2007/12/21

第11回|大谷燠氏+曽田修司先生

第11回の講義は、前回の鷲田先生に引き続いて大阪から、NPO法人DANCE BOXの大谷燠氏をお迎えしました。DANCE BOXは、大阪市の政策の変更によって、拠点にしてきた施設が閉鎖されるといった、文化行政の大きな波に飲み込まれて困難な状況に立ち向かっています。その様々な現実を、受講生はどのように受け止めたのでしょうか。
アートの事業性難しいですね。そもそも行政と協働する時点で、その問題はクリアになるような気がするのですが。大谷さんのお話の中で多様性に基づいたマイノリティから発想するデザイン、もう少し詳しく聞いてみたかったです。

お話を伺っている中で、「行政」というものは何のために、何を考えて運営しているのか、というのが全くみえないように感じた。市民や地域で活動する様々な団体に対して説明責任が果たされていないのではないだろうか。大谷さんのダンスへの思いがさいごに聞けたのは良かったです。

市政として収入がないのに芸術を選択するのは難しい。人は飢えてもアートが必要か?家や食料や仕事よりもアートを選ぶか??自分が市政を執る人間だとして、市民は何を望むか?行政に対して望めるのは、新しい芸術をうたったアクションプランや、過去にあったプランの復活ではなく、「政策が変更になった際の誠意ある対応」のみだと思います。

志と環境(制度)のかい離、行政の体質の問題にまたあたってしまったと思った。誰のために、何のために、文化活動が行われるのか、また再考させられた。

本来、文化政策を率先すべき行政の無責任な方針転換に振り回されてしまっているようで気の毒です。市民社会再生・・・、やはりお上には頼れない。市民自らの手で成しとげるしかなさそうですね。

曽田先生が大谷さんに質問する時に使った言葉「相手が市であるために民間では言いにくいこと」何故私たちが“言いにくい”と思ってしまうのか、そこに市民社会再生の鍵があるような気がしました。行政はじめ社会のしくみや制度は、本来そこで生きる私たち一人一人が、もっと豊かに生きることができるようにつくるものだと思うんです。

大谷氏が向き合う状況が困難であるだけに、行政に対する疑問、ある意味では失望といったコメントが多かったのは事実ですが、おそらく行政に所属されている受講生の方もご意見はあったのではないかと思います。できればその声にも耳を傾けたかったと思います。
この日は講義終了後も、有志の受講生が大谷氏を囲んで引き続き議論を行いました。とても有意義な時間を過ごすことができました。

2007/12/07

第10回|特別講義 鷲田清一先生

12月7日は、大阪大学学長の鷲田先生を迎えての特別講義でした。「市民社会再生」、そして今年度のテーマである「文化の有効性」について、その本質を分かりやすい言葉で語られた鷲田先生。受講生のコメントを紹介します。
普段社会の中で「変だな」と感じていたことを鷲田先生に見透かされ、言い当てられたような気分でした。システム化された社会で、それが良いことであるとされている中で、私たちの市民社会が成り立ちにくくなっていると思いました。システム化社会の中で私たちの市民権をつかみとるそのための可能性を「アート」はもっていると感じました。「アート」や“「アート」を社会にひらく”といった言葉を聞く機会はとても多いですが、本当の意味や真剣さをもって発信していきたいと思いました。

私達が生きている社会はあらかじめ決められた見えないルールがあるなと先生の意見を聞いて感じました。また、私達はそのルールのことを意識しすぎなのだと思います。そのルールがとどかない空間である原っぱは、私達に必要な場だと思いました。アートプロジェクトは、アートを考えるのではなく、その考える行為を行うという意味で人が能動的に働きかけるきっかけを与えてくれるのではと思いました。

今回の講義では、“なぜアートなのか”について鷲田先生のご意見が聞けて腑に落ちる経験をした気がしました。(これまでの講義では、アートあるいは文化の有効性ありきで進んだものであったように思われるので)方法論ではなく、それ以前の場所について、考えてみることができたのが新鮮でした。そこを考えることが、方法論や実践の場に生きれば素晴らしいものになるのではないかと思いました。

アートの話でしたが、経済も同じだと思いました。多くの企業が、特に金融機関はサブプライムや不良債権や敵対的M&Aや新興企業経営者の出現を、諸悪の根源のように指摘し続けてばかりで、成長機会がないと言い訳しているところが多い。まるで自らはイノセントだと言わんばかりに。能動的態度の経営が、経済の再生をもたらすだろうと感じた。

「地域興しになぜアートか?」という問いは、北川フラム氏はじめ、後期の講師陣の何人かの方か言及されています。それぞれの立場によって洞察のベクトルが違い比較すると面白いと思いました。

最近、何かと自分について考えることが多くなっていまして、「自分の存在が浮いている」感覚を日々感じているのですが、『誰でもできる事をしているうちに、まわりの人が、自分にしかできないものを見つけてくれる』という言葉をお聞きし、悩むばかりではなく、とにかく目の前にあるものから毎日を過ごしていこうと思います。

感動的な講義でした。今まで人とアートに関ってきて、今後も続けていこうと思いました。面白かったです。

私は、鷲田先生の講義の中で(そしておそらく今年度の全12回の講義の中で)もっとも印象に残った短いフレーズは、「アートは、民主主義のレッスンである」という言葉でした。市民社会再生の鍵は、そこにあるような気がしています。
(コメント編集:大澤寅雄)

2007/11/30

第9回|加藤種男氏+ニコル・クーリジ・ルーマニエール先生

※事務局より…後期から、受講生に書いてもらっている講義のご感想やご意見を1人の有志の受講生が編集して、それをニューズレターとして次回の授業に配布しています。
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前回の講義では文化に対して企業という立場からご活躍なさっている加藤さんの情熱的なお話が聞けました。アサヒビールの企業メセナの活動から加藤さん独自のアート論までたくさんのおもしろい話が聞けました。「アサヒビールの加藤種男さん」だけではなく「1人の人間加藤種男さん」としてもお話をしてくださり、大変盛り上がった展開となりました。ただもう少し企業メセナ活動について詳しいお話を聞きたかったなという意見も多数ありました。
「メセナ」と時代の変遷を改めて考えることができました。時代の先端を行き過ぎると、社会に受け入れられることができないということを、今当たり前に思っていることを引き合いに出されながら説明されて分かり易い講義でした。

講義の前半はアサヒビールが企業メセナ活動を行うメリットや、メセナがどのようにアートに関わって支援しているかなど非常にわかりやすく説明をしていただき、あまりメセナ活動に詳しくなかった自分にもわかりやすいお話でした。私が特におもしろいなと思ったのは前回の並河さんもそのようなお話をなさっていたのですが、両人とも何らかの先見の目があったということです。やはりアート界で活躍するには、何らかの先見の目が必要なのかなとお話を聞きながら感じました。

「お金がない」のは「持ってくる力がない」という言葉にどきっとしました。

アート活動を行う上でやはり経済的な問題は見逃せません。これまで後期の講義で、ゲストに対する質問の中でも経済的な質問が多かったような気がします。しかし、加藤さんのお話を聞いていて、1つ1つの言葉に決意のような強い何かを感じました。「お金がない」のではなく「持ってくる」。現場で活動されている加藤さんだからこそ言える台詞だと思いました。

とても興味深いお話を伺うことができました。ありがとうございます。芸術・「アート」への日常的な接し方はあったはずで、今も残っている感覚としては挙げることができるはずのものだったと思います。それに目をむけさせることができる仕組みが求められているのかもしれず、その仕組みもアートとされるのかもしれません。でも、それはマネージメントとは異なるということですよね。私がぐちゃぐちゃと考えていることが、整理されて提示していただけたような講義でした。企業からの視点が強いのかと思っていましたが、とても嬉しい講義でした。

企業の組織に属していてアートに関わっている人に対してある種の偏見をこれまで私は抱いていましたが、加藤さんのエネルギッシュで情熱的なアートに対するお話を聞くといかにアートに対して深い愛情を注いでいるかというのがわかりました。講義の後半で仰られていた「アートリテラシー」を復活させ社会に変革を与えたいという言葉には「アート」の社会の中で果たす役割の重要性を感じました。アートを人の日常に結びつけたい。人が生きる日常の中でアートを感じるためにはある「きっかけ」が必要なのだと思います。私はこれからその「きっかけ」が今以上に増えている社会がつくれたらいいなと思いながらお話を聞いていました。

前回の並河さんと今回の加藤さんはアートを支える側の人のお話しでした。アートに対する関わり方はいろいろあるのだなと感じました。ただお2人の立場は違うけれど、目標にしていることは似ているなという印象を持ちました。アートを生きる日常の中で感じてほしい。その願いは徐々に達成されているように思います。お2人に共通するアートに対する「情熱」。これは第一線で活動するためには必要不可欠な思いですよね。
(コメント編集:藤原旅人)

2007/11/16

第8回|並河恵美子氏+村田真氏

並河さんは、やわらかな雰囲気を纏った、とても素敵な女性である。穏やかな口調で淡々と、お父様から継いだ銀座のルナミ画廊からアートNPOに「行き着いてしまう」までを語ってくださった。
アーティストにとって、自由な表現が可能になる“場所”は重要だ。ホスト講師の村田真さんは、無審査自由出品の展覧会として前衛的な表現活動の場を提供していた読売アンデパンダン展が、過激化していく表現を支えきれずに1963年に終了してしまった後、場所を失った若い作家たちの活動を支えたのが、60年代に増加した貸し画廊だったのではないか、という。日本の、特に銀座の貸し画廊は、自由な場所の提供以上の作家のサポートもやってきた。ルナミ画廊の場合は誰にでも貸すわけではなく、face to faceの関係を大切にして、「アーティストと一緒にやる」という心意気で人を選んでいた。
特に若い人が発表する場所である貸し画廊は、まさに日本の新しい文化が生まれてくるところだ。そこにもっと栄養を与えてほしい。並河さんは、画廊同士が組んで仕掛ける活動にも取り組んだ。企業や行政、いろんなところに支援を働きかけたが、縦割り構造の中で、芸術支援にお金を集めるのは大変だった。90年代になってメセナを意識した企業が文化部を設置したときは、話を聞いてくれる部署ができただけで嬉しかったそうだ。
1998年、並河さんは、35年続いたルナミ画廊を閉じる。専門化しすぎた現代美術の動向に対する閉塞感を感じ、画廊でできることは全てやった、離れないと前に進めないと思ったそうだ。その後地域に出て行くアート活動に取り組み、2002年にARDAを設立する。杉並区の高齢者施設を中心に、アート・デリバリー、アーティストの協力を得て地域にアートをもっていく活動を行っている。
こうした活動を並河さんは、「そうしなくちゃいけないからやってきた」と、いたって淡々と話す。並河さんの歩いてきた道程は、日本におけるアートと社会とのかかわり方の変遷そのものだと思うのだけれど、おそらく当の並河さんは「何かおかしいな」と思い、「こうしたらもっとよくなるかな」と思い、そのために必要だと判断したことを淡々と実践していった結果、アートNPOに「行き着いてしまった」のだと思う。人の心を動かし社会を変えるのは特別なことではなくて、問題意識を忘れずに淡々と行われる実践の積み重ねだろう。その原動力は何かという質問に対して並河さんは、「好奇心、あと人に話すこと。話すと、実現させなきゃと思って、自分に対する責任が生まれるから」と答えていた。並河さんの問題意識の鋭さと芯の強さが垣間見えた気がした。
もう1つ印象に残ったのは、画廊という枠の中では、極端な話「反芸術」を掲げてさえも「アート」と規定できるけれど、枠をとりはらって画廊の外に出たら今度は何をやってもアートと見なされない、そういう「アートレスな社会」のジレンマをどう考えるか、という村田さんの問いかけに対し、並河さんが、「そこに問題は感じない」と言い切ったことだった。画廊においては専らアート=作品だったけれど、並河さんにとってアートとは、作品とその解釈に留まるものではなく、プロセスや行為を通して「誰もが心の底に持っているものをひらいていくこと」だからだ。「人の心をひらくのがアートで、それができるのがアーティスト」で、「枠を取り払うと、アートの解釈ではなくて、人とつながれるアーティストの才能が問われる」、「自分が何を伝えたいかが問われて、ある意味アーティストがすごく試される」。淡々と、けれどもしっかりそう言い切った並河さんは、60年代以降の貸し画廊という新しい文化が生まれてくる場所で、アーティストと一緒に日々がんばってきた人だった。アートという枠に留まらないアーティストという人間の可能性を信じているから、画廊という枠を飛び出してアートNPOに行き着いたのかもしれない。
(レポート作成:中村美帆)

2007/11/02

第7回|宮城聰氏+伊藤裕夫先生(report #2)

今回の講義では(財)静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center : SPAC)の内情や宮城聡さんの演劇論が聞けるのではという期待で望んだ。講義の内容は宮城さんがSPACの芸術総監督を引き受けた理由や、これからSPACでどのような活動を行いたいか、あるいは芸術総監督として半年間活動してきたことへの振り返りなど面白い話をたくさん聞けることができた。
その中でも注目する部分は、伊藤先生も触れられていたが「静岡県民とどのような文化を創っていくのか」という部分だと思う。SPACは公共的でもあり、プライベートな劇団でもある日本では珍しい特殊な劇団だ。宮城さんも目標に上げていた「世界レベルの作品」を創ることは第一に達成しなければいけない目標だろう。しかしその第一の目標を達成した上で、さらに公共的でもある劇団なのでその意味を劇団の活動において意味づけることのできなければ「公共的」である意味がなくなってしまう。この部分はなかなか難しい部分だと感じた。作品を創り上げることで静岡県民に何をもたらすことができるか、またその作品によって静岡市民がどう変わっていくのかいう部分は、これからのSPACの活動の核となる部分ではないかと感じた。
また宮城さんはSPACの芸術総監督を引き受けた理由の1つとして、「わざわざ演劇を見にくる人々」ではなく、むしろ「演劇にあまり興味のない人々」に自分の作品を見せることによって、生きる意味や生きているという実感を感じてほしいからだとも仰っていた。この部分に宮城さん独自の演劇に対する考え方が感じられた。今の日本は安定した社会である。安定した社会であるが故に自分の生きている意味や生きる目標を見出せることは、自分で能動的に努力して見つけなければならない。また安定した社会を生きているから私達は一昔前の人と比べて、想像力に乏しく世界が小さい。その部分で演劇を通して現実では感じることのできない想像の中の世界を擬似体験することによって自分の想像を広げ世界を大きくしてほしいという考えなのだ。かつての演劇はその共同体の共有意識の確認を持つことが役割で、宗教的要素も含んでいた。しかし、今日の演劇において役割が逆で、演劇を見ることによって想像しえない世界や自分とは違う生き方を感じて、この世界に存在する多様さを確認する役割を担っている。
宮城さんの演劇論は演劇が今の時代の人々にどのような方法で、またどのような影響を与えるのかということが明確に定められており、今の社会に適応した演劇論だと感じた。芸術総監督に就任して半年でありまだまだ戸惑いも少し感じられたが、これからの宮城さんのSPAC芸術総監督としての活動に期待したいと思う。
(レポート作成:藤原旅人)

第7回|宮城聰氏+伊藤裕夫先生

※事務局より…第7回の講義も、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
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現代の舞台は違いを確認する場所である。多様性を表出する場所としての舞台、多様性を確認する場所として劇場がある。その多様性とは表面にあるものではなく、「のぞきこむ」ことで見えてくる。今回の講義で、もっとも印象に残ったことであり、宮城さんが繰り返し何度も語っていたことのように思う。
役者の個性を見出す方法という話があった。何人もの役者を舞台にあげる。そこでそれぞれの違いをどのように表現するか。「私服で来てください」という。すると皆がばらばらの服でやってくる。みんなが「違う」服装であることが一目でわかる。いっぽうで、一様に同じ燕尾服を着て並んでもらう。すると「同じ」服装であるからこそ、その人の持っている違いが、逆に表出してくることとなる。むしろ多様性とは、私服から「見える」多様さではなく、みんな同じ服装のとき、「のぞきこむ」ことではじめて見えてくるようなものではないだろうか。具体的なイメージを喚起されるこの例は、とても印象深く残った。
ここで、ふと思い浮かんだのは、就職試験のことである。面接であったり、説明会であったり、会場へ行くとみんな同じようなスーツを着て並んでいる。その光景を見るたびに「みんな同じで気持ちが悪い」という抵抗を感じていた。一言でいってしまえば多様性がないことへの違和感だ。しかし、もしかしたらそこに「同じ基準に並べられるからこそ分かってくることがある」という宮城さん的な戦略があったのだろうか。と、深読みしてしまうが、試験官はしたことがないので、はたしてそこまで「のぞきこんで」判断しているかは分からない(おそらくないと思うけれど)。が、ここには多様性をのぞきこまれることの怖さがあるようにも思う。つまり、のぞきこんだら、多様性がなかったということ。ならべると、かならず多様なものが見えてくると宮城さんは言っていたが、そんな悲観的なことを考えてしまう。就職試験の会場で感じた違和感は、「見えた」ものだったのか、「のぞきこんだ」末に見えたものだったのか。どうしても後者であったという不安をぬぐいさることができない。
このように多様性という言葉は宮城さんの講義で2つの意味を持っていた。見える多様性とのぞきこむ多様性。のぞきこむことで見つかる多様性とは、前者に比べて「のぞきこむ」という行為を超えてくるような強さをもった多様性ともいえるかもしれない。宮城さんの話は、うんうん、と何度もうなづきながら、そうだよねぇ、と共感しながら聞くことができた。しかし、よく考えて、とても怖い問いを突きつけられていることに気がついた。横並びにされて「のぞきこまれた」とき、あなたは多様な存在でいられますか、と。
宮城さんの話のような多様性を保持した社会は自分にとって理想の社会像であった。だが個人の問題として捉えなおし、自らの経験から周りを眺めたとき、そこに落差を感じざるをえない。しかし、このように落差を意識できたことが今回の講義ではとても重要なことだったと思う。理想像を確認することができ、そこへの落差も再確認することができた。これからは落差の隙間に落ちないように、それを意識しつつ、どのように埋めていくのか、少ないながらも一歩を踏み出していくことを考えていけばいいからだ。少なくとも、宮城さんも含め、後期の講義を通じてのゲストのみなさんは、そのように思い描く社会をもって、落差を意識しつつも、実践をしているからこそ、魅力的であったように思う。
(レポート作成:佐藤李青)

2007/10/19

第6回|中島諒人氏+小林真理先生

※事務局より…第6回の講義では、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
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中島諒人さんという演出家がどのような活動をなさっている方なのかは、お話を伺うまであまりよく存じ上げなかった。
印象的だったのは、中島さんが主宰する「鳥の劇場」の拠点である鳥取市の旧鹿野小学校という「場」に関係した事柄である。
それは、校舎部分は占有できるものの、上演スペースである体育館部分に関しては、建前上1日ごとの使用という形を取らざるを得ないといった具体的な問題から、この場所を地域の「知の拠点」として位置づけて行きたいというような、理念的な問題にまで及ぶ。
前者の問題については、以前は公演ごとに毎回、客席の解体を行っていたら、行政側の方が見かねて実質的には連続での使用を可能にしてくれたというようなエピソードから両者の円満な関係を感じられたし、体育館を劇場に改造するための投資金額の例などは、会場とのやり取りの中でも話題になったように、今後地域の文化拠点を作っていく上で、「鳥の劇場」のようなケースが1つの選択肢として取り上げられるべきであるということを説得するに十分だろう。
「知の拠点」という言葉には、恒常的な演劇活動などによって、地域の知が「蓄積」される場を目指したいという意図が込められているようであった。
最後に小林真理先生もドイツのレパートリー劇場について少し触れられていたが、劇場専属の劇団によって、文字通り演劇の作品が「蓄積」されていく劇場が国内各地に存在する状況に対して、いわゆる「貸し館」が大部分で(貸し館=悪と単純に言ってしまってはいけないが)、恒常的な活動による成果の蓄積が期待しにくかったり、東京以外の土地で継続して活動する演劇集団の数が少ないといった日本の現状を眺めた時、鈴木忠志氏や「鳥の劇場」の活動は非常に意義の深いものだと感じる(中島さんも「鳥の劇場」が地域で活動をするにあたって、鈴木氏の利賀村での活動を目にしていたことが非常に参考になったと仰っていたが、これもある種の「蓄積」といえる)。
「わかりやすい」ことをやるのではなく、あえて観客がわからないかもしれないことをやろうとなさっている姿勢にも非常に共感を覚えた。「わからない」というところから、演出家・俳優と観客、観客同士の対話や交流が生まれるというようなあり方こそ、市民社会の中での演劇・劇場の姿として望ましいものだろう。
「鳥の劇場」のような例がもっと広く知られることで、東京・その他の地域を問わず、日本の演劇状況がより豊かになっていくことを期待したい。
鳥取まで行き、実際にこの「場」の空気に触れてみたいものだが、なかなか時間的にも経済的にもそうはいかないので、まずは年末に予定されている東京での「鳥の劇場」の公演に足を運ぼうと思っている。
(レポート作成:日置貴之)

第6回|中島諒人氏+小林真理先生(report #2)

中島諒人さんは現在鳥取県鹿野町の、廃校を利用して「鳥の劇場」という名のもと、演劇活動を行っている。
あえて、東京でなく地方を拠点として選んだのには、東京で演劇を行うことに対して違和感をもったからだとおっしゃっていた。確かに、東京での演劇はある一定の町で展開されるようなターゲットを提供側から絞っているような作品づくりがされるか、或いは商業的な傾向が強くないと生き残っていけないのが現状である。そのような状況を鑑み、中島さんは実際に鳥取に向かった。劇場さえないような地方で演劇を行うということは、相当の覚悟と決意があったのではないだろうか。
多くの困難の中でも、本来多くの人々に見られるものという演劇の原点に戻り、また自治体という以上に、その地域のために何かをやるという考えのもとの「鳥の劇場」の公演は、確実に地元の人々の参加と演劇への関心を向けさせている。みせて下さった写真の中には、楽しそうな地元の方々の多くの笑顔があった。「地域だから」といって手を抜くのではなく、面白いもの、深いものをやるという中島さんの揺るがない演劇へのこだわりが共感を生んでいるのであろう。中島さんの、演劇を「感性のインフラ」として一極集中の日本の中で取り残されつつある地方を活性化させるという発想は、演劇を社会に対する活性化のための「手段」として捉えているということではない。決して「手段」ではなく、「目的」であることを見失わない必要があるというと中島さんの言葉の中には、演劇に対する強い情熱を感じさせられた。
劇場とはそもそも、ほぼ収益を上げるのは無理で、非効率といわれている芸術分野である。しかし、非効率だからこそ、発見できる価値があるのではとおっしゃっており、社会にその芸術を還元することで存在価値を見出すという発想は、いかに私たちが経済やお金のことに囚われがちであるのかいうことを反省させられた。
中島さんがおっしゃっていた、日常生活で突然降ってくる雨のような、人間の力でどうにもならない圧倒的装置としての演劇が行われる劇場が、ドイツの公共劇場のように多くの人にとって身近な安心、従属するような場所になり、日常的に生身の体同士のインタラクションが行われるようになったら、どんなに素晴らしいことだろうか。中島さんの「鳥の劇場」での活動は、まさに市民社会における演劇という芸術の存在価値を証明しており、今後の演劇の有効な方向性を指し示しているように思う。
(レポート作成:小野田真実)

2007/10/18

第5回|北川フラム氏+木下直之先生 (report #2)

北川フラム氏といえば、越後妻有アートトリエンナーレが有名だ。豪雪地帯の過疎地域でのトリエンナーレが、これほど魅力的に映る理由は何だろう。フラム氏の講演を聴く中で明らかになったキーワードは二つ。“おもしろい”と“反対者”だ。

アートはおもしろい
絵画なんて、「おもしろい!」と思って見に来る人が見るからおもしろいんであって、そうでない人にとっては何もおもしろくない、とフラム氏は言う。フラム氏が地域の中でアートを展開していくときは、関心のある人も無い人も含めた様々な人を惹きつけて巻き込んでいく“おもしろいアート”を目指す。“おもしろいアート”といっても大衆迎合のテーマパークではない。それは一見アートに見えないが、人と人との新しいコミュニケーションの回路を開くような、五感をつかって体験できるようなものだ。
“おもしろいアート”には力がある。例えば、越後妻有では一人暮らしの老人の家に、見知らぬアーティストや都会の若者が、「あなたの土地に作品を作らせてくれ」とやってくる。自分の家族すら訪ねてくれることの無かった老人は、こうした他者との交流に元気をもらう。これがアートの力だ。さらにアートには、作品を作るという労働がある。不慣れな都会の若者が作業していると、地元の人々は手を貸さずにはいられない。一緒に体を動かす体験をしてしまえば、もともと分けのわからない現代美術は、あいまいさも多様さも許容してしまう。ここではもう、作品なんかより人と喋るほうが重要だ。そう言いきってしまう所に、フラム氏のプロデューサーとしてのすごさがある。地域プロジェクトではアートを愛するあまり、協働する相手が見えなくなってしまうこともあるかと思うが、フラム氏のターゲットは最後までぶれない。

反対者とやる
もう一点、フラム氏がすごいところは、“反対者”と一緒に事業を進めるところだ。志同じくした仲間同士でやったほうが上手くいくのは当然だが、敢えて、反対する人々を巻き込んでいくのである。なぜなら、反対意見や批判から学び、新たな作品ができるからであり、厄介なことを媒介に、人と人とがつながれるからだ。フラム氏は「日本は美談が好きだ」と話した。厄介なことはなるべく避けて、すべて上手くいったように見せかける。けれど、美しいばかりの対話の場で、本当に腹を割った話ができるだろうか。地域イベントを行なうにつけ、対話やコミュニケーションの場が設けられるが、そうした場所は“反対者”を歓迎しているだろうか。場が設けられても切迫して議論する課題が無ければ表面的なやり取りで終わってしまう。妻有でフラム氏は、巻き込むべき“反対者”を巻き込んでいった。だからこそトリエンナーレは地域のものになったのである。今後“反対者”の声がもっと表に聞こえてくるような展開を期待したい。

そこに住む人々のために
越後妻有アートトリエンナーレが、地域のためのアートイベントであることを象徴するのが、中越震災後に行なわれた「大地のお手伝い」である。トリエンナーレのスタッフは、芸術祭の準備を2年間ストップして、被災地の「お手伝い」に向かった。都市間競争が激化する昨今、世界各地で新しいビエンナーレが開催されているが、対外的なアピールはあっても、本当の意味でそこに住む人々のために行なわれているイベントはどれほどあるだろうか。妻有の主役は、地域の住民と他者、都会の若者やアーティストだ。
高齢者人口が多く、いずれ消滅してしまうかもしれない集落に、アートを媒介にして人が集まり、その場所の魅力に気づいて帰る。すると次回は、自ら手伝おうという気持ちになる人が出てくる。棚田や里山、空き家のことが忘れられない人がでてくる。こうしたアートの力を使って、フラム氏は日本各地にある、見捨てられそうな土地を救っていくようだ 。アートは都会だけのものではない。余裕がある人のためだけのものでもない 。一見アートから最も遠い場所や人々こそ、実はアートを必要としているのかもしれない。フラム氏はそうした場所や人を見つけ出し、“おもしろいアート”で人々をつなげるプロフェッショナルだった。

※1 フラム氏は公害の直島、人口流出が続く瀬戸内海を舞台にアートプロジェクトを計画している。山陽新聞2007年7月7日
※2 阪神淡路大震災直後、被災地の人々の何人かが、フラム氏の手がけたファーレ立川の様子をテレビで見て、あんなまちに復興したいと思ったそうである。
(レポート作成:豊田梨津子)

2007/10/05

第5回|北川フラム氏+木下直之先生

※事務局より…第5回の講義では、2人の受講生にレポートを書いていただきました。受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、2回に分けて投稿します。
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「美術は本当は人の側にあった、そうした美術というものを何か残せないか」という北川さんの美術は、人とのつながること・つながりたいという思いをとても大切にしている。それを考えるきっかけになったのは、海外のパブリックアートだったそうだ。
例えば、ミネアポリスの橋の話(アーティスト名を控えられなかったので、詳しい方がいたらコメントをいただけると嬉しいです)。街を南北に分断する何車線もの高速道路のバイパスの上で、道路の向こう側とこちら側を橋渡ししているのだけれど、人2人がすれ違うのがやっとなくらいの細い狭い通路(catwalk)になっている。これをつくったアーティストは、本来人と人とをつなぐ交流の道だった道路が、人と人とを分断してしまっていることに問題を感じ、断絶をこえる仕組みとして、この橋をデザインした。狭い橋の上では、橋を渡る街の南北の住人が、否応なくすれ違う構造になっている。橋を渡るたびに至近距離ですれ違っていれば、少なくともすれ違い相手に仏頂面ではいられなくなるし、自然にコミュニケーションも生まれてくる。億単位のお金をかけてそんなバカなことを、という議論も紛糾したそうだが、その議論も含めて、この橋のおかげで確かにコミュニケーションが、人と人とのつながりが生まれた。そんなバカなことを考えられるのは美術だけだと、北川さんはいう。他にもいろいろなパブリックアートの事例を紹介しつつ北川さんが語ってくれたのは、地域と人・地域と都市・人と人とのつながりをつくりだす美術の力、美術の楽しさだった。
人とつながるのは楽しいけれど楽ではない。越後妻有の芸術祭は、公園のように作品が守られる前提がある場所ではなく、それぞれの時間・歴史をもつ200あまりの集落で、他者の土地にものをつくるという、ものすごい闘いでもあった。それでも、一緒にやることでつながりは生まれる。アーティストは、これまで越後妻有で生きて働いてきた人々の労働に作品を通して敬意を表現し、泥だらけになってがんばっているアーティストを、地域の人たちも応援してくれるようになった。そうしたコミュニケーションに対し、「美術は赤ん坊と同じ」と北川さんはいう。やっかいで世話もかかるけれど、そこを媒介にみんながつながっていく。
国は金を出す以外は口を出さないのが一番の文化政策だけれど、北川さんは越後妻有では、めんどうだけど行政と関わることを重視したという。一緒に何かをやろうと思ったら、反対者の意見が最も重要で、一番守りに入っているのが行政だからだ。自分と違う人に興味を持つ、一番違う人とつながりたいと思うのは人間の生理だと、北川さんは熱く語ってくれた。
人と関わりたいと思うのは、自分一人だけでは見つけられない、何か素敵な可能性が感じられるからだと思う。1+1が2以上、3以上、もっと未知数な何かになる、そんなわくわくする楽しさが、北川さんが美術という「宛名のないラブレター」のような活動を続ける原動力なのだろう。曖昧さや多様性を許容できる美術のゆるやかなつながりの中では、働きかけは決して一方通行ではなく、相手に働きかける自分自身も変わる。北川さん自身、この10年で自分も変わったという。最初は正直啓蒙意識みたいなものもあったけれど、「若い人が一緒に沢庵食べてくれて嬉しい」というおじいちゃんが考えるように僕も動きたいと思うようになったそうだ。その変化を受け入れて楽しんでいる北川さんは、とても素敵でかっこよかった。
人と人とがつながること、そのつながりを一人ひとりが楽しむこと。ひとりひとりの市民がつながりを楽しむところから、素敵な市民社会も始まっていくに違いない。そうしたコミュニケーションの蓄積が、市民社会における豊かさなのだろう。
(レポート作成:中村美帆)

2007/10/01

後期と来年度に関するwebアンケートを実施

前期の講義を通して、木下先生以下、運営委員会ではこの公開講座を、よりインタラクティブに、受講生とともに動かしていくための仕掛けを検討しました。そこで、後期のゲスト講師に対するご質問や、来年度の公開講座に関する講義テーマや運営手法についてのご意見やアイデアについてwebサイト上のアンケートを行います。
後期のゲスト講師やホスト講師には、講義の前にアンケートで寄せられた質問を事前に目を通してもらい、できるだけ講義の中で回答していただくようにお願いしますので、具体的に「このゲストに、こんなことを質問したい」ということを、こちらにアクセスしていただいて、送信して下さい。
また、来年度の公開講座に対するご意見やアイデアもあわせて受付けますので、「来年度はこういうテーマの講義があるといい」とか「こんな形で講座を運営してみてはどうか」といった忌憚のないご意見やアイデアをお寄せ下さい。

2007/08/10

第4回|渡辺裕先生(report #3)

 今回の講座は、市民文化をいわばピアノ文化から考察するものであった。渡辺先生はそれを、19世紀ヨーロッパ(主にドイツ)、20世紀初頭のアメリカ、20世紀初頭の日本という3つの時代と地域において分析されたが、このことからも分かるように、ここで近代文化を俎上に乗せるにあたって重要視されているのは、近代を「西洋的なるもの」において捉えるのではなく、それぞれの地域固有の事例において捉えようとする視座である。
 ゆえに、西洋の「西洋音楽」をも「西洋的なるもの」としては捉えないところから話は始まる。19世紀ヨーロッパにおけるピアノは、我々がいま一般に思っているような「西洋音楽」の基盤として習得されるべき楽器としてあったのではない。外で働く男性・内を守る女性といった産業革命以来の新しい家庭イデオロギーから生まれた「家庭音楽」の思潮のなかで、ピアノは家具として、教養という装飾品として、あるいは女性という“家族イデオロギー”のための家具・装飾品として機能した。バダジェフスカによる有名なピアノ曲<乙女の祈り>がさまざまなバージョンを伴って一世を風靡したのもその頃である。次の世紀に入ると、アメリカではピアノは同じく家具ではあったけれども、洗濯機や掃除機といった最新の家電製品と肩を並べる自動ピアノが、女性の家事(ピアノ演奏も含む)からの解放を象徴するものとして殊にもてはやされることになった。その同時期の大正期日本では、ピアノは高級品であり、ごく一部の人々の手にしか触れられるものではなかったにも拘わらず、人々の理想的な「文化生活」のための必需品として語られた。以上のような各々の事象に対して、各々の「近代」の姿を認めることによって、理想的な近代モデルを設定して強迫観念的な基準としたり、近代化の過程で失われた「伝統」の真正性を追い求めたりといったことを回避することができる、というのが先生の全体を通した主張である。
 非常に深く考えさせられた点の一つは、19世紀西洋において、女性のための「センチメンタリティ」あふれる少女趣味的ピアノ曲と、男女の共同作業として弾かれるある種の技巧的な連弾曲とが、どちらも流行していたということに関してである。このことは、「家庭音楽」が複合的な現象であることを物語っているように思われる。すなわち「家庭音楽」は、確かに男性が自分に過ごしやすい家庭を築く為に一方的に女性に押しつけた音楽と批判されるべきものではあろう。しかしながら、それは単に抑圧のみであったのではなく、旧態依然たる生活の中から女性が新しい人間関係のありようを模索しうる解放の機縁でもあったはずである。そうでなくてどうしてあれだけの多様な<乙女の祈り>が受容されただろう。はたして彼女たちにとってのセンチメンタリティとは、どのようなものであったのか。彼女たちにとって、それは我々が感じるような笑止千万な「おセンチ」なものであったのではあるまい。ヨーロッパの「少女」と日本の「少女」も全く異なる文化圏を形成していただろう。そもそも、彼女たちは、「“少女”なのだろうか。」(川村邦光『オトメの祈り:近代女性イメージの誕生』)。
 ロマン主義の政治性を揶揄するのは容易い。しかし何を以って「センチメンタリティ」と認識するかは時代と地域による。音楽に関していえば、無調も新即物主義も古楽も「伝統音楽」も、充分に主観的で感傷的である。もとより、我々市民が社会生活において何事かを投企するとき、なにがしかのセンチメンタルな衝動なくして何を行い得るだろう。したがって重要なのは、近代市民のセンチメンタリティを歴史的に考察することを通して、現在の我々自身の足場であるセンチメンタリティの姿を捉え直すことなのだ。このような意味で、今回の講座において、過去の多彩な音楽的センチメンタリティに触れ、そこに人々の活きた声を聴き分けていった知的な愉しみは、これから市民社会なるものを具体的に再考してゆくにあたり、有益な体験となったように思う。
(レポート作成 鈴木聖子)

2007/07/30

第4回|渡辺裕先生 ピアノと市民文化—図像から読み解く3つの局面—

※事務局より…第4回の渡辺先生の講義では、4人の受講生にレポートを書いていただきました。講義の内容だけでなく、受講生の着眼点や解釈の多様性を含めて、お読みいただければと思います。以下、4回に分けて投稿します。
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 前期の締めくくりとなる今回の授業の冒頭では、「市民社会」の表象の曖昧さとともに、一枚岩では語りつくせない実体が指摘され、具体的個別的な展開をひとつにくくらない見方の重要性が強調された。そして、西洋音楽文化の代名詞の位置を占めてきた「ピアノ」と市民文化の関わりを、(1)「ピアノ」文化の発祥ともいえる19世紀のドイツ、(2)両大戦間のアメリカ、(3)そして1920年代の日本という、3つの局面に着目することで、その多面性が鮮やかに明示されることとなった。西洋社会から周辺へと伝播していった「ピアノ」であるが、受け皿となる社会や時代は当然のことながら一様ではなく、それぞれの社会での普及の有り様もまた、均質なものではなかったのである。
 プロのピアニストの大半は男性であるにもかかわらず、なぜ「ピアノ」は女性らしさの象徴として受け止められているのであろうか。その秘密を探るべく、まずは市民の「ピアノ」文化の原点ともいえる、19世紀のドイツに目を向けてみた。産業革命以後、家庭のあり方が大きく変化する中で、それまでは公共の空間で享受されてきた音楽も家庭の中に取り込まれ、当時のドイツでは「家庭音楽」という思想が広まっていた。そして、「ピアノ」も家具の一部として配され、教養の象徴としてブルジョワ階級のアイデンティティの確立に一役買うことになる。しかし、その後いわゆるクラシック音楽が精神的体験として根付くことで、「家庭音楽」は空洞化を免れず、花嫁修業としての音楽教育と、プロを養成する専門的教育に両極化していく。
 このように19世紀のドイツで豊かな文化を育んだ「ピアノ」が、再び注目を浴びることになったのは、両大戦間のアメリカであった。当時のアメリカでは、科学技術の急速な進歩に伴い、次々と新しい家電が発売されていった。そして、それまで家庭に留まっていた女性たちが外へ出るようになり、女性の新しいライフスタイルが模索されるようになった。そのような背景の下、「自動ピアノ」が普及し、「ピアノ」文化も新しい局面を迎えることになる。さらに、「楽器」としての「蓄音機」も登場したことで、次第に音楽は「生産」するものから「消費」するものへと変貌を遂げていったのである。そして最後に、日本における「ピアノ」の受容に目を移してみると、日本の場合は「ピアノ」と「蓄音機」が同時期に流入されたこともあり、たとえば、音楽と裁縫が花嫁修業の一環として取り扱われるなど、やはり独自の発展の道を歩むことになった。
以上のように、同じ「ピアノ」であっても、波及した時代や地域が異なれば、当然のことながら、社会の中で全く別の文化の営みを生み出してきた。今回の講座では、「ピアノ」という切り口で「市民社会」を眺めてみることで、文化を受け容れる社会の多様性を改めて実感させられた。われわれが目指すべき「市民社会」を描く際にも、既存のモデルを模倣するだけではなく、日本の、そして現代の実体に即した「市民社会」の姿を柔軟に創出していく姿勢が求められるであろう。豊富な図版を使った楽しい講義の後に、そんな大切なメッセージが心に刻まれた。
(レポート作成:片多祐子)

第4回|渡辺裕先生(report #2)

 市民社会について確認する前期の最終回は、市民社会とは再生できるものなのかを問う作業であった。つまり、市民社会と思われているものが、本当に一枚岩的に存在するのか、そもそも再生とはなにかを考え直す必要がある、という内容だったと思う。
 第4回目の講師である渡邊裕先生は、ピアノと市民文化という具体例を挙げて、文化というものが重層的に成立したものであることを説明していった。特に、日本のような非西欧圏での西欧化には、様々要因が絡んでいる。複雑なものであるが故に、環境毎に文化が異なっている。だからこそ、地域毎の文化の差を対立させることの無意味さを説いた。
 どの文化が、どの市民が優れているとか、劣っているとか、同じものをそのまま再生するということ自体、ナンセンスなものであるとは理解しているつもりであった。しかしそう主張するためには、文化の背景にまで踏み込む作業をしなくてはならないのに、そういった行為を怠っていたのではないかと思わされた講義だった。
 講義の具体的内容にはいっていこう。
 西欧音楽の雄といえばピアノであるが、何故ピアノがその地位についたのか。そして多くのピアニストは男性であるにもかかわらず、ピアノにまつわる図像には何故女性が多いのか、を読み解く内容であった。
  ピアノは19世紀ドイツ、両大戦間のアメリカ、戦後の日本で流行した。今回はその事実をふまえて、19世紀ドイツと1920年代アメリカ、第二次世界大戦前の日本のピアノにまつわる図像を中心に見ていった。
 19世紀のドイツでは家庭にピアノが普及していった。コンパクトなピアノが製造され、居間に置かれて家具として使われた。産業革命以後、ブルジョワジーが教養を示すために女性とピアノが結びついたのである。その為に、女性のための曲も作られるようになった。こういった曲は華やかだが難しくないものであったという。
 ここで実際に曲を先生は流してくれた(事実、私はここで流された曲の一つを、小学校の頃に習い、弾いた記憶がある。それも華やかだという印象で、弾きたいとピアノの先生に直談判をして教えてもらった。今思うと、まさに術中にはまったのである)。
 つまり、家庭を支える女性とピアノという構図はそれ以前に存在しない。産業革命以後のドイツにて生まれた構図でしかないのである。
 一方で1920年代のアメリカでは、ドイツ同様ピアノは女性と結びついていたが、その様子は異なっていた。アメリカでは家庭的な女性というよりも、モダンな女性像と結びついていた。それは自動演奏機能のついたピアノが流行したことと、同時に蓄音機も入っていったことによる。音楽を消費するスタイルが生まれたのである。アメリカでは簡単にピアノを演奏し、家電で時間を節約して遊ぶ女性像とピアノは結びついた。
 最後に、戦前の日本ではどうだったというと、家庭のステイタスとしてのピアノとして導入された。良家の子女と結びついたものであったことを、住宅の間取り図やピアノ雑誌から確認していった。
 ピアノと女性の結びつきは、当初からあったものではなく、普及と同時に生まれたものであること。女性と言っても結びつく女性のジャンルは、国や時代によりかわることが確認された。それはピアノだけではない。つまりある文化は、他の文化の影響だけを受け入れているのではないということだ。時代の影響も受けるし、それまでの文化的背景も大きく関わっているものなのである。
 今ある文化を、そして今まで生きた文化をどういうようにしたら有効に活用できるのかを考える時、背景を見ていかないと、それは単純な二項対立に陥ってしまう。それを避けるためにも、文化の背景を問い直していく姿勢が重要だということを考えさせられる講義だった。
(レポート作成:松永しのぶ)

第4回|渡辺裕先生(report #4)

 公開講座の前期最終回にあたる本日の渡辺先生の講義は、講座の前期を締めくくるにふさわしい、非常に示唆に富んだ内容だったのではないだろうか。我々が市民社会再生という問題をこれからも引き続き考察していくにあたり、その根本的なところを改めて自覚しなおす必要が、ピアノ文化の諸相という具体的事例を通して私たちに投げかけられたからだ。
 まず冒頭では、市民社会のモデルが西洋近代のそれをグローバルスタンダードとして拡がってきた中で、市民社会は再生できるのか、できないのか、そもそも再生とは何か、ということを私たちは考えなければならないという本講座にとって極めて重要な問題が提示されたように思う。私たちが再生しようとしている「市民社会」というものの表象自体が一枚岩的にあるわけではないことを再認識し、それを一つに括らないで見る見方が今求められていると渡辺先生は指摘した。このことはまさに前回の佐藤健二先生による、再生すべき対象そのものを掴むにあたって流動する枠を設定することで共同体の様々な類型を考えることの有用性があるという指摘と密接にリンクする。市民社会再生をテーマとする以上、何か再生するべきモデルがどこかにあって議論を通じてそれを手探りしていく…という傾向にともすれば陥ってしまう危険性を私たちは常に抱えているわけであり、その意味でこの渡辺先生の指摘は私たちの立脚点をもう一度思い起こさせるものだった。
 そのような問題を考えるために本日とりあげられた事例がピアノ文化である。渡辺先生によれば、私たちは当たり前のようにピアノを西洋音楽の代名詞のように思ってしまいがちであり、ピアノというと何となく女性をイメージしてしまいがちなのだが、そういったピアノの位置づけ自体がなぜそのようなあり方をしてきたのかということ自体を捉えなおす必要があるという。確かに渡辺先生のおっしゃるとおり、私たちはピアノと言えば何となく“若くてハイソな良家のお嬢さま的な女性”が弾くと考えてしまうことの方が圧倒的に多く、ピアノと“金歯のオジサン”を連想する人はなかなかいない。ピアノは女性と結びついて考えられてきたのである。しかし実際プロのピアニストの大半は男性であり、女性の場合は「女流」ピアニストと呼ばれるなど、特殊な存在としてあるという分裂したピアノ状況が現実にはあるようだ。
 次に渡辺先生は国別ピアノ生産量の統計を例に、単に各国でピアノの生産が同じように増えたと見るのではなく、なぜそのような形で増えたのかということの背景が各地域によって異なっており、地域の様々な文化条件やその時のメディアによってピアノ文化は違った展開をしているのであってそれは決して西洋のピアノ文化のコピーではないという本日の講義の基本的な視点を示してくださった。
 ここで渡辺先生によって示された視点は、何となくそうであることが当たり前のようにイメージされてしまっていることについて一体なぜそうなのかという地点にまで立ち戻る必要があること、イメージと違って現実の文化では様々な動きが複雑な展開をしておりそれは決して一枚岩的に動いているわけではないと自覚する必要があることであり、その視点こそ私たちが「市民社会再生—文化の有効性を探る」うえで重要なツールになると思われた。そうして私たちは、日本の近代が単に西洋を模倣してきたわけではないことを自覚し、近代のイメージを見直すためにも西洋の元のイメージがどのように形成されてきたのかということを、西洋と日本のピアノ文化を例にとって辿ろうとする本日の講義が目指す地平に立ったわけである。
 さて、なぜ私たちはピアノと言うと女性をイメージしてしまうのか。西洋や日本におけるピアノ文化の実際はどのようなものであり、これまでピアノはどのように表象されていたのだろうか。そのようなピアノと女性が結びつくイメージが形成された背景は19世紀のドイツのピアノ文化を探ることで見えてくる、ということで私たちは渡辺先生をナビゲーターに当時の具体的なピアノ状況を追いかけていくことになる。
 まず19世紀が家庭に様々なピアノを生み出していた様子について、豊富な図版を用いた説明がされた。紹介された19世紀のピアノたちは今からするとちょっと考えられないようなユニークなものばかりである。例えば「ピラミッドピアノ」などの家庭に置かれる装飾性の高いピアノ、ピアノ内のデッドスペースを戸棚にしてしまった「たんすピアノ」、裁縫箱や化粧台と一体になった「裁縫ピアノ」や「化粧ピアノ」などである。今の感覚からすると不思議に思えるこれらのピアノが私たちに教えてくれるのは、当時ピアノが居間の中で家具として機能していたということと、「裁縫」「化粧」から伺えるように女性的な家事と結びついた形でピアノがつくられてきたということだ。
 そのように家事とピアノが結びついた背景には何があったのか。この時代のドイツではブルジョワの間で「家庭音楽」の思想が広がり、そこでは一種の花嫁修業として女性にピアノが教えられる状況だったという。例として先生は当時の女性のある一日の時間割を紹介した。それによると午前中は手芸に語学に地理歴史、午後から夕飯時にかけては手芸にピアノに習字…と私だったら気が狂ってしまいそうな内容の時間割なのだが、当時はこのようにピアノと家事は並ぶものであり、家庭を担う女性はそういった能力を求められたそうだ。
これには産業革命以後、それまでの家庭内手工業的な労働スタイルの変化と共に家庭のあり方も血縁関係だけで成り立つコミュニティに変わっていく中、男は外に働きに、女は家を守る、というようなブルジョワの新しいライフスタイルが定着していったことが関わっていたようだ。もうひとつは、この頃「教養」がブルジョワの証になるという状況があった。貴族が家系を自らの証とするのに対し、ブルジョワが自分たちを単なる労働者ではないのだということを示すメルクマールになったのが「教養」だったのである。
 つまりこの頃女性がピアノを習うということは単なるアクセサリーなどではなく、良妻賢母的な女性のあり方が前面に出てくるような社会状況下にあって、家庭の教養は女性が担うという位置づけが形成されていく中にピアノが入りこんでいったのだ。
 ではなぜそれはピアノだったのか。ひとつには、女性が弾いて良い/悪い楽器という考えがこの頃並行して出てきたからだそうだ。例えばチェロなどは股に挟んで演奏するスタイルのためか、女性にはふさわしくない楽器とされていたらしい。
 もうひとつの背景には、この頃には教養ある家庭のアイデンティティを外に見せるという面が出てきたことがある。例えば、居間というものがこの時期に家族の団らんと教養ある雰囲気を外に見せるものとして成立したのだが、ピアノもそのように家庭を象徴するものとしてはたらくようになった。ピアノにおける連弾などもそのような家族の象徴として機能していたという。つまり女性らしさの表象が出てくるのと並行して、ピアノは家庭楽器の要として定着していったのだ。思わずニヤリとしてしまうような先生ご自身の微笑ましいピアノ経験を交えながら、19世紀ドイツの家庭におけるピアノの位置づけと女性との結びつきが説明された。
 このような様子は19世紀後半になると変化していく。この時期にはクラシック音楽が精神的な体験、特殊なものになっていき、家庭音楽が空洞化していった。ではこの頃にはどのような音楽がつくられたかというと、プロ向けのレパートリーと女性向けのそれとは別々に考えられていたそうで、「乙女の祈り」に代表されるような女性のための女性らしいレパートリーが開発されていたという。ここで私たちは当時の典型的女性用ピアノ曲を数曲聴いたのだが、確かにベートーベンのジャジャジャジャーンよりは明らかに女性らしい華やかで優美なメロディという印象をうけた。こういった旋律を女性らしいと思ってしまうこと自体も一考するべきなのかもしれないが、これらの曲の女性的な印象は確かに拭えないものであり、このような甘ったるいピアノ曲が女性向けとして爆発的に当時つくられていたというのだから面白い。曲以外には、この頃の楽譜の表紙も女性が前面に出ていたようだ。その時代の西洋に生まれずにすんだことをありがたいと私なんか思ってしまうような西洋のピアノ状況をひととおり駆け足で具体的に辿ったところで、そういったピアノ文化の動きがアメリカや日本に広がっていく様子を次に見ていくことになる。
 まず、ピアノ文化が広がると一口に言っても、地域によって女性の家の中でのあり方や文化の位置づけは全く違うということを確認したうえで、戦前のアメリカにおける雑誌広告を例にピアノがどのように位置づけられていたかを辿った。この頃の広告に登場する女性は家庭的ではなく、新しい家電製品と結びついて女性の新しい生き方がアピールされていた。そしてそのような状況とピアノ文化のあり方も結びついていた。それを示す好例がアメリカで爆発的に流行った自動ピアノである。これは勝手に曲を弾いてくれるピアノであり、そういったものが家庭に入ってくるという状況が戦前のアメリカのピアノ文化にはあったわけである。ピアノを弾く父と子の図像に見られるような団らんイメージを引き継ぎながらも、それまでとは違う新しい女性の生き方のイメージが好んで描かれるようになったのだ。
 これには当時のメディアの変化も関わっていた。レコードがなかった19世紀ヨーロッパではピアノを実際に弾くという音楽実践しかあり得なかったのだが、レコード登場以後は買ってきて消費するという変化の中でピアノ文化は広がっていった。家庭のことには手間をかけないで外へ出て行こうという新しい女性のライフスタイルの流れの上に自動ピアノは乗っていた。ピアノが自動ピアノへ、さらには蓄音機へ、と音楽のあり方が生産型から消費型に変わっていくことと女性のあり方の変化は同時に動いていたようである。どういう時期に、どのように拡がるのかによって同じ「ピアノ文化」と言っても背景が全然違うということが具体的に示されたわけである。
 では日本のピアノ文化はどうだったのか。戦前には家庭のステータスと結びついてピアノが普及した。例えば当時のある雑誌にはピアノについて「令嬢音楽」と書かれていたり、昭和4年当時のモデル住宅の図面や写真を見ると居間にピアノが置かれていたなど、文化住宅や文化村などがつくられていたこの頃にはピアノも前面に出され招聘されていたのである。また当時の広告からは音楽学校と裁縫学校がひとつになっていた様子も見てとれ、そのような位置づけ方にはドイツの音楽文化のあり方が入ってきたという面もあった。しかし日本の場合が西洋と違うのはピアノと蓄音機が同時に入ってきたことであり、文化的な生活と言う時はピアノよりも蓄音機であり、そのように西洋でのプロセスを省略する形で家庭に音楽が入っていったというのが実状だった。そのためか戦後の高度成長時代にはあまり家庭音楽という形でピアノは根づかなかったらしい。
 このように辿ってみると日本には日本なりの背景のもとにピアノ文化が根づいていったことが理解できるのであり、それは西洋には近代の奥行きがあるけれども日本には近代がないということではない。渡辺先生が言うように、どういう時期にどのような形で入ってくるのかということによって文化はいろいろな形に成り得るのであり、日本はドイツと同じピアノ文化の形になる状況ではなかったのである。したがってそれはどちらが文化的に高級であるという問題などではなく多様性の問題なのだ。
 最後に、渡辺先生はそのような問題の捉え方をもう一度「市民社会」の問題にリンクさせてまとめとしてくれた。「市民社会」はヨーロッパに型があってそれが今崩れているというような二分法で捉えるべきではなく、市民社会も日本には日本なりの市民社会があり日本なりの根づき方があるのだと。どうしたら生きた文化を有効につくっていけるのか、様々な要素を勘案しながら考えていく姿勢が求められるのだと。
 私たちはこれからどのような市民社会の再生に向かうのだろうか。「市民社会」や「文化」について多面的な見方で捉えることの重要性を、誰もが知っているボピュラーな楽器・しかしそれが帯びてきた文化状況を見ると実は非常に奥の深い楽器:ピアノという素材を通して提示して下さった本日の渡辺先生の講義は、私たちに改めて市民社会再生という問題の根源を自覚させてくれるものだったように思う。本日の講義で得られた視点を「市民社会」「再生」「文化」の問題領域において有効に活用していけるか否か、そこから先は私たち次第である。
(レポート作成:川瀬さゆり)

2007/07/25

後期ゲスト講師大谷燠氏の活動に関わるニュース紹介

こんにちは。
運営委員の曽田です。

後期の第7回講義(12月21日)のゲスト講師である大谷燠さんが中心的に関わっている大阪・新世界の「新世界アーツパーク事業」に関するニュースが報じられましたので、皆さんにご紹介しておきます。

産経新聞の7月20日付のネット記事
「大阪・フェスティバルゲート破綻 芸術系NPO行き場なく 」
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070720/bnk070720005.htm

「新世界アーツパーク事業」が行われていた都市型遊園地「フェスティバルゲート」が経営破綻したことにより、同施設にテナントとして入居し活動してきたアートNPOを移転を余儀なくされている、という状況です。
移転先を市が斡旋するという話があったのですが、それが難航しているとのことで、今後の動向が気がかりです。

2007/07/21

前期が終わったばかりの時点での個人的感想

運営委員の曽田です。
皆さん、昨日はお疲れ様でした。

なんだか、あっという間に前期の4回が終了した気がします。

4回の講義を通じて、市民も、市民社会も、文化も、非常に重層的なものであり、それを一面的にとらえることは間違いなのだ、ということに気づかされました。

考えてみれば、それは当たり前とも思えることなのですが、こうした当たり前の思考や議論のステップを誰もが普段は省略してしまいたがっているし、そのことに無自覚である、という点は常に心しておかなければならないことだと思いました。

また、講義終了後の懇親会では、出席者の皆さんの多様なバックグラウンド(立場、所属、経歴)に驚くとともに、皆さんの強い期待と意欲が感じられて心強く感じました。

皆さんからも、ぜひ自由な感想をお寄せください。

2007/07/08

第3回講義の短い感想を書いてみました

公開講座運営委員の曽田です。
講座も第3回を終えて、だんだんとペースがつかめてきたのではないでしょうか。
佐藤健二先生が、第1回、第2回の高山先生、熊野先生の講義内容を踏まえてお話してくださったので、市民または市民社会を問うということがどういうことか、より多面的に、あるいはより構築的に考えることができるようになったと思います。
「市民」も「市民社会」もその内実は多様であること。そして、その内実を決めているのは、それを承認するグループが誰を(どこまでを)含むのかによって決定されるのだ、という指摘があったと思います。ひとつの言葉を平板にとらえて議論を進めることの不適切さを気づかされ、大いに納得しました。今後、このことを常に頭の中においておこうと思います。

皆さんも、個別の感想、意見、要望などを、このブログにどんどん投稿してください。お待ちしています。

2007/07/06

第3回|佐藤健二先生 「市民+社会+文化+再生」の糸口と結び目を探る

 ここまでの講義で何度もでてきた「市民」。しかしまだ「市民」の実態が明確な形で立ち現れてこない。佐藤先生は講義の最初に「市民」がわからないという自覚が出発点だとおっしゃってくれた。まずは再生すべき対象そのものを掴む必要があると。
 最初にここまでの2回の講義を軽く振り返ったあと、「市民+社会」というカテゴリーの現代日本的な特質ということで、平田清明が「市民社会」を外来の抽象概念だとしたことを指摘した。この言葉には宙に浮いた、実態がないためにユートピア的な形で成立してしまうこともあるようだ。

 まずは(1)政治参加として、これが市民という言葉の核であり、政治システムへの主体参加を市民に一つの行動の形として挙げられた。特に戦後、市民の主体性が市民運動のような形で主張されていた。その背景には、国家と市民、社会の対立構造があり、戦時だけでなく平時をもふくめた国家の力に市民が注目したということがあり、それが厭戦思想と結びついたとも考えられるようだ。また“文化政策”や“資源”という言葉が登場したのも、総動員体制から生まれたものである。国家という大きなシステムからどうやって市民の側に自発的に引き離すかということが、市民の関心になってきたといえる。
 次に(2)個人の確立。「市民」という言葉は共同体の解体と個人の自立という過程に結び付けられ、イエ・ムラというような共同体のリアリティが弱体することで、「市民」という言葉自体がイデオロギー化してしまったことを先生は指摘した。このような議論の際には、共同体の「解体」は唱えられても、「形成」はほとんど唱えられない。特に70年代には近代主義への批判として共同体の解体だけが唱えられ、「市民」に議論が集中し、「社会」について考えることが背後に追いやられてしまった。そこで、societyということばが明治でどう訳すかという問題になったことを紹介された。この時代には二つの言葉を合わせて、一つの言葉を作るという手法が取り入れられ、漢字を用いて新しい概念を作るということで、言葉の力が特に重要視されていたようである。「社会」という言葉は、かつてなかった公共性をどう言葉でつかまえるか?というような理解を通じての構築に基づいていたようである。
 (3)として都市とも結びつきについて。明治前期にはまだ「市民」という言葉は不安定であり、政府による大規模な政策によって新しい「市」という行政区分が誕生したのであった。しかしその新しい枠組みは、寄せ集めのものであり共同体単位の枠組みとはずれたものだった。その「市」という枠組みが認識されるが遅れ、頼りない言葉になってしまったという。大正デモクラシーにおいては「群集」という運動の認識が存在し、70年代からの社会史の研究の中でも改めて注目される。今一度「群集」の実態に即した問題を問うべきだと先生は指摘した。例えば普通選挙の無記名投票における匿名性が、自由や個人の権利を保障したように、現代のインターネットの普及に関しても匿名的、無定形な新しい形の「群集」を見出すことも可能なのである。
 (4)として主体性の重視について。日本においては主体性の議論に傾きがちであり、ただ自立し批判的でありさえすれば、「市民社会」が立ち現れると簡単に考えてはいなかったかということが指摘された。「市民」という概念と「市民社会」という概念をぴったり寄り添わせるのではなく一度切り離す試みが、「市民」という言葉が理念化、イデオロギー化してしまい、具体的・実質に届かないというような状態から免れられるのである。70年代から、公害問題などにおいて「住民」が登場してきた。90年代にはNPOやボランティアが注目されるようになった。このような時代の流れの中で、イデオロギーとしての「市民」が、より具体的、実質的な市民のイメージに重なっていくのである。

 これまでの現代日本における「市民+社会」をみてきたことを踏まえ、それをどう組み立てなおせばいいのだろうか。佐藤先生は「公」と「私」の二項対立を避けるためにその間に「共」を入れて考えれるべきだとして、その3つの概念を組み合わせ、重なる部分を動かしながら様々な類型を考えることの有用性を、黒板にベン図を書いて示した。現在がどういう状況で、どのような状況が望ましいのか、それを考えることは私たちに委ねられていて、この流動的な「動く」枠を設定することで、共同体の再建を考える必要性を指摘された。そうすることで、国家という枠だけでなく、具体的な厚みをもって社会を捉えられるのではないだろうか。次に、政治システム・経済システム・文化システムという類型について、自発的にこの類型に分けて考える必要性を指摘された。政治と文化のシステムとして読み替える力を文化システムが持つべきだという。また「文化」という言葉が、その意味付けや主体性の分析に傾きがちであることを指摘された。概念的な話ではなく、もっとモノのつながりとして文化をつなげるというシステムと捉える視点も必要ではないだろうか。例えば「文化資源」という言葉には「資源」という言葉が入っているが、その嫌われがちな「資源」という言葉を、欠乏という意識が入っていて資源化する主体を必要とするものだと捉えなおすこと、また「資源」という言葉を使う有用性を自覚することが重要であるようだ。

 まとめとして柳田国男の視点が紹介された。柳田は丸山とは違う戦後の受け取り方をし、民主主義を発言するものだけが発言するという状況だったら、かえってそこに不平等が生じてしまうこと、また国語の教育の重要性を説いた。明治の初めにあったような形のないものをいかに言葉に直すかというときの近代日本語の問題は、動詞が少なかったり行政が言葉を作り、多層的な意味をもった言葉が生まれてしまうことだった。その結果多くの人がモノを思うようにいえず、感じる言葉を話す言葉なないという病に陥ってしまった。そしてそれは戦争がいつのまにか導かれた要因の一つともいえる。柳田はそこで、国語を豊かにすること、考えの手助けをする言葉を「作る」必要性を指摘したのである。ただ考えを発信するだけではなく、聞く側の言葉を味わい分けることも重要であり、それが衰弱化してしまっているのが現代の実情である。微妙なニュアンスを感知感受する力を私たちは養っていかなければいけない。

 最後に問いの共有ということで、「学問」という言葉について考えた。まずは「学」の本質である思考の仕方を学ぶ能力の重要性、そして「問」という言葉に含まれる「答えの共有」と「問いの共有」という二つに側面について指摘された。先生は前者のように自由を求めて一つの解を求めるというような社会の姿勢よりも、複数の解を前提としてそれを共存させる自由こそ、「共」を作る上で重要だという。複数の答えというのは確かに弱い側面もあるが、同じものを別の言葉で捉えるというコミュニケーションの動きによって、そこにさらに柔軟な、しかし強固な「共」が生まれる。今回の講座において市民を「問う」ことの重要性というのも、まさにここで指摘されたようなその人その人自身の言葉によって考えること、それをコミュニケーションによって相手に伝えて共存されることにある。ただ一つの絶対解を探すのではなく、多くの人の意見を共有すること。まさに今回の講座はそのような機会を生む絶好のチャンスのように思えた。
(レポート作成:小野田 真実)

2007/06/22

第2回|熊野純彦先生 丸山眞男の軌跡をめぐって

 なぜ今「市民」を問い直すのか。この問題は最近の「丸山ブーム」と連動しており、丸山眞男の痕跡をもう一度問い直すことは「市民」を今一度問い直すためにも大きな意味がある、という熊野先生のテーマ設定はとても新鮮なものだった。丸山眞男という思想家であり政治学者は、戦後の日本において、一貫して「市民」への問いかけを行ってきた。政治が動くその背景にある、「市民」による政治的決定を見つめ、考え続けてきたのである。丸山自身が、日本の政治文化について、規範の継承を行わずに、ただ流れていってしまう文化であり「無構造」であると言及したことを考えると、丸山の論をただ流してしまうことは、彼の指摘をまた繰り返すことになってしまう。このことを念頭におきながら、いまこそ丸山自身の文章に直接触れることで、「市民」について再考するべきであるということを改めて思わされた。

 まずは「近代」という表題で、丸山が日本のナショナリズムにはethnicな土地や血のつながりによる愛国心はあるものの、civicな、一般投票をメタファーとした政治的正当性に基づく愛国心の欠如が問題であると指摘をしたことに焦点が当てられた。そして丸山にとっての「市民」が、「ある」というような「存在、状態」ではなく、「する」という「行為する主体」としての「市民」であるという一貫した主張を、原文に沿って私たちは追うことになる。政治においては「ある」という存在・状態の原理が支配しがちであるが、「する」を貫徹することで政治と文化の不幸な二分化を防ぐことができるという主張であった。これはまさに「する」の主体である私たち「市民」への一つの提唱なのではないだろうか。しかし丸山はまた、日本の政治決定が自然のうちにあり、自然によって犯されていると指摘する。丸山にとっての近代とは、自然的思考を切断することだった。つまり、「市民」に自然過程の切断を求めたのにも関わらず、それが実現されないことにもどかしさ、また絶望をも丸山は感じていたのである。

 次の「日本」の表題において、丸山が日本社会を巨大な無責任の体系だとしたことが指摘される。日本人の中には価値の中心に正統性を自己言及的に保障する天皇が存在したことで、逆にその威光が言い訳や個人の弱さにもつながっているとしたのである。確かに政治的な決定において、そのポイント、論点と主体がはっきりしないまま、事後的にずるずる決定してしまうという状況は、現在の政治決定においても残存しているのである。このような決定から「ずるずると」戦争にいたってしまったことが日本の反省であるはずなのに、戦後、私たち「市民」は何も変わっていないのだろうかと、とても耳に痛い指摘であった。また丸山が日本人の「自愛」が強いことを指摘したことも言及される。過去のもの、思い出に足をとられてしまうような無構造を、私たちは未だに超えられていないのだろうか。

 次の「転回」という表題においては、丸山自身の立場の転向について述べられた。日本の欠陥や病理を指摘し続けた丸山は、半分は正当で半分は間違いであり、前向きな中に後ろ向きな姿勢があり、後ろ向きの中に前向きな姿勢があるというのが熊野先生の指摘だった。丸山自身も60年代以降、思考を転向することによって自由な立場に自分の身をおくことができたのである。丸山は近世の武士道から強い主体の芽生えとして、それを引き継ぐことによる可能性を説く。また自然観、歴史観として日本人の中に行き続ける「おのずからなる自然」という意識を指摘する。彼によると天皇が倒れること以外に日本人の自立は足りえないのである。また丸山は60年代後半からの左翼運動に際して、より絶望を感じるようになる。しかしそのような絶望の中でも日本人による「決定」へ断続的に問いかけを行ってきたということこそ、丸山の強さを感じさせられた。

 最後に、丸山眞男の市民像へのポジティブな示唆として、政治への「いやいやながら」のはたらきかけを勧めていることが指摘された。丸山は「市民」の名が一人歩きすることで、地道な生活に基礎をおかないまま運動に走る「市民主義」には嫌悪を示した。論としては華やかなものではないものの、このような社会のすみずみからのゆっくりとした政治参加こそ、丸山が経験の中でポジティブに「市民」を肯定し、また私たち「市民」が実現できる可能性のある、現実に即した形であるように感じられた。今回の講義において一貫して感じられたのは、絶望をしつつも、わずかな希望を見出そうと根気強く「市民」の決定について見つめ続ける丸山の力強い姿だった。丸山のような学者の立場でなくても、「市民」として、またその主体であるからこそ、自分たちがどう政治決定にはたらきかけるか、また社会においてどういうポジションに身をおくかもう一度再考する必要があり、そんな一市民としての丸山の「市民」像を見つめ、考え続ける姿勢こそ、私たちが模範とすべきであり、今回の講義で丸山眞男という人物を追っていた理由は、そのことに自分で気づくというところにあったのではないだろうか。
(レポート作成:小野田 真実)

2007/06/08

第1回|高山博先生 グローバル化と個人

 第一回目の公開講座では、冒頭、木下直之先生により趣旨説明があった。文化資源学研究室の向かいにある一大教室は、研究室に所属する学生にとって「ホームグラウンド」のような場所である。そこで授業を行う木下先生にとっても同様の場所である。公開講座では、自分たちだけではなく、研究室の外から参加する受講生にとっても、この一大教室が「ホームグラウンド」のような気持ちになれる場所になってほしい。隔週金曜日に「帰ってくる場所」になってほしい。そのため受講生がただ講義を受けるだけではなく、受講生とインタラクティブな関係をつくることで共に公開講座とつくっていきたい、という姿勢が示された。

 趣旨説明の後、第一回の講師である高山博先生の講義が始められた。まず、古代ローマから現在へとつながるヨーロッパでの市民概念の変化が時代ごとに整理された。日本語にある「市民」と、ヨーロッパで発達してきた「市民」という概念を対応させるためである。古代ギリシアにおいて市民は参政権をもつごく限られた人々を指していた。やがて古代ローマでは帝国の一員としての権利という現在の国籍に近い概念となった。さらに中世においては租税を払う能力によって商人といった富裕な人々も含まれていく。このように高山先生の説明を通じて日本語の「市民」という一語に含まれている複数の意味が明らかにされた。
 
 次に、本題でもある「グローバル化と個人」について。グローバル化は私たちの生活が大きく変化する歴史的な分水嶺となるという。国境を越えて、モノ・情報・資本は自由に行き来しはじめている。現在はアメリカやヨーロッパ、日本を中心としている。しかし、その領域は拡大していき、さらに領域相互の関係はどんどん緊密化していく。制度の平準化とともに、地域による機能分化が生まれていく。このような全体でのシステムの再編は細部へのチャンスも生んでいく。たとえば海外の街並みを模倣した街よりも、江戸時代から残された街並みのある街へ、突然に、世界中から観光客が集まってくることも起こりうる。制度の平準化は誰もが機会へアクセスするチャンスを拡大していく。

 一方で、グローバル化は従来の均一化とは違い、生活水準の格差の拡大も伴い、進行していく。また機能分化はより幅広い地域での役割分担であり、そこでは独立し、完結した主権国家という前提はなくなっていく。工場や資本だけでなく、人材もまた国境を越えて流動していく。国単位の社会機能は低下していく。外部遮断も不可能となっていく。そのため市場といった非国家セクターが巨大な力をもち、大きな影響力を及ぼしていく。
しかし、国家が弱体化していることはかならずしも国家が不要になることを意味しない。グローバル化は無法地帯へと向かう危険性、相互依存の高まりはネットワークが機能しなくなったときの危険性を孕んでいる。無秩序の市場と弱体化する国家、地理的な制約を越えた相互依存の高まりとその危険性。このような状況の中で何らかの強制力のある組織がなければならない。現在は主権国家から次のシステムへの過渡期とみることができる。

 このような社会の急速な変化のなかで個人の潜在的な行動範囲は拡大していく。交通網の発達は活動域を拡大した。個人の行動は、時間ごとの分化だけでなく、機能や地域による分化へとつながっていく。このような変化は人々に新たな結びつきを生む。たとえば非常に狭い関心の趣味をもつ人々がインターネットを介して新たなコミュニティを形成することも可能となっている。そこでは個人にとって細分化された仮想の世界が生まれていく。個人は仮想の社会と実体験するものの違いのなかで生活していくことになる。このようにして細分化された人格の結びつきにおいては、個人の特定の側面だけがクローズアップされていく。細分化は人格を統御することの難しさをも生んでいく。
 中世のフランスでは王国の大部分は領主による統治がなされていた。森に囲まれた集落はそれぞれが孤立し、存在していた。99%以上が農民であり、自然に合わせた生活を送っていた。特定の時間に特定の事柄を行う。このような農村の生活では人格の全体でのコミュニティが形成されていた。
 
 以上が講義の内容であったが、最後に、高山先生によって鮮やかに描き出された中世の風景は、グローバル化した現在の社会の理想像ではなく、むしろ現在の社会を中世の社会と対比することでより、はっきりと現在の社会の状況を明らかにするものではなかっただろうか。それは前半の市民という言葉と概念の整理も同様である。何気なく過ごしている普段の生活や、その中で使われる「市民」という言葉。それらを大きな歴史の流れや抽象的な概念のなかから見直したとき、新たな視点から現在を問い直すことができた。

 だからこそ今回の講義において残念だったのは、それぞれの意見を交わし、議論する場がなかったことだろう。それぞれの参加者が「市民」や「文化」という言葉を改めて問い返し、それぞれに過ごす生活のレベルで問い直す。そのとき思い描くことは個々人によって違っていたはずである。特に講義後半では先生の社会の捉え方も明らかにされていたようにも思う。そのため先生もまたひとりの個人として議論に参加していくことも可能であったかもしれない。そして、そのようにして議論する作業は、インタラクティブな場をつくることであり、また同時に「市民社会」のあるべき姿を構想していくことへもつながっていくのではないだろうか。
(レポート作成:佐藤李青)

初回講義が開催されました

昨日、高山博先生による「グローバル化と個人」というテーマの初回講義が開催されました。この長丁場の公開講座が無事に幕を開けられたことに、運営委員メンバーは胸を撫で下ろしております。昨日も申し上げましたが、講義内容のレポートを間もなくアップロードします。しばらくお待ちください。
なお、昨日の受講生のみなさんからのコメントシートに数多く見られたのが、質疑応答の時間を設けることや「インタラクティブな講義」に対する要望でした。初回の講義ということもあり、講座全体の趣旨説明や事務連絡の時間を想定していたため、質疑応答の時間を設けられませんでした。次回から、何らかの形で受講生のみなさんからの発言や質問をクロスさせる仕掛けを用意しておきます。
なお、コメントシートで数多くの方から運営協力ボランティアに名乗り上げていただきました。ありがとうございます。改めてこちらからメールにてご連絡したいと思いますので、よろしくお願いします。また、昨日の講座運営にご協力いただいたボランティアのみなさん、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

コメントの投稿について

このブログでは、受講生の皆さんのインタラクティブな参加を求めるために、実施した講座に対する感想、ご意見、ご質問、さらには今後の講座に対する提案についてコメントを求めます。つきましては、オンライン上の快適な環境を形成するために、以下の2点について、ご理解ください。

(1) このブログはgoogleのサービス「Blogger」を活用しており、コメントの投稿にはgoogleアカウントが必要となります。まだgoogleアカウントをお持ちでない方はコメントを投稿する初回に、あなたのメールアドレスと任意のパスワード、ハンドルネームを入力いただきます。
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・ブログの内容とは関わりのない告知や宣伝
・その他、運営委員会が適切ではないと判断する内容

双方向で活発なディスカッションが展開されることを大いに期待しています。

受講生の全体像を紹介します

この公開講座、すでに事前の登録を終了しておりますが、実は運営委員会事務局が当初想定していた参加者数を大幅に上回る申し込みをいただいております。その受講生の全体像をお伝えしておきます。

受講登録数は全体を100%として、
         通年受講…86%
         各回受講…14%

また、受講者の属性は
           学生…47%
アート活動を行う個人・団体… 9%
          会社員… 8%
      その他公的機関… 6%
     行政の文化担当者… 6%
   教育機関(学校など)… 6%
芸術団体・文化施設の担当者… 6%
  アートNPO(NPO法人)… 5%
  研究者・ジャーナリスト… 2%
    企業のメセナ担当者… 1%
          その他… 3%

という状況になっています。非常に多種多様な立場の方の受講となっていますが、学生と学生以外が、おおよそ半数ずつというバランスも、よいのではないかと思います。それにしても当初想定していたよりも、思わぬ反応の大きさと早さで、事務局も嬉しく思っています。

いよいよ本日開講です

本日、18:40から、公開講座第1回目の高山博先生による講座が開催されます。
通年受講を申し込まれた方、各回受講で6/8の登録をされた方、お待ちしております。受付は18:20頃から開始いたします。

先週6/1(金)にPDFファイルでご案内しましたが、改めて重要事項のみお伝えします。

1)お支払いの方法は資料代の金額の多寡にかかわらず一律に銀行振込とさせていただきます。
お手数をおかけして大変申し訳ありませんが、お支払いは下記の銀行口座にお振り込み下さい。

三井住友銀行 東京第一支店 普通9519317
口座名:文学部18-公開講座
※ATMでお振込みの場合、受取人は「コクリツダイガクホウジン トウキヨウダイガク」と表示されます。振込期限は、通年受講の方は6月末日まで、各回受講の方は、初回の受講日までにお振り込み下さい。

2)公開講座の開催場所は「東京大学本郷キャンパス法文2号館 1番大教室」となっています。特に学外から受講される方は、本郷キャンパスまでの交通アクセスや、キャンパス内の校舎の位置など以下のwebサイトよりあらかじめご確認下さい。
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/map01_02_j.html
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_02_j.html

a. 東京大学本郷キャンパスの正門から入り、大講堂(安田講堂)を正面にして進んでください。
b. 大講堂の手前、右側の大きな建物が、法文2号館です。
c. 建物の中央にあるアーケードをくぐり、左側の入口の受付からご入館ください(1階には文学部事務室があります)。
d. 2階の1番大教室が会場です

特に学外から出席される方は、初回となる講座当日、くれぐれも時間に余裕を持ってお越しいただけるようにお願いします。

3)関東を中心に麻疹(はしか)が流行していることから感染を防ぐため、以下に該当する方は来場をご遠慮ください。
・ 37.5°以上の発熱がある方
・ 過去に予防接種を受けた経験、麻疹にかかった経験がない方
・ 2週間以内に感染者と接触した方
・ 麻疹にかかって2週間以上経過していない方
ご理解とご協力のほどよろしくお願いいたします。

以上です。それでは、お目にかかることを楽しみにしております。

2007/05/31

麻疹の流行に注意してください

関東を中心に麻疹(はしか)が流行 していることから、感染を防ぐため、以下に該当する方は来場をご遠慮ください。皆様のご理解とご協力のほどよろしくお願いいたします。
・37.5℃以上の発熱がある方
・過去に予防接種を受けた経験、麻疹にかかった経験がない方
・2週間以内に感染者と接触した方
・麻疹にかかって2週間以上経過していない方
なお、5/31時点で公開講座の開催は予定通りとなっておりますが、予定変更の場合は速やかに公開講座のホームページ、こちらのブログ、受講生へのメールにてお伝えいたします。

事前登録終了のお知らせ

公開講座「市民社会再生 -文化の有効性を探る- 」には多数の登録をいただき、5/31をもって定員満了となりましたので、事前登録を終了しました。なお、事前の登録がない場合でも、講座当日の教室の空席状況を見て、ご出席いただける場合がございます(空席のない場合は入室をお断りする場合がございます)。
また、予想を上回るご関心をいただきましたことを受けて、公開講座実行委員会では講座の記録と公開の方法を検討しております。つきましては、改めてe- mailアドレス宛に公開講座からのご案内をさせていただきます。

2007/05/07

後期の講師紹介

■10月5日(金)
〈ゲスト講師〉北川フラム(きたがわ ふらむ)アートディレクター
1946年新潟県高田市(現上越市)生まれ。東京芸術大学卒業。主なプロデュースとして、「アントニオ・ガウディ展」「アパルトヘイト否!国際美術展」等。街づくりの実践では、「ファーレ立川アート計画」「越後妻有アートネックレス整備構想」の総合ディレクター等多数。同プロジェクトによる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」は2001年の「ふるさとイベント大賞」のグランプリを受賞した。平成18年度芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)受賞。アートフロントギャラリー主宰、地中美術館総合ディレクター、新潟市美術館館長、女子美術大学教授等。

〈ホスト講師〉木下直之(きのした なおゆき)東京大学大学院人文社会系研究科/文化資源学研究専攻
美術を中心に19世紀の物質文化全般を研究対象とする。1954年浜松市生まれ。兵庫県立近代美術館学芸員、東京大学総合研究博物館助教授を経て、2000年より現職。『美術という見世物』(1993年)でサントリー学芸賞。著書に『ハリボテの町』『世の途中から隠されていること』『わたしの城下町』など。

■10月19日(金)
〈ゲスト講師〉中島諒人(なかしま まこと)演出家/鳥の劇場主宰
1990年東京大学法学部卒業。大学在学中より演劇活動を開始、卒業後東京を拠点に劇団を主宰。2003年利賀演出家コンクールで最優秀演出家賞受賞。2004年から1年半、静岡県舞台芸術センターに所属。2006年より鳥取に劇団の拠点を移し、“鳥の劇場”をスタート。二千年以上の歴史を持つ文化装置=演劇の本来の力を通じて、一般社会の中に演劇の居場所を作り、その素晴らしさ・必要性が広く認識されることを目指す。

〈ホスト講師〉小林真理(こばやし まり)東京大学大学院人文社会系研究科/文化資源学研究専攻
文化政策、文化の発展を支える、あるいは阻害する制度を研究している。複数の地方自治体の文化政策の立案・制度設計に関わる。著書『文化権の確立に向けて−文化振興法の国際比較と日本の現実』(2004年)編著『指定管理者制度−文化的公共性を支えるのは誰か−』など。

■11月2日(金)
〈ゲスト講師〉宮城 聰(みやぎ さとし)静岡県舞台芸術センター芸術総監督/演出家
1959年東京生まれ。東京大学文学部中退。大学時代より創造活動を始める。1990年、劇団「ク・ナウカ」を結成。日本の伝統演劇の様式とヨーロッパのテクストを融合させた演出には定評がある。2004年、第12回古代ギリシア劇世界会議に招待され、高い評価を受けた。第3回朝日舞台芸術賞受賞。2005年、第2回アサヒビール芸術賞受賞。2006年、パリにオープンするケ・ブランリー国立博物館ホールのこけら落とし公演に出演。2007年4月より財団法人静岡県舞台芸術センター芸術総監督に就任。

〈ホスト講師〉伊藤裕夫(いとう やすお)富山大学芸術文化学部教授
1972年東京大学文学部卒後、(株)電通入社。1988年より電通総研へ出向、アーツマネジメント、文化政策、および民間非営利活動を主な研究テーマとして取り組む。2000年、静岡文化芸術大学教授に就任、2006年4月より現職。著書に、『NPOとは何か』(共著・日本経済新聞社)『文化経済学』(共著・有斐閣)『アーツマネジメント概論』(共著・水曜社)他。

■11月16日(金)
〈ゲスト講師〉並河恵美子(なみかわ えみこ)特定非営利活動法人芸術資源開発機構(ARDA)・代表
35年続いたルナミ画廊(銀座)を1998年閉廊。その間、若手作家の育成、海外交流に力を入れ日豪交流の基礎を築く。1999年、国際セミナー「みんなで作る地域活動とアート・センター」、ドキュメント2000プロジェクト助成で「高齢者ホームへ出張・展覧会とワークショップ」を実施。2000年「立川国際芸術祭」芸術監督。2002年、杉並在住の美術関係者とNPO芸術資源開発機構を設立。2005年から「アート・デリバリー:介護する人される人のための出張芸術講座」を実施中。

〈ホスト講師〉村田 真(むらた まこと)美術ジャーナリスト
1954年東京生まれ、東京造形大学卒業。ぴあ編集部を経てフリーランスの美術ジャーナリストに。新聞・雑誌に執筆するほか、ウェブマガジン『artscape』に展評を連載。著書に『美術家になるには』、訳書に『ビジュアル美術館12絵との対話』などがある。慶応義塾大学・学習院女子大学非常勤講師、横浜BankARTスクール校長。

■11月30日(金)
〈ゲスト講師〉加藤種男(かとう たねお)アサヒビール芸術文化財団事務局長
アサヒビール大山崎山荘美術館の運営、アサヒ・アートフェスティバルのプロデュースなど、1990年以来、同社のメセナ活動を推進。企業メセナ協議会研究部会の部会長として、わが国の企業メセナをリード。また、「創造都市」の旗振り役として、自治体へ文化政策を提言し、現在は横浜市芸術文化財団専務理事を兼務。NPO活動の推進にも取り組み、アートNPOリンク理事をはじめ、日本NPO学会理事などを務める。大仏次郎記念館館長、埼玉県芸術文化財団理事ほか。著書:『新編 アーツ・マネジメント』(共著)など。

〈ホスト講師〉ニコル・クーリジ・ルーマニエール 東京大学大学院人文社会系研究科/文化資源学研究専攻
1999年、英セインズベリー日本藝術研究所設立と同時に所長就任。現在、東京大学大学院で客員教授を勤める。米ハーバード大学博士課程修了(美術史)。日本の装飾美術と装飾の概念、東アジアにおける近代陶磁器と貿易ネットワーク、および蒐集の歴史についての研究を行う。著書に『400 Years of Japanese Porcelain』(大英出版より出版予定)『Crafting Beauty in Modern Japan』(大英出版)など。

■12月7日(金)
〈特別講師〉鷲田清一(わしだ きよかず)大阪大学理事・副学長
1949年生まれ。京都大学文学部卒業。関西大学教授、大阪大学教授を経て、現職。専門は哲学・倫理学。現象学の視点から、身体、他者、顔、規範、所有、モード、老い、国家などを論じてきた。近年は哲学的思考をケアや教育など社会のさまざまな現場につなげる「臨床哲学」のプロジェクトに取り組んでいる。主著に『モードの迷宮』(サントリー学芸賞)『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)『メルロ=ポンティ』『老いの空白』『「待つ」ということ』など。

■12月21日(金)
〈ゲスト講師〉大谷 燠(おおたに いく)NPO法人DANCE BOX Executive Director
大阪生まれ。1991年から2001年までTORII HALLプロデューサー。1996年、「DANCE BOX」を立上げ、ジャンルを超えたコンテンポラリーダンスの公演・ワークショップを年間約30本企画制作する。2002年DANCE BOXをNPO法人化。大阪・新世界フェスティバルゲート内に「Art Theater dB」を開設し、アーティストの育成と地域社会とアートの新しい環境づくりに力を注ぐ。近畿大学国際人文科学研究所講師。神戸大学国際文化学課非常勤講師。関西経済社会研究所文化アドバイザー。

〈ホスト講師〉曽田修司(そた しゅうじ)跡見学園女子大学教授
東宝株式会社演劇部を経て、1990年代以降、国際舞台芸術交流センター等で舞台芸術に関する国際交流、アーツ・マネジメントを専門領域として活動。2002年、跡見学園女子大学教授。2004年、特定非営利活動法人STスポット横浜理事長。2004年度より、国際交流基金評価に関する有識者委員会委員。

■平成20年1月11日(金)
〈ゲスト講師〉平田オリザ(ひらた おりざ)劇作家/演出家/大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授
1962年東京生まれ。国際基督教大学教養学部卒業後、在学中に結成した劇団「青年団」を率いて、自ら支配人をつとめるこまばアゴラ劇場を拠点に活動、「現代口語演劇理論」を確立する。1995年『東京ノート』で第39回岸田國士戯曲賞を受賞したのをはじめ多数の賞を授与される。2003年、日韓国民交流記念事業『その河をこえて、五月』(新国立劇場制作)で、第2回朝日舞台芸術賞グランプリを受賞。代表作の『東京ノート』は現在9カ国語に翻訳され、海外での評価も高い。2002年度より中学2年生の国語教科書にワークショップの方法論が導入される。三省堂小学校国語教科書編集委員も務める。

〈ホスト講師〉古井戸秀夫(ふるいど ひでお)東京大学大学院人文社会系研究科/次世代人文学開発センター・文化資源学研究専攻
1951年東京生まれ。早稲田大学文学部演劇科卒業。同教授を経て、現在、東京大学教授。専攻は歌舞伎研究。著書に『歌舞伎—問いかけの文学』(ぺりかん社)『新版舞踊手帖』(新書館)『歌舞伎入門』(岩波ジュニア新書)、編著に『歌舞伎登場人物事典』(白水社)などがある。

前期の講師紹介

■平成19年6月8日(金) 高山 博(たかやま ひろし)
東京大学大学院人文社会系研究科/欧米系文化研究専攻
東大大学院教授、エール大PhD(歴史学博士)。専攻は歴史学(西洋中世史/比較史/異文化交流/グローバル化)。Lopez Memorial Prize(エール大最優秀中世史博士論文賞)、サントリー学芸賞、地中海学会賞、マルコ・ポーロ賞受賞。著書に『中世地中海世界とシチリア王国』『歴史学 未来へのまなざし』『<知>とグローバル化』『文明共存の道を求めて』など。

■6月22日(金) 熊野純彦(くまの すみひこ)
東京大学大学院人文社会系研究科/倫理学専攻
主要な著書に、『レヴィナス』(岩波書店)『差異と隔たり』(岩波書店)『西洋哲学史』(岩波新書、全2冊)などがある。西洋近現代の哲学的・倫理学的思考のほか、日本近代思想にも関心があり、最近の仕事としては和辻哲郎『倫理学』全4巻(岩波文庫)の註・解説がある。

■7月6日(金) 佐藤健二(さとう けんじ)
東京大学大学院人文社会系研究科/社会文化研究専攻・文化資源学研究専攻
1957年生まれ。専門は歴史社会学、文化社会学。印刷技術が生み出した読書空間の特質を軸に、民俗学者柳田国男の方法を解読した仕事を始め、関心はメディア論、流言、社会調査史、データベース、絵はがき、食文化など多方面にわたる。著書として『歴史社会学の作法』『流言蜚語』『都市の解読力』など。

■7月20日(金)
渡辺 裕(わたなべ ひろし)
東京大学大学院人文社会系研究科/美学芸術学専門分野・文化資源学研究専攻
1953年、千葉県生まれ。東京大学大学院修了後、玉川大学助教授、大阪大学助教授などを経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科(美学芸術学、文化資源学)教授。主な著書に『聴衆の誕生』『日本文化 モダン・ラプソディ』(以上春秋社)『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波現代文庫)『宝塚歌劇の変容と日本近代』(新書館)など。

公開講座の概要

お待たせしました。公開講座の概要が決定しました。
前期は「市民社会と文化」をテーマとした東京大学の教員による講義、
後期はゲスト講師に文化振興の現場をリードする第一人者を迎えて、
ホスト講師の解説や聴講生を交えた討論を行います。
日程:平成19年6月8日(金)〜平成20年1月11日(金)
   基本的に隔週金曜日、全12回
時間:午後6時40分〜午後8時20分(100分、全回共通)
会場:東京大学本郷キャンパス法文2号館2階1番大教室
   (交通アクセス、校舎内の地図は裏表紙をご参照ください)
対象:学生、行政担当者、メセナ担当者、アーツマネージャー、
   アーティスト、NPO、研究者等
定員:100人

2007/03/03

仮チラシ完成


公開講座のご案内をスタートしました。まずは仮チラシです。
詳細情報はまだ未掲載ですが、講座の開設と開講趣旨を周知します。
講師、日時、教室、受講のお申し込みなどは決定次第お伝えします。

2007/02/22

新規ブログ開設

公開講座「市民社会再生~文化の有効性を探る~」のブログを開設しました。
受講者への案内、講義の記録、意見交換などを掲載します。
近日中に公開講座の概要をアップします。しばらくお待ちください。