2007/11/30

第9回|加藤種男氏+ニコル・クーリジ・ルーマニエール先生

※事務局より…後期から、受講生に書いてもらっている講義のご感想やご意見を1人の有志の受講生が編集して、それをニューズレターとして次回の授業に配布しています。
======
前回の講義では文化に対して企業という立場からご活躍なさっている加藤さんの情熱的なお話が聞けました。アサヒビールの企業メセナの活動から加藤さん独自のアート論までたくさんのおもしろい話が聞けました。「アサヒビールの加藤種男さん」だけではなく「1人の人間加藤種男さん」としてもお話をしてくださり、大変盛り上がった展開となりました。ただもう少し企業メセナ活動について詳しいお話を聞きたかったなという意見も多数ありました。
「メセナ」と時代の変遷を改めて考えることができました。時代の先端を行き過ぎると、社会に受け入れられることができないということを、今当たり前に思っていることを引き合いに出されながら説明されて分かり易い講義でした。

講義の前半はアサヒビールが企業メセナ活動を行うメリットや、メセナがどのようにアートに関わって支援しているかなど非常にわかりやすく説明をしていただき、あまりメセナ活動に詳しくなかった自分にもわかりやすいお話でした。私が特におもしろいなと思ったのは前回の並河さんもそのようなお話をなさっていたのですが、両人とも何らかの先見の目があったということです。やはりアート界で活躍するには、何らかの先見の目が必要なのかなとお話を聞きながら感じました。

「お金がない」のは「持ってくる力がない」という言葉にどきっとしました。

アート活動を行う上でやはり経済的な問題は見逃せません。これまで後期の講義で、ゲストに対する質問の中でも経済的な質問が多かったような気がします。しかし、加藤さんのお話を聞いていて、1つ1つの言葉に決意のような強い何かを感じました。「お金がない」のではなく「持ってくる」。現場で活動されている加藤さんだからこそ言える台詞だと思いました。

とても興味深いお話を伺うことができました。ありがとうございます。芸術・「アート」への日常的な接し方はあったはずで、今も残っている感覚としては挙げることができるはずのものだったと思います。それに目をむけさせることができる仕組みが求められているのかもしれず、その仕組みもアートとされるのかもしれません。でも、それはマネージメントとは異なるということですよね。私がぐちゃぐちゃと考えていることが、整理されて提示していただけたような講義でした。企業からの視点が強いのかと思っていましたが、とても嬉しい講義でした。

企業の組織に属していてアートに関わっている人に対してある種の偏見をこれまで私は抱いていましたが、加藤さんのエネルギッシュで情熱的なアートに対するお話を聞くといかにアートに対して深い愛情を注いでいるかというのがわかりました。講義の後半で仰られていた「アートリテラシー」を復活させ社会に変革を与えたいという言葉には「アート」の社会の中で果たす役割の重要性を感じました。アートを人の日常に結びつけたい。人が生きる日常の中でアートを感じるためにはある「きっかけ」が必要なのだと思います。私はこれからその「きっかけ」が今以上に増えている社会がつくれたらいいなと思いながらお話を聞いていました。

前回の並河さんと今回の加藤さんはアートを支える側の人のお話しでした。アートに対する関わり方はいろいろあるのだなと感じました。ただお2人の立場は違うけれど、目標にしていることは似ているなという印象を持ちました。アートを生きる日常の中で感じてほしい。その願いは徐々に達成されているように思います。お2人に共通するアートに対する「情熱」。これは第一線で活動するためには必要不可欠な思いですよね。
(コメント編集:藤原旅人)

2007/11/16

第8回|並河恵美子氏+村田真氏

並河さんは、やわらかな雰囲気を纏った、とても素敵な女性である。穏やかな口調で淡々と、お父様から継いだ銀座のルナミ画廊からアートNPOに「行き着いてしまう」までを語ってくださった。
アーティストにとって、自由な表現が可能になる“場所”は重要だ。ホスト講師の村田真さんは、無審査自由出品の展覧会として前衛的な表現活動の場を提供していた読売アンデパンダン展が、過激化していく表現を支えきれずに1963年に終了してしまった後、場所を失った若い作家たちの活動を支えたのが、60年代に増加した貸し画廊だったのではないか、という。日本の、特に銀座の貸し画廊は、自由な場所の提供以上の作家のサポートもやってきた。ルナミ画廊の場合は誰にでも貸すわけではなく、face to faceの関係を大切にして、「アーティストと一緒にやる」という心意気で人を選んでいた。
特に若い人が発表する場所である貸し画廊は、まさに日本の新しい文化が生まれてくるところだ。そこにもっと栄養を与えてほしい。並河さんは、画廊同士が組んで仕掛ける活動にも取り組んだ。企業や行政、いろんなところに支援を働きかけたが、縦割り構造の中で、芸術支援にお金を集めるのは大変だった。90年代になってメセナを意識した企業が文化部を設置したときは、話を聞いてくれる部署ができただけで嬉しかったそうだ。
1998年、並河さんは、35年続いたルナミ画廊を閉じる。専門化しすぎた現代美術の動向に対する閉塞感を感じ、画廊でできることは全てやった、離れないと前に進めないと思ったそうだ。その後地域に出て行くアート活動に取り組み、2002年にARDAを設立する。杉並区の高齢者施設を中心に、アート・デリバリー、アーティストの協力を得て地域にアートをもっていく活動を行っている。
こうした活動を並河さんは、「そうしなくちゃいけないからやってきた」と、いたって淡々と話す。並河さんの歩いてきた道程は、日本におけるアートと社会とのかかわり方の変遷そのものだと思うのだけれど、おそらく当の並河さんは「何かおかしいな」と思い、「こうしたらもっとよくなるかな」と思い、そのために必要だと判断したことを淡々と実践していった結果、アートNPOに「行き着いてしまった」のだと思う。人の心を動かし社会を変えるのは特別なことではなくて、問題意識を忘れずに淡々と行われる実践の積み重ねだろう。その原動力は何かという質問に対して並河さんは、「好奇心、あと人に話すこと。話すと、実現させなきゃと思って、自分に対する責任が生まれるから」と答えていた。並河さんの問題意識の鋭さと芯の強さが垣間見えた気がした。
もう1つ印象に残ったのは、画廊という枠の中では、極端な話「反芸術」を掲げてさえも「アート」と規定できるけれど、枠をとりはらって画廊の外に出たら今度は何をやってもアートと見なされない、そういう「アートレスな社会」のジレンマをどう考えるか、という村田さんの問いかけに対し、並河さんが、「そこに問題は感じない」と言い切ったことだった。画廊においては専らアート=作品だったけれど、並河さんにとってアートとは、作品とその解釈に留まるものではなく、プロセスや行為を通して「誰もが心の底に持っているものをひらいていくこと」だからだ。「人の心をひらくのがアートで、それができるのがアーティスト」で、「枠を取り払うと、アートの解釈ではなくて、人とつながれるアーティストの才能が問われる」、「自分が何を伝えたいかが問われて、ある意味アーティストがすごく試される」。淡々と、けれどもしっかりそう言い切った並河さんは、60年代以降の貸し画廊という新しい文化が生まれてくる場所で、アーティストと一緒に日々がんばってきた人だった。アートという枠に留まらないアーティストという人間の可能性を信じているから、画廊という枠を飛び出してアートNPOに行き着いたのかもしれない。
(レポート作成:中村美帆)

2007/11/02

第7回|宮城聰氏+伊藤裕夫先生(report #2)

今回の講義では(財)静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center : SPAC)の内情や宮城聡さんの演劇論が聞けるのではという期待で望んだ。講義の内容は宮城さんがSPACの芸術総監督を引き受けた理由や、これからSPACでどのような活動を行いたいか、あるいは芸術総監督として半年間活動してきたことへの振り返りなど面白い話をたくさん聞けることができた。
その中でも注目する部分は、伊藤先生も触れられていたが「静岡県民とどのような文化を創っていくのか」という部分だと思う。SPACは公共的でもあり、プライベートな劇団でもある日本では珍しい特殊な劇団だ。宮城さんも目標に上げていた「世界レベルの作品」を創ることは第一に達成しなければいけない目標だろう。しかしその第一の目標を達成した上で、さらに公共的でもある劇団なのでその意味を劇団の活動において意味づけることのできなければ「公共的」である意味がなくなってしまう。この部分はなかなか難しい部分だと感じた。作品を創り上げることで静岡県民に何をもたらすことができるか、またその作品によって静岡市民がどう変わっていくのかいう部分は、これからのSPACの活動の核となる部分ではないかと感じた。
また宮城さんはSPACの芸術総監督を引き受けた理由の1つとして、「わざわざ演劇を見にくる人々」ではなく、むしろ「演劇にあまり興味のない人々」に自分の作品を見せることによって、生きる意味や生きているという実感を感じてほしいからだとも仰っていた。この部分に宮城さん独自の演劇に対する考え方が感じられた。今の日本は安定した社会である。安定した社会であるが故に自分の生きている意味や生きる目標を見出せることは、自分で能動的に努力して見つけなければならない。また安定した社会を生きているから私達は一昔前の人と比べて、想像力に乏しく世界が小さい。その部分で演劇を通して現実では感じることのできない想像の中の世界を擬似体験することによって自分の想像を広げ世界を大きくしてほしいという考えなのだ。かつての演劇はその共同体の共有意識の確認を持つことが役割で、宗教的要素も含んでいた。しかし、今日の演劇において役割が逆で、演劇を見ることによって想像しえない世界や自分とは違う生き方を感じて、この世界に存在する多様さを確認する役割を担っている。
宮城さんの演劇論は演劇が今の時代の人々にどのような方法で、またどのような影響を与えるのかということが明確に定められており、今の社会に適応した演劇論だと感じた。芸術総監督に就任して半年でありまだまだ戸惑いも少し感じられたが、これからの宮城さんのSPAC芸術総監督としての活動に期待したいと思う。
(レポート作成:藤原旅人)

第7回|宮城聰氏+伊藤裕夫先生

※事務局より…第7回の講義も、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
======
現代の舞台は違いを確認する場所である。多様性を表出する場所としての舞台、多様性を確認する場所として劇場がある。その多様性とは表面にあるものではなく、「のぞきこむ」ことで見えてくる。今回の講義で、もっとも印象に残ったことであり、宮城さんが繰り返し何度も語っていたことのように思う。
役者の個性を見出す方法という話があった。何人もの役者を舞台にあげる。そこでそれぞれの違いをどのように表現するか。「私服で来てください」という。すると皆がばらばらの服でやってくる。みんなが「違う」服装であることが一目でわかる。いっぽうで、一様に同じ燕尾服を着て並んでもらう。すると「同じ」服装であるからこそ、その人の持っている違いが、逆に表出してくることとなる。むしろ多様性とは、私服から「見える」多様さではなく、みんな同じ服装のとき、「のぞきこむ」ことではじめて見えてくるようなものではないだろうか。具体的なイメージを喚起されるこの例は、とても印象深く残った。
ここで、ふと思い浮かんだのは、就職試験のことである。面接であったり、説明会であったり、会場へ行くとみんな同じようなスーツを着て並んでいる。その光景を見るたびに「みんな同じで気持ちが悪い」という抵抗を感じていた。一言でいってしまえば多様性がないことへの違和感だ。しかし、もしかしたらそこに「同じ基準に並べられるからこそ分かってくることがある」という宮城さん的な戦略があったのだろうか。と、深読みしてしまうが、試験官はしたことがないので、はたしてそこまで「のぞきこんで」判断しているかは分からない(おそらくないと思うけれど)。が、ここには多様性をのぞきこまれることの怖さがあるようにも思う。つまり、のぞきこんだら、多様性がなかったということ。ならべると、かならず多様なものが見えてくると宮城さんは言っていたが、そんな悲観的なことを考えてしまう。就職試験の会場で感じた違和感は、「見えた」ものだったのか、「のぞきこんだ」末に見えたものだったのか。どうしても後者であったという不安をぬぐいさることができない。
このように多様性という言葉は宮城さんの講義で2つの意味を持っていた。見える多様性とのぞきこむ多様性。のぞきこむことで見つかる多様性とは、前者に比べて「のぞきこむ」という行為を超えてくるような強さをもった多様性ともいえるかもしれない。宮城さんの話は、うんうん、と何度もうなづきながら、そうだよねぇ、と共感しながら聞くことができた。しかし、よく考えて、とても怖い問いを突きつけられていることに気がついた。横並びにされて「のぞきこまれた」とき、あなたは多様な存在でいられますか、と。
宮城さんの話のような多様性を保持した社会は自分にとって理想の社会像であった。だが個人の問題として捉えなおし、自らの経験から周りを眺めたとき、そこに落差を感じざるをえない。しかし、このように落差を意識できたことが今回の講義ではとても重要なことだったと思う。理想像を確認することができ、そこへの落差も再確認することができた。これからは落差の隙間に落ちないように、それを意識しつつ、どのように埋めていくのか、少ないながらも一歩を踏み出していくことを考えていけばいいからだ。少なくとも、宮城さんも含め、後期の講義を通じてのゲストのみなさんは、そのように思い描く社会をもって、落差を意識しつつも、実践をしているからこそ、魅力的であったように思う。
(レポート作成:佐藤李青)