2008/05/11

2年目の文化資源学公開講座へようこそ|木下直之(東京大学)

昨年から始まった文化資源学公開講座「市民社会再生」は2年目を迎えました。3年間で、(1)現代日本の社会と文化の現状分析 →(2)問題点の整理と望ましい社会の構想 →(3)構想の実現=「市民社会再生」に向けた方策の開発、という具合に、段階的に考えていこうという企画ですから、今年は、昨年の講座で明らかになった個別の問題を整理し、それらの共通項や構造を探し出すことが当面の課題です。今年から新たに受講されるみなさんも、今はそんな段階なのだということを、頭の片隅においていただきたいと思います。
前期・後期のそれぞれのサブタイトルに挙っている言葉、すなわち「公共性・多様性・マイノリティ」、「記憶・身体・コミュニティ」が、そのための手掛かりとなります。いずれも、昨年の講座で話題になった言葉です。
たとえば、「画一化された社会」という現状を憂い、「多様性を認める社会」をこれからは目指すべきである、という問題が昨年の議論の中から出てきたとします。いや、実際に出てきたのですが、では、どのような状態を指して「多様性」が認められていると見なすのか、という問題をつぎに考えなければなりません。言うは易し、行うは難しです。
文化多様性や生物多様性という言葉をしばしば耳にします。そのつど、多様であることの最小単位は何だろうという疑問が、私には浮かびます。昨年、東大の隣の不忍池に、ワニガメを指して、「異常な生物」に注意という看板が建てられました。そして、すぐに、「異常な生物」は「危険な生物」に訂正されました。生物の多様性を認めるのならば、「異常」な生物はありえないからです。しかし、ワニガメは、人にかみつくという点で「危険」であるばかりか、ある地域の生態系を破壊し、結果的に生物多様性を破壊するという点でも「危険」だと見なされるがゆえに、排除されるのです。看板の「生物」を「人物」に書き換えても同じでしょう。建前としては。
話を人に限って(個人的には、講座の範囲を類人猿まで広げたかったのですが、やむなく人の社会に限定しました)、民族や地域社会に多様性を追い求めるほどに、集団は分解され、最後は個人に行き着いてしまい、多様性=個性ということになりかねません。しかし、個人の中にさえ複数の私がいるという自覚は、みなさんも大なり小なりお持ちではないでしょうか。その一方では、誰もが何らかの集団に帰属しているという意識をたしかに有しているはずです。しかも、その集団は、大は国家から、小は家族や大学や職場などまで複数あるはずです。
国民が画一的な生活を強いられる全体主義国家を一方の極とすれば、その対極には、個人が好き勝手に暮らす社会が想定されます。それらはいずれも、非現実的な社会であり、現実の社会は、両者の中間のどこかに折り合いをつけ、建設されてきました。妥協の産物、といって悪ければ、調整の産物です。新たな社会を構想するということは、新たな調整、新たな仕組みづくりにほかならず、そのためには、いったん「多様性」の理念を問うという作業が不可欠ではないか、と私は考えています。
そんな話から、初日の講義を始めたいと思います。この公開講座は、講師が受講生に向かって、「市民社会再生」の処方箋を、「お待たせしました、ハイ、どうぞ」と渡す場ではありません。いっしょに、処方箋をつくる場です。
そのためにも、今年はクラスを編制し、みなさんで議論する機会を設けることにしました。たぶん、初日にもまた口にすると思いますが、公開講座の会場となる古色蒼然とした法文2号館1大教室は、みなさんが1週間おきに、学校や仕事を終えて帰ってくるホームグラウンドだと思ってください。
1年間、どうぞよろしく。

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