2008/11/07

レポート|事例1 田中泯(舞踏家・振付家・農業者)

2008年10月31日は後期の事例1として舞踏家・振付家・農業者である田中泯氏をお迎えしました。「しゃべっていてあきちゃうんですよね」という言葉から始まった講義ですが、インドネシアでの「場踊り」のお話しや、前回の沼野先生の公演を事前に聞かれた上で、それと絡めてお話してくださるところもあり、また逆に木下先生に質問されるなど、田中氏の人柄が感じられました。最後には、田中氏の行っているワークショップの様子を映像とともにご紹介くださいました。
前回の沼野先生の講義と絡めては、越境についてお話いただきました。境界には、見える境界と見えない境界があるのではないかと仰って、それぞれを説明してくださいました。
見える境界は、大人数で意思・思考を働かせやすいもの。それは、例えば株を買うとか、地所を増やすなどの、「所有する」こと、自分の「持てる境界線」を広げたいということとも関わってきます。また、優劣・勝敗など「向こう側に行きたい」と思わせるこれらのくくりに関しても、ボーダーが見えるのではないかと仰っていました。一方、見えない境界は、大勢で対処しにくいものだとします。田中氏は、認否人のことを「人間のボーダーからはずされた人」と表現し、人でないばっかりに許されたことができたのではないかと仰いました。そして、ご自身は「できれば、こっから先があっちだな」と感じられる、ボーダーラインに立ってしまっている状態を実践したいと仰いました。
ここで、「市民社会再生」に言及。
人間:ヒト社会の中で、社会を前提とした存在(つまり人非人は「人間じゃない」と言われて当然だと位置付けられる。けど、踊りがすごくなれればそっちのがいいな)
市民:ポジティブに社会に参加している人間
・・・現在生きている人間たちの文化ということ?
木下先生「人をどういう風に呼ぶのか。社会の構成員であり、社会に対してポジティブに何か変えていきたいと主体的に関わる人のこと。かつて輝いていた言葉で、今はあまりつかわれない言葉を選んだ。」
「市民社会再生」の受講生の多くが引っかかっているであろう、これらの言葉について、逆に木下先生に質問されました。
その上で、生まれた瞬間に空気を吸うようになることが、地球上の営みに参加したことになるという点で大転換だと仰いました。空気は境界のないものの最たるもの、しかし今でも境界のないものなんて多くあるといいます。そして、所有と越境の絡まりを、身体に引き付けて話してくださいました。
「自分」というもの―からだという環境―を持ちながら、それと一緒に歩き死んでいくのであって、からだの中に記憶がある、という言葉はとても印象的です。からだが自分の一番近くにあるブツであり、最初で最後の砦であって、そのことはとても大きなことなのだということ。一方で、自分のからだを自由に使い「自分」から自由になることは、自意識過剰になってしまうことと表裏一体で、自意識がおこるとできなくなってしまうといいます。それはトランスしてしまってはだめで、だけど覚醒状態にあるということが大切だということです。
記憶と身体(とコミュニティー)は、後期のキーワードですが、私はこれらがどう結びついていくのか、まだよく分からないでいます。ただ、からだのことをこんなに大切にしていいんだ!という驚きというか、疎かにしてきたつもりではないにせよ、自分の記憶として、からだに向き合ったことがなかったことに、(大げさでなく)気付かされました。これは、もちろん人によるのかもしれません。グループディスカッションの場では、表現の形としてからだを通す経験をされた方は、私が驚いていることが不思議だったようです。では私は、からだを持った存在としての相手も、見てこなかったのでしょうか。はた、とまた驚いてしまいます。ワークショップの様子を映しながら解説してくださった、見えていることの乱暴さということはこういうことでしょうか。
「ダンサーという性質から」と前置きしてから「一瞬よりもちょっと長い永遠」と仰いました。時間をどう感じながら生きているのかということのために自分が選んだ表現だといいます。しかし、「泯さんはダンサーだから」とか、「泯さんだから」という視点からこの講義をとらえることがはばかられてしまうのは、私だけでしょうか。
この講義で、ちょっとからだに興味をもってしまった方もいらっしゃるでしょう。そういえばそんなサークルもあったっけ、という人々に向けて、サークルの活動報告もぜひしていただきたく思います。
(宮川智美)

1 件のコメント:

Eグループ 村上 敬 さんのコメント...

「目隠しのワークショップを終えて目隠しを取ると、多くの人は再び身体を乱暴に扱うようになってしまう」という田中先生の御指摘を興味深く感じました。
というわけで、翌日の出勤時、目を閉じて職場の廊下を歩く実験をしてみました(一応、周囲に人がいないのを確認してから)。事前に私は「床面や壁のような"外部"の状況に気を配り、注意深く歩くようになるのだろう」と予想していたのですが、さにあらず。身体の"外部"よりもむしろ"内部"の状況(自らの筋肉の動きや脈動、呼吸といったもの)に大変意識的になった自分がおり、軽い驚きを覚えました。
一連の「手続き記憶」として身体に刻まれている、身体を取り扱うための情報がいかに膨大なものであるか、そしてそのことに日頃いかに無頓着であったかを多少なりとも窺い知ることができた気がしました。