2007/08/10

第4回|渡辺裕先生(report #3)

 今回の講座は、市民文化をいわばピアノ文化から考察するものであった。渡辺先生はそれを、19世紀ヨーロッパ(主にドイツ)、20世紀初頭のアメリカ、20世紀初頭の日本という3つの時代と地域において分析されたが、このことからも分かるように、ここで近代文化を俎上に乗せるにあたって重要視されているのは、近代を「西洋的なるもの」において捉えるのではなく、それぞれの地域固有の事例において捉えようとする視座である。
 ゆえに、西洋の「西洋音楽」をも「西洋的なるもの」としては捉えないところから話は始まる。19世紀ヨーロッパにおけるピアノは、我々がいま一般に思っているような「西洋音楽」の基盤として習得されるべき楽器としてあったのではない。外で働く男性・内を守る女性といった産業革命以来の新しい家庭イデオロギーから生まれた「家庭音楽」の思潮のなかで、ピアノは家具として、教養という装飾品として、あるいは女性という“家族イデオロギー”のための家具・装飾品として機能した。バダジェフスカによる有名なピアノ曲<乙女の祈り>がさまざまなバージョンを伴って一世を風靡したのもその頃である。次の世紀に入ると、アメリカではピアノは同じく家具ではあったけれども、洗濯機や掃除機といった最新の家電製品と肩を並べる自動ピアノが、女性の家事(ピアノ演奏も含む)からの解放を象徴するものとして殊にもてはやされることになった。その同時期の大正期日本では、ピアノは高級品であり、ごく一部の人々の手にしか触れられるものではなかったにも拘わらず、人々の理想的な「文化生活」のための必需品として語られた。以上のような各々の事象に対して、各々の「近代」の姿を認めることによって、理想的な近代モデルを設定して強迫観念的な基準としたり、近代化の過程で失われた「伝統」の真正性を追い求めたりといったことを回避することができる、というのが先生の全体を通した主張である。
 非常に深く考えさせられた点の一つは、19世紀西洋において、女性のための「センチメンタリティ」あふれる少女趣味的ピアノ曲と、男女の共同作業として弾かれるある種の技巧的な連弾曲とが、どちらも流行していたということに関してである。このことは、「家庭音楽」が複合的な現象であることを物語っているように思われる。すなわち「家庭音楽」は、確かに男性が自分に過ごしやすい家庭を築く為に一方的に女性に押しつけた音楽と批判されるべきものではあろう。しかしながら、それは単に抑圧のみであったのではなく、旧態依然たる生活の中から女性が新しい人間関係のありようを模索しうる解放の機縁でもあったはずである。そうでなくてどうしてあれだけの多様な<乙女の祈り>が受容されただろう。はたして彼女たちにとってのセンチメンタリティとは、どのようなものであったのか。彼女たちにとって、それは我々が感じるような笑止千万な「おセンチ」なものであったのではあるまい。ヨーロッパの「少女」と日本の「少女」も全く異なる文化圏を形成していただろう。そもそも、彼女たちは、「“少女”なのだろうか。」(川村邦光『オトメの祈り:近代女性イメージの誕生』)。
 ロマン主義の政治性を揶揄するのは容易い。しかし何を以って「センチメンタリティ」と認識するかは時代と地域による。音楽に関していえば、無調も新即物主義も古楽も「伝統音楽」も、充分に主観的で感傷的である。もとより、我々市民が社会生活において何事かを投企するとき、なにがしかのセンチメンタルな衝動なくして何を行い得るだろう。したがって重要なのは、近代市民のセンチメンタリティを歴史的に考察することを通して、現在の我々自身の足場であるセンチメンタリティの姿を捉え直すことなのだ。このような意味で、今回の講座において、過去の多彩な音楽的センチメンタリティに触れ、そこに人々の活きた声を聴き分けていった知的な愉しみは、これから市民社会なるものを具体的に再考してゆくにあたり、有益な体験となったように思う。
(レポート作成 鈴木聖子)

0 件のコメント: