2008/11/07

レポート|基調講演 沼野充義(ロシア東欧文学)

2008年10月24日、後期第2回目は沼野充義先生(東京大学文学部教授、ロシア東欧文学・世界文学論)による基調講演でした。タイトルは、「とどまることと越えていくこと―故郷、境界、越境について」。配られたレジュメには、①現代的現象(?)としての「越境」、②二つのノーベル文学賞受賞スピーチ―日本とその境界、③亡命文学―その光と悲惨、④日本文学の「境界」、と記されています。ここでは、簡単に(そして主観的に)講演の概要をふりかえりたいと思います。
①現代的現象(?)としての「越境」では、冷戦終結後、世界は一元化していくのか、それとも多様化していくのかという問題提起がありました。例として挙げられたのは、インターネットの普及に伴う「英語」の世界共通言語化です。しかし英語だけが世界中に浸透していったわけではなく、各地の言語にあわせてコンピューターの仕様を変換するという現象が同時に起こってきます。世界的な一元化と並行して多様化が進行するのです。したがって、あれかこれかという単なる二者択一ではなく、そのはざまの中に私達は位置していると言えるのではないでしょうか。また、中国からフランスへ亡命した高行健氏やドイツと日本の空間及び言語を自由に往来する多和田葉子氏などの例からわかるように、文化の領域で「国籍」を定めることが難しくなりつつある、というのも事実でしょう。
二つのノーベル文学賞受賞スピーチ(②)では、川端康成が「美しい日本の私」、大江健三郎氏が「あいまいな日本の私」というタイトルで各々の受賞スピーチを行った背景には世界と日本を区別する境界の変化が読み取れることをご教示いただきました。自分を規定(定義)するとは境界を定めること、という先生のお言葉に、しばしば「私って○○な人間なんで〜」と言う人は、その発言によって自分の境界を無意識のうちに作り出し、その中に自分自身をつなぎとめようとしているのではないかなどと考えました。
③の「亡命文学―その栄光と悲惨」については時間の制約があり詳しくは触れられなかったのですが、過去を向く「求心的なもの」と「遠心的なもの」として、過去に戻りたい・望郷の念・母語への愛着といった方向性と、反対に未知の領域を開拓してゆこうとする方向性を説明してくださいました。亡命とは境界を越えて出てゆくことですが、境界が曖昧になりつつある現在でも、越境することはやはり簡単ではないように思われます。内にとどまろうとするのか、外に出て行こうとするのか。ここでも①と同様、二極のどちらか一方向に進んでゆくわけではなく、単純には語り得ないということが露わになりました。
日本文学の「境界」(④)では、日本語で書き、日本語で読まれることを前提とした日本文学というものと世界文学との境界が曖昧になってきているというご指摘がありました。芥川賞受賞が記憶に新しい楊逸氏の使った「汗玉」という表現などを例に、ちょっと違和感を覚えるような表現を切り捨てるのか、それともその差異にこそ新しい表現の可能性を見出してゆくのか、という問いかけがありました。執筆・発表する言語や表現方法、記憶など、これまで自明のこととして共有されてきた前提が今揺らいでいるのでしょう。
コミュニティとは、「何かを共通にもっている」者の集まりであるといいます。人・物・情報そして文化も移動する時代にあって、今私達は何を共有しどのようなコミュニティを築こうとしているのでしょうか。「公共性・多様性・マイノリティ」という前期のテーマから「記憶・身体・コミュニティ」という後期のテーマへのつながり、そして広がりを感じさせられる基調講演でした。
講演の内容自体は奥深いものでしたが、穏やかでかつ随所にユーモアを交えた沼野先生のお話に会場の空気は終始和やかでした。質疑応答も盛り上がり、中には川端の「美しい日本の私」と大江の「あいまいな日本の私」にひっかけて、「夏目漱石がノーベル賞を受賞したとしたら、どのようなタイトルで受賞スピーチをしたと思うか」というような珍(?)質問も飛び出しました。
ちなみに、沼野先生は「可笑しい日本のあなた」という文章を『200X年 文学の旅』(作品社、2005年)に書いていらっしゃいます。柴田元幸先生(英米文学、翻訳論)との共著です。読書の秋、興味をもたれた方は是非ご一読ください。
質疑応答のあとは、早速“サークル”のメンバー募集が3件ありました。
これからどの“サークル”に入るか、はたまた自ら旗揚げするか。悩みどころですが、自らの「境界」を定めず、寧ろ普段はあまり関わらないような分野の活動に「越境」を試みるのも良いかも知れません。
(三石恵莉)

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