2008/08/07

レポート|事例3 妹島和世(建築家)

2008年7月11日第5回の公開講座は、妹島和世先生・建築家の講演でした。妹島先生は「建築の設計を職業にしている」と自己紹介をされ、前置きとして「美術館の建築設計においてどのようなことをやってきたのか、また現在どのようなことをやっているのか」また「講座のテーマである【市民社会再生】のために建築家がどのようなことをやっているのかについて話します」と述べられて講義が始まりました。講演の内容はこれまでに手がけてこられた美術館建築のいくつかについて、実際に建物が完成するまでに作られたデッサン・イメージ図・建物完成後の外観などのスライドが提示され、そこに解説が加えられるかたちで進んでゆきました。また後半では、美術館建築以外にも現在進行中のさまざまな取り組みや構想についてお話がありました。ここでは紹介された取り組みの全てについて報告するスペースがありませんので、金沢21世紀美術館(金沢市)ともう一つローザンヌ市(スイス・ヴォー州)に建設中の大学施設についてお伝えします。

金沢21世紀美術館の建っている場所は金沢市の中心に位置していることから、コンペの段階から「誰でも入ることのできる開かれた場所」であること、美術館施設に加えて市民のための交流ゾーンが設けられること、などが決まっていたそうです。その条件の下に「公園のような場所」として、美術館ゾーンと交流ゾーンが一つの建物の中で互いに繋がっていて、建物にどこからでも人が入ることのできる「裏表のないデザイン」を提案され、それが採用されたそうです。ここから、私たちが現在実際に見たり訪れたりすることのできる美術館建築が始まったのです。コンペでのデザインが受け入れられた後、市とキュレーターと建築家という異なる立場の三者が集まって、それぞれの立場からの筋道をすり合わせるための話し合いが重ねられました。建物周辺の木々の配置やエントランスの数、展示室自体のプロポーションやその配置、また天井の高さや扉の大きさなど細部にいたるまでが、三者の話し合いのもとで決定されていったそうです。ここで市はメンテナンスの側面や建物の一般性を求め、キュレーターは展示の筋道を考慮して、というそれぞれの立場からの意見のすり合わせが何度も行われて出来上がった建築だったということでした。
トレド美術館ガラスパビリオン(アメリカ・オハイオ州)、ニューミュージアム(ニューヨーク市)、大倉山(横浜市)で進行中の集合住宅など次いで、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のROLEXラーニングセンター(スイス・ローザンヌ市)の建築が紹介されました。この建物では、図書館・カフェ・多目的ホールなど異なる機能が一つ大きな部屋に集合している複合施設ですが、建物の一部が空中に浮き上がっていたり、浮き上がった部分へ行くためのいくつかの道が地面から緩やかに立ち上がっているなど、建物全体が大きく波打っているように見えます。この施設では、「異なる機能を持った場所がそれぞれ分かれていながら大らかに繋がって、あらゆる分野の学生が集まることができる場所」ということを考えてデザインされたそうです。この建築について先生は「ひとが移動することで空間の見え方が変わる」ということも繰り返し述べておられました。異なる機能を持った場が一つの部屋に集合していても建物全体に高低差がつけられているために、人が動けばそれだけ目線の高さが変わり、部屋として繋がっていることがわかりながら、視線は遮られるということが起こるそうです。さらに、例えば徐々にエントランスが見えて中にいる人の活動する様子が見えてくる、あるいは徐々に建物の外に広がる景色が見えてくるといったように、空間が姿を変えながらあらわれるということが起こります。自らが移動することによって見えてくる景色が変化するということは、少し離れた場所の出来事や、建物の外側の景色との距離感を保ちながらかつ緩やかに繋がりを意識することができます。
いくつかの例が紹介されたなかで、施設自体のもつ目的や条件を越えて先生がデザインする建築の全体を覆っている考え方としてわたしの印象に残ったのは、一つには「公園のような」という言葉で表される「ある目的を持った人々が集まって一緒になって活動することもできるし、しかも同時に一人ひとりが個別の目的をもって自分の居場所を見つけることもできる場所」というものでした。「公園」とは「みんなの場所でもあり、同時に自分だけの場所」としてそこを使う人の感覚の中にできあがってくるものと考えられます。建物を作るということを通じて、人々の感覚の中に生まれる「場」を実際に形づくることを見ておられるのだと考えました。また二つ目に「環境と何らかの関係を持てる建物」や「周辺施設と同調しながらも離れている」、または「呼吸する建築」(この言葉が大変印象的でした)という言葉で表されるような、建物が環境との関わり・繋がりを持った在り方についても何度も繰り返し述べられていました。建てられる環境に完全に溶け込んで何も変化をもたらさないものではなく、新しく建築することで社会のなかで新たな関係性を生むような建物を考えておられるということも述べられていました。

「市民社会再生-文化の射程」というこの講座の大きなテーマを考えるとき、人と人が何かしらの関係性を築く「場」というものについて具体的に考えることは大変重要なことと思われます。今回の講演では、「場」という形を持たないものに、建築することを通じて具体的な形を持たせる試みについて妹島先生はいくつもの印象的な言葉を使ってお話しくださいました。建築という実践から「市民社会再生」へのアプローチを聞かせていただき、それでは私たちはどのような方向からのアプローチを試みることができるのかということを改めて意識することのできた講演だったと思います。公開講座という緩やかな繋がりの中で、一人ひとりまたはグループ、受講生全体であと半年かけて考えてゆくための課題であるでしょう。
文責:木下紗耶子

8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「場を作っていく」というお話はとても興味深く、また数々のスライドもご本人の解説付きで堪能でき、贅沢な講義でした。
妹島さんというと、表参道のDiorのショップといったラグジュアリーなイメージがあったため、里山の開発のお話は新鮮でした。
自然のままにすれば一部の組み合わせの植栽しか残らないが、人間の手を加えることにより多様性を残せるとお聞きし、手つかずの自然が一番と思いこんでいた私の既成概念が崩れました。山を生かしつつどのように利用できるか、道路を作って分譲するだけではない、難しいテーマに挑戦されていて、今後どのように展開されるのか楽しみです。
同様に「島」の開発のお話も面白く、是非もっと詳しくお伺いしたいと思いました。
建物だけではなくその周りの空気や訪れる人の気持ちも動かす「公共の場」について考える良い機会となりました。

匿名 さんのコメント...

今回のお話で、私自身が一番印象を受けましたのは、美術館建設の主体である「行政・スポンサー(金沢市)」と、美術館の頭脳とも言うべきキューレーションを担当する「学芸員」と、そして実際の「箱」を建設する「建築家」(この場合は美術館と言う「アート」作品を作り出す「アーティスト」に相当する、と思いました)が、お互いの意見をぶつけ合いながらも、理想の美術館の建築という一つの目標に向かって、信頼関係に基づいた協力関係を保ち、プロジェクトを成し遂げた、と言うことです。

私自身の経験では、特に「文化」という、絶対的なものさしが存在しないプロジェクトにおいては、このような幸せなプロジェクトは多くない気がします。
いわゆる、経済社会においては、『利益を上げられたか、否か』のものさしがあり、利害関係の異なる複数の立場のものが協力する際には、最終的な「利益」というものさしによって、全員がある程度は納得する合意点に到達できるのです。
しかしながら、文化プロジェクトの場合、例えば、何をものさしにするのか、「来場者数」や「マスコミの注目度」のような経済的な成功なのか、「内容・コンセプト」の素晴らしいものをよしとするのか、その際、専門家に「ウケル」ものか、一般大衆に喜ばれるものか、余りにものさしがありすぎて、そのプロジェクトにおける「ものさし」の合意にいたるまでに、かなりの議論が必要となり、えてして「議論の苦手な日本人」(?)は、その途上で感情的に対立してしまい、さらには、各担当者が背負っている組織の利害関係に振り回され、完了の頃には、プロジェクト自体が疲弊しきってしまっていることが多いように思います。

ちょうど3年位前に、金沢21世紀美術館を訪れたことがあります。話題になっておりましたし、建物のチラシ等も見ていたのですが、実際に見た最初の印象は、随分「軽佻」な建物だなあ、と言うものでした。考えてみれば、私自身の美術館のイメージは、オルセー美術館にしろ、海外の地方都市にある小規模な美術館にしても、東京国立近代美術館、あるいは東京都現代美術館のような重厚な建物を前提としており、金沢21世紀美術館はそのイメージからはまるで外れているわけです。今回、妹島先生のお話を伺い、ようやくその『軽佻さの意味するところ』が見えてまいりました。そのコンセプトを理解するためにも、また、「幸せなプロジェクト」の現在進行形の姿を確認するためにも、ぜひ、再訪したい、と思います。
(2008・8・12)

Gグループ イマイ

匿名 さんのコメント...

 以前見にいった「伊東豊男展」に寄せられていたコメントや、芸術選奨の授賞式でのスピーチを拝聴した印象から、ソリッドな感じのかたをイメージしていたので、妹島先生の講話がとても対話的であるのに感銘を受けました。
 建築家にとってコンペとは文字どおり「戦い」であるわけだが、「コンペの要項から求められているものを読みとる」とおっしゃっていたように、芸術でもありながら、それを多様に使う複数のユーザーがいつも存在することによって実用性を求められる建築では、戦いに勝とうとすればそもそも協調が要請されてくる。もともと建築家の頭のなかでは、造形と構造とがせめぎあっているはずだが、そこに他者の思惑もからんできて、尚のこと対話が必要となるのだろう。だからこそ建築(それも博物館建築)は、芸術と市民社会の関係を考えるうえで、中心的な領域ともみなしうるのだということが、講義を通じて何度も感得させられた。

匿名 さんのコメント...

cグループ河野
妹島先生のお話を伺った後、朝日新聞の沖縄の重要文化財「中村家住宅」の記事が目に留まりました。
中村家住宅は、各部屋が廊下を挟んで全て解放されて、どこからでも屋敷内に入ることができる、という事。建物の間に視覚の通る部分があり、裏の緑の草地、花が見えることで、開放感がある、という事です。19世紀前半の沖縄の民家の有り様が、先生の手掛けられた現代建築にも活きていると思いました。

匿名 さんのコメント...

妹島さんの美術館建築は、ローレンス・レッシグの著書「コード」における、「アーキテクチャ」そのものとして機能する、そういう建築を目指しているのではないか、という印象を強く受けました。
あるプロジェクトがあったとき、そのステークホルダー相互での、その建築に対する意志の錯綜は当然の事ととして受け止め、そのような多様性な意見があっても、充実した機能を有した建築として成立する、そういう方向を目指しているのではないかと感じます。
いわば、いろいろな関係者の意見も、すべて実は妹島さんという釈迦の手の中での出来事、、、ということではないかと、、、。
もちろん、妹島さんは意見の多様性の確保する事の重要性を訴えていたわけですけど、妹島さんの方法論は、もしかしてどのような意見が流通できるのか、という制約の方向にも作用する可能性もあって、これは今回の課題にも関連する深い問題提起にも繋げられるのではないかとも感じました。

匿名 さんのコメント...

美術館建築を中心に公共建築を建築家はどのようにデザインするのか?
旬の建築家妹島氏の手法はとてもあざやか。
最近手がけていらっしゃる美術館の設計コンセプトが、パブリックなエクスペリエンスもパーソナルなエクスペリエンスも両立する公園のような場というのは分かり易い。
オープンとナチュラルというキーワードを具現化するためのデザイン上の工夫や素材との格闘など、多岐に渡る建築家の仕事や、クライアント、ユーザーなどステークホルダーと重ねられているきめこまかな協議のエピソードなどから、グローバル且エネルギッシュな活躍に感銘を受けました。
市民社会を'デザイン'するという感覚、必要かもしれません。

匿名 さんのコメント...

前回の講師南嶌先生の言葉で言うなら「最初にして終わらない展覧会」である美術館建築。妹島先生の手がけられたものは、半透明な天井を使った「呼吸する展示室」や、地域の産業や天候を考慮した素材選びなど、その場に寄り添った建築であるということと、みんなの場所でもあるし、自分のための場所でもあるといった多様な関係を結べる場であるということが素敵だと思いました。
建物をデザインするとは、そこに集まる人々の関係性もデザインしうるということ。大きい仕事ですね。

匿名 さんのコメント...

ニュー・ミュージアムやルーブルの分館ではガラスの外観が印象的でした。これは、美術館の内からも外からもつながっていることを示すだけでなく、地域に積極的に開放していることを示すものだと認識しました。これはまさに美術館の中核的なミッション=収集・保存、調査・研究、展示、教育等に、地域への開放、地域との連携が加っていくことを連想させるものでした。しかし、これは美術館側の努力だけではなく、市民側の積極的な働きかけがなければ達成できません。ともすればこれまで研究施設としての美術館と公開展示の共存をどう図るかは、日本では経営の面から特に問題を引き起こしがちでした。両者
の創造的な融合を働きかけたのが妹島さんの開放的な建築であることを意識させてくれた講演でした。