2008/05/27

感想文●大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』

このエントリーでは、アシスタントがあらかじめゲストの著作を読んで、どのような活動をされている方なのか、簡単にご紹介します。皆さんが文献に手を伸ばすきっかけにしていただきたいと思います。

●大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』
 今回の講座に先立って、大沼先生の著作を拝読しました。「慰安婦」問題について、ご自身も中心となって活動された、アジア女性基金についてのことを中心に書かれています。「慰安婦」問題とは何だったのか。それを、「『歴史認識』をめぐり『被害国』との付き合いはいかにあるべきか」という問題と共に、「政府・メディア・NGOという公共性の担い手のあるべき姿とは何か」という問いについて読み解くというものです。
 私が興味深いと思ったのは、「多様性」と「公共性」という言葉です。本講座のキーワードとも重なります。漠然とした「国家」という言葉の中に、個々の人間が立ち現れてきます。ちょっと抽象的な表現かもしれませんが…日常では、私達は「個人」でいることに慣れてしまっているかも知れません。しかしマス・メディアや政治の場では、一個人として実行力をもつ主体として関われることに意識的でいられるでしょうか。その行動の先に、同じ「人間」を認められるでしょうか。
 「被害者」の側が背負うナショナリズムを、切り離して考えることはできません。しかし、それを認めつつも「被害者」個人の意向を実現することもまた、重要な解決策の一つといえます。それぞれの元「慰安婦」・その元「慰安婦」自身・問題の解決策、この三者すべてについて「多様性」を認める、そのためには、「個人」の存在を認める社会認識が必要だと思います。また一方で、マス・メディアからアジア女性基金に対する、「国による救済」ではないという種の批判がありました。それに対する大沼先生の、「国民」としての個人は「国家・市民として公共性の役割をはたす存在」であるというご指摘に納得しました。アジア女性基金という民間団体が補償を行うのではなく、「国民」としてアジア女性基金を通して補償の主体となることができる仕組みがあり、そのようなかたちも「公共性」の一つの形だといえます。
 「慰安婦」問題という具体的な事例から、大沼先生の「市民社会」における「多様性」と「公共性」についての考え方が伺えました。
(宮川智美)

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