2007/06/22

第2回|熊野純彦先生 丸山眞男の軌跡をめぐって

 なぜ今「市民」を問い直すのか。この問題は最近の「丸山ブーム」と連動しており、丸山眞男の痕跡をもう一度問い直すことは「市民」を今一度問い直すためにも大きな意味がある、という熊野先生のテーマ設定はとても新鮮なものだった。丸山眞男という思想家であり政治学者は、戦後の日本において、一貫して「市民」への問いかけを行ってきた。政治が動くその背景にある、「市民」による政治的決定を見つめ、考え続けてきたのである。丸山自身が、日本の政治文化について、規範の継承を行わずに、ただ流れていってしまう文化であり「無構造」であると言及したことを考えると、丸山の論をただ流してしまうことは、彼の指摘をまた繰り返すことになってしまう。このことを念頭におきながら、いまこそ丸山自身の文章に直接触れることで、「市民」について再考するべきであるということを改めて思わされた。

 まずは「近代」という表題で、丸山が日本のナショナリズムにはethnicな土地や血のつながりによる愛国心はあるものの、civicな、一般投票をメタファーとした政治的正当性に基づく愛国心の欠如が問題であると指摘をしたことに焦点が当てられた。そして丸山にとっての「市民」が、「ある」というような「存在、状態」ではなく、「する」という「行為する主体」としての「市民」であるという一貫した主張を、原文に沿って私たちは追うことになる。政治においては「ある」という存在・状態の原理が支配しがちであるが、「する」を貫徹することで政治と文化の不幸な二分化を防ぐことができるという主張であった。これはまさに「する」の主体である私たち「市民」への一つの提唱なのではないだろうか。しかし丸山はまた、日本の政治決定が自然のうちにあり、自然によって犯されていると指摘する。丸山にとっての近代とは、自然的思考を切断することだった。つまり、「市民」に自然過程の切断を求めたのにも関わらず、それが実現されないことにもどかしさ、また絶望をも丸山は感じていたのである。

 次の「日本」の表題において、丸山が日本社会を巨大な無責任の体系だとしたことが指摘される。日本人の中には価値の中心に正統性を自己言及的に保障する天皇が存在したことで、逆にその威光が言い訳や個人の弱さにもつながっているとしたのである。確かに政治的な決定において、そのポイント、論点と主体がはっきりしないまま、事後的にずるずる決定してしまうという状況は、現在の政治決定においても残存しているのである。このような決定から「ずるずると」戦争にいたってしまったことが日本の反省であるはずなのに、戦後、私たち「市民」は何も変わっていないのだろうかと、とても耳に痛い指摘であった。また丸山が日本人の「自愛」が強いことを指摘したことも言及される。過去のもの、思い出に足をとられてしまうような無構造を、私たちは未だに超えられていないのだろうか。

 次の「転回」という表題においては、丸山自身の立場の転向について述べられた。日本の欠陥や病理を指摘し続けた丸山は、半分は正当で半分は間違いであり、前向きな中に後ろ向きな姿勢があり、後ろ向きの中に前向きな姿勢があるというのが熊野先生の指摘だった。丸山自身も60年代以降、思考を転向することによって自由な立場に自分の身をおくことができたのである。丸山は近世の武士道から強い主体の芽生えとして、それを引き継ぐことによる可能性を説く。また自然観、歴史観として日本人の中に行き続ける「おのずからなる自然」という意識を指摘する。彼によると天皇が倒れること以外に日本人の自立は足りえないのである。また丸山は60年代後半からの左翼運動に際して、より絶望を感じるようになる。しかしそのような絶望の中でも日本人による「決定」へ断続的に問いかけを行ってきたということこそ、丸山の強さを感じさせられた。

 最後に、丸山眞男の市民像へのポジティブな示唆として、政治への「いやいやながら」のはたらきかけを勧めていることが指摘された。丸山は「市民」の名が一人歩きすることで、地道な生活に基礎をおかないまま運動に走る「市民主義」には嫌悪を示した。論としては華やかなものではないものの、このような社会のすみずみからのゆっくりとした政治参加こそ、丸山が経験の中でポジティブに「市民」を肯定し、また私たち「市民」が実現できる可能性のある、現実に即した形であるように感じられた。今回の講義において一貫して感じられたのは、絶望をしつつも、わずかな希望を見出そうと根気強く「市民」の決定について見つめ続ける丸山の力強い姿だった。丸山のような学者の立場でなくても、「市民」として、またその主体であるからこそ、自分たちがどう政治決定にはたらきかけるか、また社会においてどういうポジションに身をおくかもう一度再考する必要があり、そんな一市民としての丸山の「市民」像を見つめ、考え続ける姿勢こそ、私たちが模範とすべきであり、今回の講義で丸山眞男という人物を追っていた理由は、そのことに自分で気づくというところにあったのではないだろうか。
(レポート作成:小野田 真実)

2007/06/08

第1回|高山博先生 グローバル化と個人

 第一回目の公開講座では、冒頭、木下直之先生により趣旨説明があった。文化資源学研究室の向かいにある一大教室は、研究室に所属する学生にとって「ホームグラウンド」のような場所である。そこで授業を行う木下先生にとっても同様の場所である。公開講座では、自分たちだけではなく、研究室の外から参加する受講生にとっても、この一大教室が「ホームグラウンド」のような気持ちになれる場所になってほしい。隔週金曜日に「帰ってくる場所」になってほしい。そのため受講生がただ講義を受けるだけではなく、受講生とインタラクティブな関係をつくることで共に公開講座とつくっていきたい、という姿勢が示された。

 趣旨説明の後、第一回の講師である高山博先生の講義が始められた。まず、古代ローマから現在へとつながるヨーロッパでの市民概念の変化が時代ごとに整理された。日本語にある「市民」と、ヨーロッパで発達してきた「市民」という概念を対応させるためである。古代ギリシアにおいて市民は参政権をもつごく限られた人々を指していた。やがて古代ローマでは帝国の一員としての権利という現在の国籍に近い概念となった。さらに中世においては租税を払う能力によって商人といった富裕な人々も含まれていく。このように高山先生の説明を通じて日本語の「市民」という一語に含まれている複数の意味が明らかにされた。
 
 次に、本題でもある「グローバル化と個人」について。グローバル化は私たちの生活が大きく変化する歴史的な分水嶺となるという。国境を越えて、モノ・情報・資本は自由に行き来しはじめている。現在はアメリカやヨーロッパ、日本を中心としている。しかし、その領域は拡大していき、さらに領域相互の関係はどんどん緊密化していく。制度の平準化とともに、地域による機能分化が生まれていく。このような全体でのシステムの再編は細部へのチャンスも生んでいく。たとえば海外の街並みを模倣した街よりも、江戸時代から残された街並みのある街へ、突然に、世界中から観光客が集まってくることも起こりうる。制度の平準化は誰もが機会へアクセスするチャンスを拡大していく。

 一方で、グローバル化は従来の均一化とは違い、生活水準の格差の拡大も伴い、進行していく。また機能分化はより幅広い地域での役割分担であり、そこでは独立し、完結した主権国家という前提はなくなっていく。工場や資本だけでなく、人材もまた国境を越えて流動していく。国単位の社会機能は低下していく。外部遮断も不可能となっていく。そのため市場といった非国家セクターが巨大な力をもち、大きな影響力を及ぼしていく。
しかし、国家が弱体化していることはかならずしも国家が不要になることを意味しない。グローバル化は無法地帯へと向かう危険性、相互依存の高まりはネットワークが機能しなくなったときの危険性を孕んでいる。無秩序の市場と弱体化する国家、地理的な制約を越えた相互依存の高まりとその危険性。このような状況の中で何らかの強制力のある組織がなければならない。現在は主権国家から次のシステムへの過渡期とみることができる。

 このような社会の急速な変化のなかで個人の潜在的な行動範囲は拡大していく。交通網の発達は活動域を拡大した。個人の行動は、時間ごとの分化だけでなく、機能や地域による分化へとつながっていく。このような変化は人々に新たな結びつきを生む。たとえば非常に狭い関心の趣味をもつ人々がインターネットを介して新たなコミュニティを形成することも可能となっている。そこでは個人にとって細分化された仮想の世界が生まれていく。個人は仮想の社会と実体験するものの違いのなかで生活していくことになる。このようにして細分化された人格の結びつきにおいては、個人の特定の側面だけがクローズアップされていく。細分化は人格を統御することの難しさをも生んでいく。
 中世のフランスでは王国の大部分は領主による統治がなされていた。森に囲まれた集落はそれぞれが孤立し、存在していた。99%以上が農民であり、自然に合わせた生活を送っていた。特定の時間に特定の事柄を行う。このような農村の生活では人格の全体でのコミュニティが形成されていた。
 
 以上が講義の内容であったが、最後に、高山先生によって鮮やかに描き出された中世の風景は、グローバル化した現在の社会の理想像ではなく、むしろ現在の社会を中世の社会と対比することでより、はっきりと現在の社会の状況を明らかにするものではなかっただろうか。それは前半の市民という言葉と概念の整理も同様である。何気なく過ごしている普段の生活や、その中で使われる「市民」という言葉。それらを大きな歴史の流れや抽象的な概念のなかから見直したとき、新たな視点から現在を問い直すことができた。

 だからこそ今回の講義において残念だったのは、それぞれの意見を交わし、議論する場がなかったことだろう。それぞれの参加者が「市民」や「文化」という言葉を改めて問い返し、それぞれに過ごす生活のレベルで問い直す。そのとき思い描くことは個々人によって違っていたはずである。特に講義後半では先生の社会の捉え方も明らかにされていたようにも思う。そのため先生もまたひとりの個人として議論に参加していくことも可能であったかもしれない。そして、そのようにして議論する作業は、インタラクティブな場をつくることであり、また同時に「市民社会」のあるべき姿を構想していくことへもつながっていくのではないだろうか。
(レポート作成:佐藤李青)

初回講義が開催されました

昨日、高山博先生による「グローバル化と個人」というテーマの初回講義が開催されました。この長丁場の公開講座が無事に幕を開けられたことに、運営委員メンバーは胸を撫で下ろしております。昨日も申し上げましたが、講義内容のレポートを間もなくアップロードします。しばらくお待ちください。
なお、昨日の受講生のみなさんからのコメントシートに数多く見られたのが、質疑応答の時間を設けることや「インタラクティブな講義」に対する要望でした。初回の講義ということもあり、講座全体の趣旨説明や事務連絡の時間を想定していたため、質疑応答の時間を設けられませんでした。次回から、何らかの形で受講生のみなさんからの発言や質問をクロスさせる仕掛けを用意しておきます。
なお、コメントシートで数多くの方から運営協力ボランティアに名乗り上げていただきました。ありがとうございます。改めてこちらからメールにてご連絡したいと思いますので、よろしくお願いします。また、昨日の講座運営にご協力いただいたボランティアのみなさん、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

コメントの投稿について

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双方向で活発なディスカッションが展開されることを大いに期待しています。

受講生の全体像を紹介します

この公開講座、すでに事前の登録を終了しておりますが、実は運営委員会事務局が当初想定していた参加者数を大幅に上回る申し込みをいただいております。その受講生の全体像をお伝えしておきます。

受講登録数は全体を100%として、
         通年受講…86%
         各回受講…14%

また、受講者の属性は
           学生…47%
アート活動を行う個人・団体… 9%
          会社員… 8%
      その他公的機関… 6%
     行政の文化担当者… 6%
   教育機関(学校など)… 6%
芸術団体・文化施設の担当者… 6%
  アートNPO(NPO法人)… 5%
  研究者・ジャーナリスト… 2%
    企業のメセナ担当者… 1%
          その他… 3%

という状況になっています。非常に多種多様な立場の方の受講となっていますが、学生と学生以外が、おおよそ半数ずつというバランスも、よいのではないかと思います。それにしても当初想定していたよりも、思わぬ反応の大きさと早さで、事務局も嬉しく思っています。

いよいよ本日開講です

本日、18:40から、公開講座第1回目の高山博先生による講座が開催されます。
通年受講を申し込まれた方、各回受講で6/8の登録をされた方、お待ちしております。受付は18:20頃から開始いたします。

先週6/1(金)にPDFファイルでご案内しましたが、改めて重要事項のみお伝えします。

1)お支払いの方法は資料代の金額の多寡にかかわらず一律に銀行振込とさせていただきます。
お手数をおかけして大変申し訳ありませんが、お支払いは下記の銀行口座にお振り込み下さい。

三井住友銀行 東京第一支店 普通9519317
口座名:文学部18-公開講座
※ATMでお振込みの場合、受取人は「コクリツダイガクホウジン トウキヨウダイガク」と表示されます。振込期限は、通年受講の方は6月末日まで、各回受講の方は、初回の受講日までにお振り込み下さい。

2)公開講座の開催場所は「東京大学本郷キャンパス法文2号館 1番大教室」となっています。特に学外から受講される方は、本郷キャンパスまでの交通アクセスや、キャンパス内の校舎の位置など以下のwebサイトよりあらかじめご確認下さい。
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/map01_02_j.html
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_02_j.html

a. 東京大学本郷キャンパスの正門から入り、大講堂(安田講堂)を正面にして進んでください。
b. 大講堂の手前、右側の大きな建物が、法文2号館です。
c. 建物の中央にあるアーケードをくぐり、左側の入口の受付からご入館ください(1階には文学部事務室があります)。
d. 2階の1番大教室が会場です

特に学外から出席される方は、初回となる講座当日、くれぐれも時間に余裕を持ってお越しいただけるようにお願いします。

3)関東を中心に麻疹(はしか)が流行していることから感染を防ぐため、以下に該当する方は来場をご遠慮ください。
・ 37.5°以上の発熱がある方
・ 過去に予防接種を受けた経験、麻疹にかかった経験がない方
・ 2週間以内に感染者と接触した方
・ 麻疹にかかって2週間以上経過していない方
ご理解とご協力のほどよろしくお願いいたします。

以上です。それでは、お目にかかることを楽しみにしております。