「資源」という言葉が入っているが、その嫌われがちな「資源」という言葉を、欠乏という意識が入っていて資源化する主体を必要とするものだと捉えなおすこと、また「資源」という言葉を使う有用性を自覚することが重要であるようだ。

 まとめとして柳田国男の視点が紹介された。柳田は丸山とは違う戦後の受け取り方をし、民主主義を発言するものだけが発言するという状況だったら、かえってそこに不平等が生じてしまうこと、また国語の教育の重要性を説いた。明治の初めにあったような形のないものをいかに言葉に直すかというときの近代日本語の問題は、動詞が少なかったり行政が言葉を作り、多層的な意味をもった言葉が生まれてしまうことだった。その結果多くの人がモノを思うようにいえず、感じる言葉を話す言葉なないという病に陥ってしまった。そしてそれは戦争がいつのまにか導かれた要因の一つともいえる。柳田はそこで、国語を豊かにすること、考えの手助けをする言葉を「作る」必要性を指摘したのである。ただ考えを発信するだけではなく、聞く側の言葉を味わい分けることも重要であり、それが衰弱化してしまっているのが現代の実情である。微妙なニュアンスを感知感受する力を私たちは養っていかなければいけない。

 最後に問いの共有ということで、「学問」という言葉について考えた。まずは「学」の本質である思考の仕方を学ぶ能力の重要性、そして「問」という言葉に含まれる「答えの共有」と「問いの共有」という二つに側面について指摘された。先生は前者のように自由を求めて一つの解を求めるというような社会の姿勢よりも、複数の解を前提としてそれを共存させる自由こそ、「共」を作る上で重要だという。複数の答えというのは確かに弱い側面もあるが、同じものを別の言葉で捉えるというコミュニケーションの動きによって、そこにさらに柔軟な、しかし強固な「共」が生まれる。今回の講座において市民を「問う」ことの重要性というのも、まさにここで指摘されたようなその人その人自身の言葉によって考えること、それをコミュニケーションによって相手に伝えて共存されることにある。ただ一つの絶対解を探すのではなく、多くの人の意見を共有すること。まさに今回の講座はそのような機会を生む絶好のチャンスのように思えた。
(レポート作成:小野田 真実)