2008/06/07

レポート|基調講演 大沼保昭(国際法)

2008年5月30日(金)、2回目となる公開講座が行われました。今回からいよいよ、ゲスト講師を迎えての講義+ディスカッション形式が始まります。記念すべき初回は、大沼保昭(おおぬまやすあき)・東京大学大学院法学政治学研究科教授による基調講演でした。

はじめに先生のご挨拶があった後、この講座の後のゲスト講師である野田秀樹氏、田中泯氏にまつわるちょっとした“憤り”について、先生の苦いご経験のお話があり、それまでやや緊張モードだった会場は、笑いとともにやわらいだ雰囲気に包まれました。そして、先生は「公憤(こうふん)、すなわち公の憤りは、こうした私憤(しふん)から生じるのです」と加えられました。そう、本日のテーマである「公共性・多様性・マイノリティ」へと続くイントロダクションだったのですね。
講義は、Ⅰ市民と国民、市民活動とNGO活動、Ⅱ多様性とマイノリティ、Ⅲ公共性、まとめ、の大きく分けて4つからお話がありました。すべて詳細にレポートしたいところですが、あまりにも盛り沢山になってしまうので、紙面(ウェブ面?)の関係上、ここでは私が個人的に特に印象に残ったお話などを中心にお伝えします(ぜひ受講生のコメントと合わせて、お読みください!)。
一つは、マイノリティのお話です。Ⅱのところで、画一主義・同一主義的な社会(コンフォーミズム)について、そして多様性については地域によっての違いがあるというご説明がありました。例えば、ヨーロッパの場合は、陸続きであるため、国境をまたいで他国へ入ることが頻繁に行われており、そこには多様性が自然的に存在しています。一方、日本のような島国の場合は、単一的民族主義になりやすく、多様性がなかなか浸透しにくい環境にあります。そうしたことから、日本ではドイツで行われているような本格的な移民受け入れを行ってきていない歴史があり、移民受け入れを行っていれば、西洋を超える国になり、もっと受け入れを積極的に行うべきと先生は力説されました。一方で、Ⅰでもお話があったような、先生が在日韓国朝鮮人問題に取り組まれていた70年代に比較すれば、ずいぶん多様性が進んだという実感があるとも。確かに、私たちが物心ついたころには、外国の人をまちの中で見かけることも、一緒に何かするということも、わりあい普通になっていたように思います。では、マイノリティって・・・とイメージをつかもうと頭をめぐらせていたとき、「コンフォーミズムは、民族的には減っても、社会的には強化されているのではないか。」というお話が続きました。すなわち最近では、目立ちたくない、仲間と違いたくない、という思いから仲間と同じ行動をとる同調主義が広まっていて、マイノリティには、ますます住みにくい社会となっているとのこと。現代を生きる私たちにとって、それにはどこか、思い当たる節があるのではないでしょうか? 多数とマイノリティの問題は、民族性のみで話されるべきものではなく、色々な切り口をもつものだというご説明に、今日のテーマの広がりと深みを感じました。

Ⅲの公共性以降は、公(おおやけ)の語をはじめとして、公とは私とは、公共性とはをしきりに考えさせるお話が続きました(「公」という字は、「ハ」の部分が「広く」、「ム」の部分が「自らを囲む」という意味をそれぞれ持ち、合わせて共同性を意味するそうです)。昨年本にもまとめられた「慰安婦」問題を通じ、「公=国=政府=官」というとらわれ方への問題定義(毎日新聞1997年1月26日記事)、影響力の大きいNGOやメディアの「公」としての責任のあり方、企業、そして公共的存在の市民はどうかかわっていくべきか……。政府、NGO、メディアのそれぞれが持つ長所、短所をあげられながら、それぞれの役割を再認識し、役割分担を行った上で取り組まなければならない、というお話でした。
ご存知の通り、この講座は東京大学内外の学生をはじめ、様々な方面でお仕事をされている社会人の方をも数多く含む受講生から成っています。まとめで、先生が「新たな公共性の確立に尽力したい。ただ、あらゆる観念、あらゆる理念に疑念を抱く余地がある。公共性への信念を疑う自分が必要」と話されているのを聞きながら、「多様な」受講生がそれぞれ自らの立場を照らしながら、公共性とのかかわりを考えていたのではなでしょうか。

各自に色々思うところがありながら、グループディスカッションの時間はあっという間で、短い時間内に発言しそびれたという人も多かったように思われます(ぜひ、この受講生コメントの場を使って、発表してくださいね。また、このつたないレポートを補っていただけると幸いです)。質疑応答の時間にも、先生から補足のご説明をいただけるような、核心をついた積極的な発言が沢山見られました。大沼先生の丁寧でやわらかな話され方には、最後までひきつけられました。先生、ありがとうございました。
講座も会を重ねるごとにグループでの親交も徐々に深まって、より活発な意見交換になっていくのではないかと思います。次回は、終了後に懇親会もありますので、ふるってご参加ください。まずは、第2回、お疲れ様でした。
文責・横山梓

19 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

横山さん、レポートありがとうございました。
私は、講義の最後の質疑応答のとき、「運動家として、社会問題に対して運動体を起こそうとする若い世代にアドバイスをください」という質問に対して、「運動家としてアドバイスができるほど大したことはしていませんが、ケンカのしかたならいくらでも教えてあげます」という答えに、心の底から「カッコイイ!」と思いました。

匿名 さんのコメント...

運営委員の曽田です。

「ケンカのしかた」に関連するかも知れませんが、私たちは、公共性がどこか私たちとは別のところに存在しているように思っていて、よそごと、他人事と考えていることが多いのではないでしょうか。
これは、私たちが、なのか、私が、なのか、わかりません。
大沼先生の講義を聞いて、公共性とは静的なものではなくて、異なる立場や意見の人々が多様に関わり、そのあいだに必然的に摩擦を生み出しながらダイナミックに定位されるものではないか、という感想を持ちました。
これは、昨年の講義で「市民社会」について感じた多義性やダイナミズムと同じだと思いました。
とりいそぎの感想です。

匿名 さんのコメント...

基調講演としては、テーマに沿って分かり易く概略を説明頂きましたが、せっかく大沼先生に講義をお願いしているのだからマイノリティーについても、具体的につっこんだ意見をお聞きしたかったと言うのが本音です。
従軍慰安婦問題だとか、在日コリアンの指紋押捺問題だとか、様々な問題に関与されている先生ですから60分の講義では、時間が足りなかった様に思います。また、講義後のグループでの議論は、グループの活性化には繋がりますが、圧倒的に時間が足りないと思いました。

匿名 さんのコメント...

美術館で働いていると、メディアの文化的影響力の大きさとともに、営利企業としての制約を感じることがあります(卑近な例では他のメディアグループによる文化事業は報道しないとか)。当日の質疑応答中、「文化的営為と公共性」にまつわる対話がありましたが、市民社会の合意形成に大きな影響力を持つメディアの「営利企業としての側面」をいかに制御していくかという問題は、文化による市民社会再生を考える上で軽視できないことではないかと感じました(ブログや口コミの力が注目されている現代ではありますが)。

匿名 さんのコメント...

ちょっと講義に遅れたので、公憤と私憤について聞き逃してしまったのが残念です。
役所で1日ぼーっとしていると(私、公務員です)、くだらないことをいろいろ考えてしまうのですが、「市民の権利」って言うけど「個人の権利」って言う人あまりいないなあとか、「個人の自由」って言うけど「市民の自由」って言わないなあとか。
最後の質疑で、芸術家の創作動機は個人的なものでも、作品には社会性が宿る(と理解したのですが違っていたらすいません)、というのが印象に残っています。

匿名 さんのコメント...

公益法人(いわゆる「民法法人」)の活動や存在そのものが負うべき"公益性"についてはこれまでも意識的に考えてきたつもりだったのですが、NGOの公益性という視点は新鮮でした。考えてみれば(いえ、考えるまでもなく)いろいろな分野で「世の中の役に立つ」活動を実践しているNGOは、そのまま公共の利益のために存在している組織に他ならないのですが、講演をうかがいながら、正義と独善のバランスのとりかたや「公益」の範囲の定め方の難しさを感じました。そして曽田さんのコメントに共感しました。
それから、質疑応答で私的メディアとしてのネットとNGOの共通性について言及がありましたが、そんなところにも両者の親和性が窺えて興味深く思いました。

匿名 さんのコメント...

大沼先生のお話を聞いて、公共性とはそこに参加するひと次第で変化し常に更新され続けていくものであり、だれもが参加できることがその大前提なのだということを再認識しました。そう考えると、「KY(空気が読めない)」ではないですが、その場の空気に過敏になって意見を表明することを事前に抑止してしまうのは、そうすることで自らがマイノリティになってしまうことを避けているわけで、そのような状況は公共性の不在を示しているように思えます。マイノリティの存在、マイノリティが存在できることが公共性の担保には不可欠なのだと思いました。

匿名 さんのコメント...

先日の大沼先生の講義、大変興味深く拝聴いたしました。『日本はもっと移民を受け入れるべき』『多民族国家を目指すべき』という点に対して、私は国際交流の分野に関しても興味を持っており、そうだとうなずける半面、果たしてそうなのかと言う疑問もあります。
現代においては、多くの場面で言えることかもしれないのですが、日本は島国という地形と培った歴史から、独自の文化や考え方があると思いますが、地続きの国のような条件の違いのある国々のそれをそのまま取り入れることが果たして正しい選択なのかという面で、少し疑問が残ります。
あと、左右の話に関してはやっぱりさっぱり 勉強不足でした・・・

匿名 さんのコメント...

講義の最後に大沼先生が述べていた「自分を疑い続ける」ということが印象に残っています。講義中の先生の一貫した姿勢を伺いながら、多様性のある場で活動していくには、自分がどのように見ている/見られているのかを常に問い続ける必要があると思いました。それは多様性のある場が一定ではなく、常に変化し続ける場であることをも意味しているのではないでしょうか。
また、多様性が必ずしも問題を解決するわけではなく、その問題を新しい展開へと導いていく大きな影響力を持っているのではないかと講義を聴きながら、ふと思いました。

匿名 さんのコメント...

さきほどは済みません、上手く投稿できず、ご迷惑おかけしました。
では、コメントをさせて下さい。

講義の前に先生の著作「慰安婦問題とは~」を読み、先生の暖かなお人柄と、現実的な問題解決への対処に感銘を受け、講義の後ではすっかり大沼ファンになってしまいました。
数年前のイラク人質事件に対する一連の流れにとても憤りを感じ、自己責任一色になったような日本社会の同調主義に不安を感じておりましたが、先生のような方もいらしたのですね。
「最小不幸に立脚した公共性」その一方で「自らをも疑う視線をもってほしい」という御言葉が得に心に残っています。。

匿名 さんのコメント...

うっすらと存在を想像できても、目の当たりにすることの無かった、社会を動かし牽引する方々。確実にその一人である大沼先生のお話を聴くことは、純粋に喜びでした。
さて、「公」と「私」を隔てる膜があると思います。「社会的マイノリティは全ての人にある」ことに気付けば、膜の向こうが透けて知覚される。つまり壁から膜になり、荘子の言う「公ー自らの囲いをひらく」ことなのだと思いました。
この課程を経ての「みずからの自由」であり、世間を騒がす犯罪も「私」の壁のなかで起った悲劇ではないでしょうか。先生は表現者に共通性=完成を目指すよう励ましてくださいましたが、私は僭越ながらも誰かの壁を突き抜け「(膜の向こうにうっすらと)なんか変なものがある」と知覚される表現を目指すのだと、改めて決意した次第です。

匿名 さんのコメント...

最近の猟奇的凶悪事件に強い憤りを覚える。

大沼教授が言及した「最大多数の最大幸福」という近代民主主義の功利主義的幸福概念では、最早、現代社会は救えない。
野党某氏の提唱する「多数の幸福を求めるより、最少不幸を目指す」との政治的信条は評価に値するが、現実生活に根差した実証を示してほしいものだ。
多様性の時代──公であれ私であれ、究極のマイノリティたる「一人の人間」に帰着しなければ、何も始まらない。

匿名 さんのコメント...

国家的公共に優る市民的公共のあり方を見つけたときに、私たちはその「公共」を支えるひとりでありたいと思うのではないでしょうか。大沼先生がなさってきた活動の例もそうですが、国家的な公共では成し得ないことをすでに始めているNPOもあります。これらを批判したり応援したりしながら言論を作っていくメディア。大きなメディアに任せるだけでなく、自由な公論の場が成長してこそ、市民社会の力が形成されるのだろうと思います。コーヒーハウスの時代のような相互の情報交換、近くにいる人と話し合うことも大切かな?と思いました。

匿名 さんのコメント...

先日の秋葉原の事件についてのコメントが出ていますが、私もこの事件にはショックを覚えました。大沼先生の講義で「ケンカのしかた」という言葉が出ました。現代の日本人は衝突を避けようとするあまり他人と一緒に考えていくことができなくなっているように思えます。そこには、日常的な表現力の欠如もあるのではないでしょうか。「おはよう」でも「元気?」でもよいのですが、たった一言の当たり前の挨拶で、壊れそうな人の「心」は修復されるのではないでしょうか。まずは誰もが簡単にできることから取り組みたいと思いました。

匿名 さんのコメント...

「差別はよくないことだ」「多様性を認めよう」という考えが社会の中で一般的になればなるほど、「ではその社会の中で、自分はどうありたい、どうあるべきだろうか」をより深く考えなければならないのだと講義を受けて感じました。
日々の生活に忙殺されてしまうと、自分の「怒り」や「疑問」に対してどんどん鈍感になってしまうように私は感じています。そのためにも、先生の言われていた「自らを疑う」視点や、複眼的に物事や自分を見つめることを、これまで以上に大切にしていきたい、この講座に参加することをそのきっかけにしたいと考えました。

匿名 さんのコメント...

将来やりたいこととリンクし、非常に面白かったです。さまざまなポイントで感動しましたが、以下の点を、私のコメントとして挙げたいと思います;「公=国=政府=官」という話が出ていましたが、私は一市民として、行政のサポートのもと活動していたときに、活動に関わりのない方から「どうせ官なんでしょ」と言われたことを思い出しました。市民も公の担い手なんですよね。私自身も、そういえば「公といえば官」というイメージを持っており、公についてもっと深く考えてみたいと思いました。

匿名 さんのコメント...

マイノリティと画一主義、多様と同一というお話をしばらく考えていて連想したのは、都市開発です。大資本に支配されて土地の文脈が押し流され、空洞化するまちなみが目立ちます。商業ですからマイノリティとは言えないかもしれませんが、人の存在と切り離せないものだと思っています。また、ITの発達によって一人ひとりの「個性」化が求められる(また、可能になる)ことが、実は逆に没個性につながっているのではないでしょうか。

先生の市民運動の原動力が、「誰かのため」
ではなく「日本が好きだから」という思いであることが印象的でした。
公共性について新たな見方を与えてもらいました。まだまだ考えていきたいです。

匿名 さんのコメント...

公憤は観念的で自己陶酔・独善に陥りやすい/自らの権力性の自覚し疑う自分が絶えず傍らにいる生き方が大切。公共性は重要/一方で公共性を疑い「私」に拘る文化もあっていい。芸術の場合、公共性は結果としてついてくるもの/動機は私的で構わない・・・
「公共」と「私」の両方を真剣に考えないと、片方だけでは人は幸せになれないと感じました。大沼先生自身、公憤に興奮(!)しつつ、具体的な局面では一人一人の「私」に真摯に向き合おうとした過程が、『「慰安婦」問題とは何だったのか』だと思います。そう考えると文化や芸術ができることは、「私」からの「公共」の批判的問い直しなのかもしれません。

公開講座運営委員会事務局 さんのコメント...

(事務局です。大沼先生より、以下のコメントをメールでお預かりしましたので、転記させていただきます。)
受講生のみなさんの感想、コメントを拝読。楽しく聞いていただけたようで、とても嬉しく思っています。
お一人、マイノリティについてもっと聞きたかった、という方がおられ、私も自分の研究・実践の大部分をマイノリティの問題に費やして来たので、その気持ちはよく分かります。将来また機会があれば今度はそこに絞ってお話しします。今回に懲りずにまたよんでください。